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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「言えなかった言葉」

2025年06月27日 05時30分35秒 | ルカ福音書より
ルカ福音書15章からの続きで、3回目です。

父親から財産を分けてもらい、

遠い国に出かけて行った弟息子は、
クリスチャンの間では、放蕩息子と呼ばれています。

その彼は、すべての財産を使い尽くし、

お腹を空かして、
トボトボと長い道のりを歩いて

父親のいる元の家に帰って来たのでした。

もう息子と呼ばれる資格はないので、

雇人として家に入れてもらおうと思い、
お父さんに会った時に、

こう言おうという言葉も用意していました。

父の家のことを思い出した時、
最初に彼の頭に浮かんだのは何でしたか。
そうですね。
父の家には食べ物に何の心配もしていない雇人が
大勢いるということでした。

何日くらい歩いて帰って来たのかわかりませんが、
まだ、家に帰りつく前に、その近くまで来た時に、
ひとりの人が彼の姿を見て、

家から飛び出してきました。
お父さんでしたね。
「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて・・・」(20節)
とありますので、
この父親は、

その日たまたま息子を見つけたのでしょうか。
というよりも、
恐らく毎日、「今日息子は帰ってくるか。今日帰ってくるか」
と家から遠くを見ていたのではないか

と想像できます。
家を出て行った時の姿とは

だいぶ変わり果てた息子の姿だった
と思われますが、

父親の目にはすぐに息子とわかったようです。

さて、このふたりが顔と顔を合わせて、
久しぶりに会ったのですが、
この時、

ふたりのうちのどちらが先に声をかけたでしょうか。
または、どちらが先に何をしたでしょうか。
そうでしたね。
父親の方でした。
「駆け寄って彼(息子)の首を抱き、口づけした。」(20節)
スゴイですね。
父が弟息子を抱きしめたのは、
息子の反省の言葉を聞いた後でしたか、

前でしたか。

ここでは、

父親の方が先に弟息子に駆け寄って来ていますが、
普通のお父さんであれば、
こんな時、どういう対応をするでしょうか。
わたしが考えられる一つのことは、
遠くに帰ってくる息子の姿を見て、
自分はさっと姿を消し、後は家内に知らせて、
「お前に任せる」と言う方法です。

聖書の話の方に帰ります。
その後、何かを言ったのはどちらでしたか?
そうです。息子の方が何かを言いました。
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、
あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。」(21節)
豚を飼っていた時、
こう言おうと用意していた言葉を

彼は口に出して言えました。
彼が用意していた言葉はこれがすべてでしたか。
他になかったでしょうか。


15章19節の言葉をもう一度見てください。
彼は用意していたある言葉を言っていませんね。
これは一番肝心な言葉だと思いますが、
なぜ言わなかったのでしょうか。

そこまで言った時、
彼の言葉をさえぎって父親の方から

何か言ったからでしょうか。
それとも、
その肝心な言葉が

何かの理由で彼の口から言えなかった、
のでしょうか。
その言葉こそ、彼が豚を飼っている時に、
是非ともそう言おうと思っていた言葉

だったと思います。

彼が言えなかった言葉について、

あなたはどう思いますか。

次回に続きます。


浜崎英一

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「泣き面に蜂」

2025年06月24日 05時30分53秒 | ルカ福音書より

ルカ福音書15章からの続きです。

父親から財産をもらって、すぐに家を出た弟息子は、やがてもっていた財産をすべて使い尽くしました。
 その時、何が起こりましたか。


おわかりですね。
その時、ちょうど飢饉が起こりました。
 雨が降らない日が何日も続いたのです。

そのため、生活に窮する人たちが続出したようです。
この息子にとっては、
持っていた財産をみな使い尽くし、
その上で、多くの人が食べていけないような
飢饉が続いたのです。
こんな時、よく言われる言い方がありますが、
思いつく言葉がありますか。

そうですね。
泣き面に蜂、ですね。
また、踏んだり蹴ったり、です。
まだ、別の言い方がありますか。
ありますね。
弱り目に祟り目、悪いことは重なる、などです。

日本語にはこのような時の言い方が
いろいろあります。
ということは、この弟息子に限らず、
この人生、昔も今もこのような辛くて悲しい
経験をする人たちがいるということです。

 豚を飼う仕事を与えられたものの、

この人は、豚が食べているいなご豆で
腹を満たしたいほどでしたが、
何か与えてくれる人は誰もいませんでした。
この光景を思い出せますか。

 その後のルカ15章の話です。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに
身を寄せたところ、
 その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で
腹を満たしたいほどだったが、
 だれも彼に与えてはくれなかった。
15:17 しかし、彼は我に返って言った。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、
なんと大勢いることか。
 それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。


彼は人の豚の世話をしながら、
豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほど、
お腹を空かしていました。
その時、ふと彼は我に返ったのです。

我に返ったとはどういうことでしょうか。
そして、父の家のことを思い出しました。
その家にはパンを腹いっぱい食べている雇人が
大勢いることを思い出しました。
自分も今では豚を飼っている雇人であり、

父の家の雇人と比べるとその違いの大きさに
気づいたのです。
自分は飢えて死にそうな雇人で、
父の家の雇人は腹いっぱい食べている雇人である
ことに気づいたのです。
その後、この人はどうしたでしょうか。


15:18 立って、父のところに行こう。

そしてこう言おう。
 「お父さん。私は天に対して罪を犯し、

あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。
雇い人の一人にしてください。」』


彼は「もう息子と呼ばれる資格はないので、

雇人の一人にしてください」と言っています。
もちろん、息子と呼ばれる資格はない、

と言っていますので、
自分のやったことについて
反省はしているようですね。

そして、彼はとぼとぼと家路につきました。

どのくらいかかって家に帰り着いたのでしょうか。

13節には「弟息子は、

すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。」
とありますので、遠い国から帰って来たわけです。

さて、この家に帰って来た息子を

最初に目撃したのは誰でしたか。
 その人は、息子と呼ばれる資格はない

と言う彼に対して、
どういう態度を取ったでしょうか。

次回に続きます。

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「わかりにくいところは」

2025年06月20日 05時30分55秒 | ルカ福音書より

一般的に言って、わたしたちのこの国、日本には、
神の存在を漠然とではあっても、
信じている人たちは少なくないと思います。
正月の初もうでにはどこの神社にも大勢の人が
出かけて行っています。

神もいろいろあって、よくわからない
と思っているも少なくないと思います。
神とはどういう方かについては漠然としているのが一般的であり、
普通のことになっています。

それに対して、聖書ほど、
神とはどういう方かについてハッキリと教えている書物は
他にないのではないかと、わたしは思います。

もう一つ、あなたやわたしは、何かのことで後悔の念から
「自分はもう親としての資格はない」とか、
もう自分は「クリスチャンとしての資格はない」
と思ったことはないでしょうか。

今回から、何回かに分けて取り上げる聖書のお話も
こういったテーマを取り上げています。

ルカ15:11‐24(新改訳2017)
イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
15:12 弟のほうが父に、
『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。
 それで、父は財産を二人に分けてやった。
15:13 それから何日もしないうちに、
弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。
 そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たした後、
 その地方全体に激しい飢饉が起こり、

彼は食べることにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、
 その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
15:16 彼は、
豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、
 だれも彼に与えてはくれなかった。
15:17 しかし、彼は我に返って言った。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、
なんと大勢いることか。
 それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。
 「お父さん。私は天に対して罪を犯し、

あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。
 雇い人の一人にしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、
自分の父のもとへ向かった。
ところが、まだ家までは遠かったのに、
父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、
 駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
15:21 息子は父に言った。
『お父さん。私は天に対して罪を犯し、

あなたの前に罪ある者です。
 もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。
 手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったのだから。』
 こうして彼らは祝宴を始めた。

この話は、誰にでもとてもわかりやすい話ですが、
よく読んでみますと、
わかりにくいところも出てきます。
わかりにくいところはどこでしょうか。
 このお話の場面、状況を思い描いていただくために、

これを4枚の紙芝居にすると、
どういう場面に分けられるでしょうか。
次回に続きます。

浜崎英一

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「神に対して富む者」

2025年06月17日 05時30分00秒 | ルカ福音書より

前回の続きです。

ルカ12章でイエスは
「自分のために蓄えても、神に対して富まない者は
このとおりです」と言われました。
では「神に対して富む者」とは、
どういう人のことでしょうか。
アフリカの奥地に宣教師として行く人、
誰でも出来ないような神のために素晴らしい働きを
している人のことでしょうか。

エペソ4:28
「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。
むしろ、困っている人に分け与えるため、
自分の手で正しい仕事をし、
労苦して働きなさい。」(新改訳2017)

ここには「仕事をし、労苦して働きなさい」
と言われています。何のためですか。
自分のためだけではありません。
また、もっともっとという貪欲な生き方のため
でもありません。
「困っている人に分け与えるため」
と言われています。

 次のみ言葉でも同じようなことが言われています。


使徒 20:35
 「わたしは、あなたがたもこのように働いて、

弱い者を助けなければならないこと、
また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。(口語訳)

これらのみ言葉から「神に対して富む者」とは、
このような「与える」生き方をしている人のことだ、とわたしは思います。

この生き方は時間やお金を必要以上に無駄にしない、ただ「もったいない」という生き方ではありません。

更に、次のみ言葉はもっとハッキリしています。

ローマ15:1‐2
 私たち力のある者たちは、

力のない人たちの弱さを担うべきであり、
自分を喜ばせるべきではありません。
私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、
益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。
(新改訳2017)

これらのみ言葉を信じますか。
 「与える」という、

この神の国の価値観に生きる人は、
もっともっとという貪欲な思いから
解放されている人です。
また、「もったいない」という必要以上の束縛からも
解放されている人です。
このような自由と解放を日々味わう人こそ、
「神に対して富める人」ではないでしょうか。
天の御国の前味を味わっている人
ではないでしょうか。

もう一度、ルカ12章の主イエスの言葉を
確認しておきましょう。

12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。
「わがたましいよ、これから先何年分も
いっぱい物がためられた。
さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし、神は彼に言われた。
『愚か者、おまえのたましいは、
今夜おまえから取り去られる。
おまえが用意した物は、
いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のために蓄えても、
神に対して富まない者はこのとおりです。」
(新改訳2017)

次回からは、あの有名なお話、
ルカ15章のお話に進みます。
 
浜崎英一

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「時間やお金を無駄にしない」

2025年06月13日 17時12分18秒 | ルカ福音書より

前回の続きです。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
わたしのため、また福音のために、
自分の命を失う者は、
それを救うであろう。」(マルコ8:35口語訳)

これらのみ言葉に関連して、以下は、
経験からわかってきたはわたし自身の問題です。

 ある時、車の免許証を返上し、

車に乗ることをやめました、その当時、
わたしは大阪の枚方に住んでいました。
その地域はバスや電車が便利でした。
車をやめた最初の頃、バスや電車に乗る時に、
わたしが一番嫌だったことは、
バス停でバスが来る時間を待つことでした。
10分も待つことがとても苦痛だったことを
今も覚えています。
待つことが嫌だというのは
どういうことなのかと考えたことがありました。

わたしの中にどこか、お金や時間を
無駄にしてはいけないという思いがあります。
これは小さい頃からわたしのうちに築かれてきた
「もったいない」という価値観であり、
また生き方です。
その心にある思いがいろいろなところで具体的な形で表れてくるのです。

別に悪いことをしたとか、
罪を犯したということではありません。
時間やお金を無駄にしないというのは、
そのままこの世の価値観とも言えます。
世の中、
多くの人たちがそのような生き方をしています。
お金を無駄にせず、
有効に使おうとしています。
スマホやパソコンという便利なもの(最近はAI)などを駆使し、時間を取らないように、
できるだけ便利で、
効果的な方法を見つけようとしています。
それ自体は何も悪いことではありません。

しかし、わたしの場合、
もっと早く出来る方法を、もっと便利な方法を・・・とやっていくうちに、
それにいよいよ依存的になっていきました。

お金や時間を無駄にしたくないのは、
なぜなのかを問うていく時、
わかったことがあります。
大げさに言えば、
それによって自分の命を救おうとしていたわけです。これは、わたしの場合です。

便利さや楽な生き方を求め続けることで、
逆に疲れ、いらいらし、
健康まで損なってしまうことがあるという話は、
別に珍しい話ではありません。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い・・・」
(マルコ8:35)とイエスが言われる通りです。
さらに聖書の言葉で言えば、
わたしの場合、それは肉の問題です。
気づきにくい、目に見えない問題です。

 「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」

(ローマ8:5,6新改訳2017)

次回は、イエスが言われた言葉、
「神に対して富む者」とは、についてです。

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