からだで何かを感じるとか、
この違いはとても大切なところです。
ヨハネ福音書14章からです。
少し前の「道」というテーマの個所の続きです。
イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言っておられます。
14:6 イエスは彼に言われた、
「わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
どういう意味で、イエスは道なのでしょうか。
どういう意味で、イエスは真理なのでしょうか。
どういう意味で、イエスは命なのでしょうか。
まず、イエスは道です。
イエスによらなければ、誰も父なる神のもとへ行くことが出来ない。
その意味でイエスは道です。
進んでいる道が分からなくなると(ナビがないとして)、
どんな高級車に乗っていても、混乱し不安になります。
ある有名な芸能人が新築の大きな家を建てていました。
ところが、その家が完成する前にその人は亡くなりました。
道が分からないままだったかもしれません。
道であるイエスを信じ、イエスを通して、父なる神を信じ、
神に近づくことが出来るのです。
また、イエスは真理です。
真理であるイエスが言っておられることは本当のことであり、
嘘、偽りではありません。
今の世の中、嘘か本当かわからないような情報がはびこっている時代です。
更に悪魔は本当であるかのように嘘を言い、
人をだまし、偽りの父と言われています。
「おれおれ詐欺」「フィッシング詐欺」など
人をだます方法もいろいろとあの手この手と変わってきています。
嘘や偽りがはびこる社会に生きていると、
人はいよいよ本当のもの、真理を求める気持ちが強くなるのではないでしょうか。
だまされたくないからです。
1万円札の偽札は本物に限りなく似ていると言われます。
信仰とか、信じるという場合、
うそを信じるか、本当のことを信じるのかが問われることになります。
それは誰が言っていることなのか。
その人は信頼できる人なのかも大切なポイントです。
次にイエスはいのちです。
キリスト教は単なる教えの宗教ではありません。
いのちの宗教と言えます。
命にはいろいろ種類があります。
お花や木々の植物の命よりも優った命は、
犬や猫などの動物の命です。
その動物の命よりも更に優った命は人間の命です。
その人間の命よりも更に高度ないのち、
それが原語のギリシャ語では「ゾーエ」という神のいのちです。
鳥の命も、魚の命も花の命もすべて死んでいきます。
人の命も有限であって、例外なく必ず死を迎えます。
しかし、イエスのいのちは人を生かすいのちです。
あのサマリヤの女に言われたように、
イエスを信じる人のうちから、生ける水が湧いてきます。
イエスを信じる人は、有限の命ではなく、永遠のいのちをもつことになるからです。
道であり、真理であり、いのちである方、
そのイエスさまをあなたやわたしは信じています。
クリスチャンの数が少ないこの国に生まれた日本人であるのに、です。
「・・・それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、
永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16口語訳)
ある病院での話です。
ある患者さんが看護師さんに
「わしは天皇陛下だ」と言ったそうです。
すると、その看護師さんは
「あなたが天皇陛下、そんなこと誰が言ったの」と聞きました。
すると、その人は、「神さんが言った」と答えました。
すると、向こうの方のベッドから、
「ワシはそんなことは言ってないぞ」
という声が聞こえてきました。
すみません。
笑い話です。
これほどでなくても、思い込みが激しい人、
あなたの周りにいませんか。
イエスは「わたしを見た人は神を見たのです」
と言われましたが、それはもちろん、
イエスの勝手な思い込みではないことを、
ほとんどのクリスチャンは信じています。
その話に帰ります。
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを
あなたは信じないのか。
わたしがあなたがたに話している言葉は、
自分から話しているのではない。
父がわたしのうちにおられて、
みわざをなさっているのである。
14:11 わたしが父におり、
父がわたしにおられることを信じなさい。
もしそれが信じられないならば、
わざそのものによって信じなさい。
お気づきでしょうか。
9節では、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、
わたしがわかっていないのか」と言われましたが、
10節では、「・・・・信じないのか」と言われています。
この10節、11節には「信じる」に関係する言葉が
何回出てきますか。
「信じないのか」
「信じなさい」
「信じられないなら」
「信じなさい」
と4回出てきます。
「わかっていないのか」は1回です。
「わかる」という言葉と、「信じる」という言葉は違いますね。
あなたはどうですか。
「わかりたい」と「信じたい」のどちらの思いが強いですか。
わたしの傾向としては、
「わかりたい」という思いの方が
「信じたい」という思いよりも強いように思います。
イエスは「わかりなさい」とは言っていませんが、
「信じなさい」と繰り返し言っておられます。
わかれば、信じられるのでしょうか。
科学やこの世の知識についてはそうであっても、
聖書の目に見えない霊的な真理については、
わかれば信じるという人は、
結局信じられず、わからずに終わってしまうかもしれません。
イエスはこの10節、11節で、
「信じないのか」「信じなさい」と言っておられます。
もちろん、聖書のみ言葉は
その時すぐに信じられないこともあります。
しかし、聖霊の助けによって信じられ、
本当にその通りだと確信が与えられることは少なくありません。
それでもわたしの場合、信じてはいるが、
わかっていないことはまだまだ沢山あります。
「わたしを見た人は神を見たのです」
とイエスは言われましたが、
この言葉をわたしは十分にはわかっていませんが、
このイエスの言葉をそのまま信じています。
そして不思議なことに分かっていないことであっても、
あまり不安や恐れはないのです。
どう思いますか。