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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「それ」と「この方」

2024年09月27日 05時30分45秒 | ヨハネ福音書より

あなたは聖霊について関心がおありでしょうか。
わたしは関心があります。
聖霊については、わたし自身も誤解してしまうところがありました。
 からだで何かを感じるとか、
喜びなどの感情的なことなどをイコール聖霊と思ってしまうところです。

父、子、聖霊の三位一体については、
前のところで触れましたが、
このヨハネ14章から聖霊についてもう少し見ていきましょう。

イエスご自身が聖霊について16,17,26節で語っておられます。
そこでは、聖霊のことが
「助け主」「真理の御霊」「父がわたしの名によってつかわされる聖霊」と
呼ばれています。

さて、ここで二つの聖書の訳を比べていただきたいと思います。
 
ヨハネ14:17 
それは真理の御霊である。
この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、
それを受けることができない。
あなたがたはそれを知っている。
なぜなら、それはあなたがたと共におり、
またあなたがたのうちにいるからである。(口語訳)

この方は真理の御霊です。
世はこの方を見ることも知ることもないので、
受け入れることができません。
あなたがたは、この方を知っています。
この方はあなたがたとともにおられ、
また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。(新改訳2017)

この二つの個所から何かの違いに気づかれたでしょうか。
 この違いはとても大切なところです。

口語訳では、
この17節で「それ」という言葉が何回出てきますか。
数えてみると、5回も出てきますね。

この「それ」が、新改訳2017の方では、
「この方」なっていて4回出てきます。
「それ」と「この方」の違いです。

聖霊を何かの感情的な体験として理解している場合は、
「それ」とも言えますが、「この方」とは、
まさに人格を持った方ということです。
この違いについて、あなたはどう思いますか。

ついでですが、わたしは聖書全体の訳としては
口語訳聖書の日本語らしい訳にとても感謝している者です。
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「父と子、そして聖霊」

2024年09月24日 05時30分08秒 | ヨハネ福音書より

前回のヨハネ14章10,11節の続きです。
イエスは弟子のピリポに
「信じなさい」「信じないのか」と言われましたか。
これだとピリポは叱られているようです。

そうではなく、この二つは反対です。
「信じないのか」「信じなさい」と言われました。
これだと叱られているのではなく、
イエスは優しく思いやりの心で、ハッキリ言われたという感じです。
わたしにはそう思えますが、あなたはどうですか。

もう少しここを見ていきましょう。
「わたしが父におり、
父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。」(10節)
「わたしが父におり、
父がわたしにおられることを信じなさい。」(11節)

最初に「信じないのか」
とイエスは弟子のピリポに言っておられます。
この「信じないのか」というイエスの言い方をどう思いますか。

あなたは信じていて当然なのに、
信じないのかとも聞こえます。
今、信じるか信じないかを迫られているような感じにも聞こえます。
「わたしが父におり、父がわたしにいる」という、
その分かりにくい、その深い霊的な意味について、
イエスは弟子たちに詳しく説明しておられますか。
説明と言えば、ただ、次のことだけです。

14:10わたしがあなたがたに話している言葉は、
自分から話しているのではない。
 父がわたしのうちにおられて、
みわざをなさっているのである。
14:11 わたしが父におり、
父がわたしにおられることを信じなさい。
 もしそれが信じられないならば、
わざそのものによって信じなさい。

ここには、イエスが話している言葉と
行っているわざのことが言われています。
言葉とわざですね。

そのイエスの言葉とわざに父なる神が関係しているのです。
 言い換えれば、
イエスの話している言葉は
ただ自分で考えて話しているのではないということです。

また、水がぶどう酒に変わったという奇跡をはじめ、
イエスが行っている数々の奇跡のわざ、
それもイエスが単独でやっておられることではなく、
イエスのうちにおられる父が関係しているのです。

イエスの奇跡のわざについては、
イエスさまは神さまだから、
そういうことが出来て当然だと思っている人もおられます。
しかし、
イエスがここで言っておられることは、
それとは少し違います。
とすれば、
イエスの話しておられる言葉を聞く時、
それはうちにおられる父が語っておられるのです。

また、
イエスが行っておられる奇跡の数々も、
それはうちにおられる父なる神がなしておられるのです。

このことと関連して言えることがあります。
このヨハネ福音書を書いているヨハネも、
実は彼が過去の記憶を思い出して書いているのではなく、
ヨハネのうちにおられる聖霊がこれを書かせておられるのです。

 また、ローマ人への手紙から始まるパウロの手紙も
パウロがその記憶力とどこかで学んだことを
手紙として書いたのではなく、
うちにおられる聖霊によって書いたのだと言えます。

とすれば、どういうことになりますか。
今も働いておられる同じ聖霊が
わたしたちにみ言葉を教えてくれるのです。

人からの教えは知識として頭にとどまりますが、
聖霊による教えは生ける言葉として人の心にとどまり、
人を生かす言葉となります。

そして、
イエスは聖霊のことを次のように言っておられます。
ヨハネ14:26 
「しかし、助け主、すなわち、
父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、
またわたしが話しておいたことを、
ことごとく思い起させるであろう。」(口語訳)

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「とばしたところ」

2024年09月20日 05時30分50秒 | ヨハネ福音書より

ヨハネ14章からみ言葉を見てきましたが、
ここまでで、何か不審に思われることはありませんか。
そうです。
 ヨハネ14章の初めの1節から3節のところをとばしています。
その個所に関心を持っておられる方々は少なくないと思いますが、
そこをとばした理由を聞いてください。

その初めの1節から3節までに、
わたしたちイエスを信じる者たちのために、
天に用意されている場所のこと、
イエスの再臨のこと、
携挙のこと
などについて語られています。

これらのテーマについて関心がない
というクリスチャンはいないでしょう。
 しかし、このヨハネ14章では、
イエスはこの関心の高いテーマについて簡単に語って、
先に進んでいます。
そして比較的詳しく語っておられるのが、
イエスご自身のこと、父なる神のこと、聖霊のことです。

イエスが簡単に語っておられることを、
誰かが詳しく解説している場合もあります。
反対に、イエスが詳しく語っておられることを、
さっと読んでしまうこともあります。

それでここでは、イエスが簡単に語っておられることはそのままにして、
比較的詳しく語っておられることに焦点を当ててみたつもりです。

もうひとつ、付け加えるなら、わたし自身がまだハッキリしていないところは、とばしています。
ハッキリしないという意味は、
信じられないという意味ではなく、
その個所について人に話せるだけのものがないという、
それだけのことです。

わたしは聖書についてひとりですべてを解き明かし、
皆さんに「なるほど、よく分かりました」と
言っていただけるようなことはできません。
そういう者でもありません。
(少しい言い訳がましく聞こえますが)
聖書の著者に対して、聖霊がここは簡単でよい、ここは詳しく、
と指示しておられるのは、読者の側に立ってのことではなく、
主なる神の側に立ってのことです。

わたしはこれを書く時、
皆さんに分かってもらうために出来るだけ詳しく書く必要を感じています。
しかし、聖霊には分かってもらうために詳しく語ろうという意図はないようです。
なぜなら、霊的な目に見えない真理は詳しく語るほどに難しくなり、
訳が分からなくなるかもしれません。
詳しく語ることは知性に、また頭に訴えることになりますが、
簡単に語っていることは、
重要ではないという意味ではなく、
その真理は信仰によって受け取る必要があります。

しかし、聖書は「知識」について否定的な面と肯定的な面を語っています。
「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。」(Ⅰコリント8:1口語訳)
「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、
あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、
節制に忍耐を、忍耐に信心を、
信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。
これらのものがあなたがたに備わって、
いよいよ豊かになるならば、
わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、
あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。」
(二ペテロ1:5-8口語訳)


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「道、真理、命」

2024年09月17日 05時30分06秒 | ヨハネ福音書より

ヨハネ福音書14章からです。

少し前の「道」というテーマの個所の続きです。

イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言っておられます。

 

14:6 イエスは彼に言われた、

「わたしは道であり、真理であり、命である。

だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」


どういう意味で、イエスは道なのでしょうか。

どういう意味で、イエスは真理なのでしょうか。

どういう意味で、イエスは命なのでしょうか。

 

まず、イエスは道です。

イエスによらなければ、誰も父なる神のもとへ行くことが出来ない。

その意味でイエスは道です。

進んでいる道が分からなくなると(ナビがないとして)、

どんな高級車に乗っていても、混乱し不安になります。

ある有名な芸能人が新築の大きな家を建てていました。

ところが、その家が完成する前にその人は亡くなりました。

道が分からないままだったかもしれません。

 

道であるイエスを信じ、イエスを通して、父なる神を信じ、

神に近づくことが出来るのです。

 

また、イエスは真理です。

真理であるイエスが言っておられることは本当のことであり、

嘘、偽りではありません。

今の世の中、嘘か本当かわからないような情報がはびこっている時代です。

更に悪魔は本当であるかのように嘘を言い、

人をだまし、偽りの父と言われています。

「おれおれ詐欺」「フィッシング詐欺」など

人をだます方法もいろいろとあの手この手と変わってきています。

嘘や偽りがはびこる社会に生きていると、

人はいよいよ本当のもの、真理を求める気持ちが強くなるのではないでしょうか。

だまされたくないからです。

1万円札の偽札は本物に限りなく似ていると言われます。

 

信仰とか、信じるという場合、

うそを信じるか、本当のことを信じるのかが問われることになります。

それは誰が言っていることなのか。

その人は信頼できる人なのかも大切なポイントです。

 

次にイエスはいのちです。

キリスト教は単なる教えの宗教ではありません。

いのちの宗教と言えます。

命にはいろいろ種類があります。

お花や木々の植物の命よりも優った命は、

犬や猫などの動物の命です。

その動物の命よりも更に優った命は人間の命です。

その人間の命よりも更に高度ないのち、

それが原語のギリシャ語では「ゾーエ」という神のいのちです。

 

鳥の命も、魚の命も花の命もすべて死んでいきます。

人の命も有限であって、例外なく必ず死を迎えます。

しかし、イエスのいのちは人を生かすいのちです。

あのサマリヤの女に言われたように、

イエスを信じる人のうちから、生ける水が湧いてきます。

イエスを信じる人は、有限の命ではなく、永遠のいのちをもつことになるからです。

 

道であり、真理であり、いのちである方、

そのイエスさまをあなたやわたしは信じています。

クリスチャンの数が少ないこの国に生まれた日本人であるのに、です。

 

「・・・それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、

永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16口語訳)

 

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「わかることと信じること」

2024年09月13日 05時30分10秒 | ヨハネ福音書より

 

ある病院での話です。

ある患者さんが看護師さんに

「わしは天皇陛下だ」と言ったそうです。

すると、その看護師さんは

「あなたが天皇陛下、そんなこと誰が言ったの」と聞きました。

すると、その人は、「神さんが言った」と答えました。

すると、向こうの方のベッドから、

「ワシはそんなことは言ってないぞ」

という声が聞こえてきました。

すみません。

笑い話です。

 

これほどでなくても、思い込みが激しい人、

あなたの周りにいませんか。

イエスは「わたしを見た人は神を見たのです」

と言われましたが、それはもちろん、

イエスの勝手な思い込みではないことを、

ほとんどのクリスチャンは信じています。

 

その話に帰ります。

14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを

あなたは信じないのか。

わたしがあなたがたに話している言葉は、

自分から話しているのではない。

父がわたしのうちにおられて、

みわざをなさっているのである。

 14:11 わたしが父におり、

父がわたしにおられることを信じなさい。

もしそれが信じられないならば、

わざそのものによって信じなさい。

 

お気づきでしょうか。

9節では、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、

わたしがわかっていないのか」と言われましたが、

10節では、「・・・・信じないのか」と言われています。

この10節、11節には「信じる」に関係する言葉が

何回出てきますか。

 

「信じないのか」

「信じなさい」

「信じられないなら」

「信じなさい」

と4回出てきます。


「わかっていないのか」は1回です。

 

「わかる」という言葉と、「信じる」という言葉は違いますね。

あなたはどうですか。

「わかりたい」と「信じたい」のどちらの思いが強いですか。

 

わたしの傾向としては、

「わかりたい」という思いの方が

「信じたい」という思いよりも強いように思います。


イエスは「わかりなさい」とは言っていませんが、

「信じなさい」と繰り返し言っておられます。

 

わかれば、信じられるのでしょうか。

科学やこの世の知識についてはそうであっても、

聖書の目に見えない霊的な真理については、

わかれば信じるという人は、

結局信じられず、わからずに終わってしまうかもしれません。

 

イエスはこの10節、11節で、

「信じないのか」「信じなさい」と言っておられます。

もちろん、聖書のみ言葉は

その時すぐに信じられないこともあります。

しかし、聖霊の助けによって信じられ、

本当にその通りだと確信が与えられることは少なくありません。

 

それでもわたしの場合、信じてはいるが、

わかっていないことはまだまだ沢山あります。

「わたしを見た人は神を見たのです」

とイエスは言われましたが、

この言葉をわたしは十分にはわかっていませんが、

このイエスの言葉をそのまま信じています。

そして不思議なことに分かっていないことであっても、

あまり不安や恐れはないのです。

どう思いますか。

 

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