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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「古くて新しいお話」

2019年08月30日 09時22分02秒 | 聖書の真理発見

 

わたしたちの国、日本では、一般的に、特別な無神論者でなければ、神はいるのではないかとその存在を漠然とではあっても信じている人たちは少なくないと思う。しかし、その神はいろいろな神がいて、よく分からないし、もっと知りたいと思っている人は少ないかもしれない。

 わたしの知る限り、神とはどういう方かについて聖書ほどはっきりと、明確に教えている本は他にはないのではないかと思う。

何かのことで、その後悔の念から、自分はもう親としての資格はないと思ったことはないだろうか。

また、自分はもうクリスチャンと言われる資格はないと思ったことはないだろうか。

 

これから取り上げるお話も聖書に出てくるとても分かりやすく、有名のところだ。

神とはどういう方であるかを分かりやすく教えているお話である。

  

聖書のルカ15章11~24節からのお話

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、

『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言た。

それで、父親は財産を二人に分けてやた。

何日もたたないうちに、息子は財産全部を金に換えて、遠い国に旅立った。

そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。

何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

そこで、彼は我に返って言った。

『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

ここをたち、父のところに行って言おう。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。

雇い人の一人にしてください」と。』

そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。

ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

息子は言った。

『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

もう息子と呼ばれる資格はありません。』

しかし、父親は僕たちに言った。

 『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

それから、肥えた子牛を連れて来て料理しなさい。

食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』

そして、祝宴が始まりました(ルカ15章11~24節 混合訳

 

教会に行っておられるクリスチャンであれば、よく知っておられる話だと思う。

信仰生活の長い人には、何度も聞いたことのある有名なお話でもある。

この話はもうよく知っているので、今更、学ぶこともないと思われる人もいるかもしれない。

では、今回から何回かにわたって、この話から一緒に学んでいきたい。 きっと、あなたもここから何かの新しい発見があるかもしれない。

次回に続く。

 

 

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「この物語から分かること」

2019年08月27日 17時21分43秒 | 聖書の真理発見

 

「5000人の給食」(ヨハネ6章1~15節)のお話から学んでいる。

前回に続いて、もう少し真理発見の質問から更に一緒に考えていきたい。

 

人々が自分を王としようとした時、イエスはどうしてそこを立ち去ったのでしょうか。王として認められれば、その後、もっと自由にいろいろなことが出来たと思いませんか。

イエスのことを信じ、預言者として告白した群衆は、更にイエスを王として立てようとしたが、イエスはそこから身を引いていかれた。

これは、イエスから与えられた恵みを体験し、ある程度イエスを信じても、自分のために利用しようとした人たちである

自分のため、自己目的のためにイエスを利用する人たちからイエスは身を引かれるのだ。

病気されたり、物質的祝福されることもある。

しかし、それが目的となるなら、それは御利益信仰となる

イエスはそのこともされたが、それによって人々の自己目的のために振り回されることはなかった。

 

イエスは人々によって、この世の王とされることを拒否された。

なぜか。

イエスは神の国の王だからである。

ここに、神の国とこの世の国とが衝突している。

もう一度、この話を最初から見てみよう。

この5000人の群衆に食べさせるというアイデアは、イエスから出たことであった。 誰かが頼んだのではない。

そして、イエスはその主導権を取られて、ことが進んでいった。

ピリポを試された時、イエスはご自分がなさることについて、そのゴールも知っておられた。

イエスの言い出されたこと、イエスが主導権を取られるところに神の国がある。

今日、いろいろな情報やアイデアが広がっている。

教会成長のための方策と言われるものもいろいろある。あれをやってみる、これをやってみたと言えるものがある。

しかし、イエスご自身もアイデアをもっておられる。 イエスは道であり、真理であり、命である。イエスが道、方法も教えられる。だから、わたしたちが第一に求めるべきはイエスご自身である。

また、それはまた言い換えると、神の国と神の義を第一に求めることでもある。

「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられる」

イエスは、わたしたちの食べること、経済のことにも無関心な方ではない。イエスはパンをもって人々への愛をあらわされた。それは人々の求めからではなかった。 が、その人たちの言う通りにはならなかった。

この驚くべき奇跡が行われる上で、弟子たちがしていることは何ですか

・少年のもっていたものをイエスに知らせている。

・群衆を草の上に座らせている。その時、弟子たちは何のためか、分かっていただろうか。

・イエスが祝福されたパンと魚を5000人もの人たちに配ることそれは弟子たちの役目ではなかっただろうか。

・残りのパン切れを集めている。

 

主のための働きは、主と共にすることであるが、単に主に手伝ってもらうのではない。何とかしようとする自分を横に置いて、あの少年のように、主イエスに目を向け、主の言われることに耳を傾ける必要がある。そして、主イエスがなそうとしておられることに参加、協力していく必要がある。

イエスは、最初から人間とはこういうものであることが分かっておられたのであれば、なぜ、こんな奇跡をされたのか。

イエスは弟子たちにご自分がどういう方であるかを示しておられる。

またここで、弟子たちに人間とはどういう者であるかも分からせようとしておられる。

わたしたちもここから、イエスとはどういう方なのか。人間とはどういう者なのかを定義的、解説的にではなく、具体的な物語の中で分かるようにされているのだ。

 

 

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「小さなものと小さな者の信仰」

2019年08月23日 10時25分09秒 | 聖書の真理発見

 

ヨハネ6章1~15節のお話から学んでいる。

前回に続いて、前の真理発見の質問から更に一緒に考えていきたい。

・主の大きな働きのために、群衆の人数に比べれば、ほとんど役に立たないと思われる5つのパンと2匹の魚が主の手に渡され、それが大きく用いられた。

ここから教えられることが何かありますか。

イエスは、わたしたちのもっている小さなものでも用いてくださる。 子どもが持っていたわずか5のパンと2匹の魚が大きく用いられた。主は私たちのもっているわずかなものを用いられる。自分にないものではなく、わずかでもあるものを。

と同時に忘れてはならないことがある。

この男の子の信仰である。

大人たちは現実を見て判断していたが、この子は周りの現実ではなく、イエスに目を留めていた。

そして、ピリポに言われたイエスの言葉をそばで聞いていたのだ。

イエスは、この子どもの信仰の心を見ておられ、それを受け取られたと思われる。

主はわたしたちの持っている小さなものを用いられるが、それはどこまでもその人の信仰によって差し出されたものが、大きく用いられるのである。

主は、信仰によって集まり、主イエスに目を留めている小さな集まりを通しても大きなことをなされることもある。

また、大人には軽視されがちな子どもたちの素直な信仰も大きなことに用いられるのである。

自分は小さい者だと思っている普通の人たちの単純な信仰が用いられる。

神の国は、最初は小さくても広がっていく。 これが弟子たちへのメッセージである。

「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」(ルカ 12:32 新改訳)

 

人はニーズがあり、必要がある時、そちらに目が奪われて、主イエスを見ないで、自分で何とかしようとするところがある。

 

・人々はイエスのなさった「しるし」を見た、とあります。

この奇跡はなぜ、「しるし」と言われているのでしょうか。

以下はあくまでもわたしの個人的な見解であって、これが正解ということではない。

「しるし」はあくまでもしるしであって、それが目的ではなく、それは何かを指し示している。

この奇跡は、イエスが誰であるか、神から遣わされた方であることを指し示している「しるし」である。そしてまた、人数やお金のこと以上にイエスが必要のすべてであることの「しるし」である。

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」。(ピリピ4:19新改訳)

 

5000人もの群衆にパンを食べさせようとする、この話はそもそも誰から出たことでしたか。

弟子たちの誰かが言いだしたことでしたか。

この話しはイエスの口から出た話しであった。

弟子のひとりが言いだしたことではないし、群衆の中から求められたことでもなかった。

イエスはユダヤ人が奇跡に動かされる人たちであることを知っておられた。また、弟子たちひとりひとりのこともよく知っておられた。

イエスが何かをしようとして、その発起人となられ、主導権を取られるなら、それは実現するのだ。

 

ここから教えられることがある。

普通、わたしたちはお金のことや人数のことなど、目に見える現実に心を奪われることが多い。

わたしたちも主に目を向け、心を向け、今のこの状況で主は何をしようとしておられるのか、そのことを主から聞く必要がある。 ここに御声を聞くことの大切さがあり、それに応答することの大切さがある。

 

イエスは、ご自分ではしようとすることを、前もってよく分かっておられた方である。

イエスは誰かの後について行動しておられたのではない。自分から進んで行動しておられる。あてもなくブラブラしておられたのではない。 弟子たちが湖の向こう岸に行ったのもイエスの指示であった。小高い山に登られ、適当な座る場所もご自分で選んでおられる。 そして、これから何をするのかを前もって知っておられたのだ。

 

そして、イエスはひとりで何かをしようとしておられない。弟子たちと一緒にこの働きをしようとしておられる。そのために、ピリポに最初に声をかけられたのだ。

ピリポのことをよく知っておられ、試しておられるが、他の弟子たちひとりひとりのこともよく知っておられた。

 

次回に続く。

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「ピリポを試すため」

2019年08月20日 06時38分37秒 | 聖書の真理発見

 

ヨハネ6章1~15節のお話から学んでいる。

前回の真理発見の質問から一緒に考えていきたい。

 

イエスは、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、なぜピリポひとりに声をかけて、聞いておられか。
他にも11人くらいの弟子たちがいたはずである。大きな話なので、なぜ、弟子全員に声をかけて、相談されなかったのだろうか。

イエスは皆に同時に話をしておられる場合もあるが、個人的にひとりの人に向き合って、具体的に声をかけておられることもある。

今日、教会の集会などでは、ひとりの人が複数の人に同時に話をしている場合が多く、人の前で個人的に話しかけたりすることはほとんど見かけない。

この時、イエスは、ピリポひとりに声をかけておられるが、他の弟子たちもそれなりにイエスとピリポの会話のやり取りを聞いていたのではないか。

イエスの質問はピリポを試すためだったとあるが、ピリポの何を試されたのか。

イエスとピリポのやり取りが聞こえていたと思われる他の弟子たちもこの時、同じようにイエスの質問に対して何かを考えていたのではないか。

「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」といきなり聞かれた弟子のピリポは、即座に答えている。

「二百デナリのパンがあっても、足りないでしょうと。

イエスの質問は、どこからパンを買ってきて・・・ということであったので、ピリポはその質問に対して正確には答えていない。

パンをどこから買ってくるか、その場所の問題以前に、それを買うだけのお金はどうするのですか、と言わないばかりの答え方である。

ピリポは、イエスの言っておられることは、まったく現実を見ておられないのではないかという問いを発しているわけだ。

その点において、ピリポはイエスに試されていたのである。

イエスから言い出されたことであったが、目に見える現実を見て、イエスを見ていないという信仰が試されていたとも言える。

 

・弟子のひとりアンデレがイエスに言っている

「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。 しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。

アンデレは、どうしてこの少年が5つのパンと2匹の魚を持っているのが分かったのだろうか。

これはあくまでも想像である。

アンデレはここで、ただ、パンと魚を持っている少年を見つけて、この状況で、そのことをイエスにわざわざ言うというのも不自然である。

実は、この少年の方から「ボクこれをもっているよ」とそばにいた弟子アンデレに言ったのではないか。

それでアンデレは無駄だと思いながらも、ただそのことをイエスに取り次いだと想像出来る。

つまり、この少年は結構、イエスのそば近くにいて、イエスとピリポの会話を聞いていた。

この子は、ピリポの反応とは違って、現実を見ていたのではなく、イエスの顔を見ていたことで、大人とは違った反応をしたのだ。

 

なぜ、このようにパンも魚も多くの人に配られることになったのか。

この時、5000人の中の多くの人たちが自分の持っているものを出し始めたので、皆のお腹が一杯になったのだという説もある。

この説は、この奇跡の話をある程度、納得できる説明とはなるが、しかし、余ったパン切れを集めると12のかごに一杯になったという言葉とは合わない。

イエスが祝福して、恐らく弟子たちに手渡し、弟子たちの手から大勢の群集に配られたであろうとすると、弟子たちがいくら配ってもかごの中のパンや魚が無くなっていかなかったのだ。

次回に続く。

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「真理発見のための質問」

2019年08月17日 08時59分10秒 | 聖書の真理発見

 

聖書は、ヨハネ6章1~15節から学んでいる。

前回は内容を確認するための質問だった。

次に、ここから教えられることを一緒に見ていきたいと思う。

このお話を振り返って、下記の質問に答えてみてください。

必ずしも、正しい解答ではなく、ご自分の思うことを、想像することを自由に答えてみてください。

 

イエスは、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われたのですが

なぜピリポひとりに声をかけて、聞いておられのでしょうか。他にも11人くらいの弟子たちがいたはずです。大きな話ですので、なぜ、その全員に声をかけて、相談されなかったのでしょうか。

 

イエスの質問はピリポを試すためだったとありますが、ピリポの何を試されたのでしょうか。

他の弟子たちには、イエスとピリポのやり取りが聞こえていたでしょうか。

 

・弟子のひとりアンデレがイエスに言っています

「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。 しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。

アンデレは、どうしてこの少年が5つのパンと2匹の魚を持っているのが分かったのでしょうか。

想像してみてください。

 

なぜ、このようにパンも魚も多くの人に配られることになったのでしょうか。

この時、5000人の中の多くの人たちが自分の持っているものを出し始めて、このように皆のお腹が一杯になったのだという説明もありますが、どう思いますか。

 

この驚くべき奇跡が行われる上で、イエスのそばにいた弟子たちは何をしていますか。

想像できることはありますか。

 

主の大きな働きのために、群衆の人数に比べれば、ほとんど役に立たないと思われる5つのパンと2匹の魚が主の手に渡され、それが大きく用いられました。

ここから教えられることが何かありますか。

 

人々はイエスのなさった「しるし」を見た、とあります

この奇跡はなぜ、「しるし」と言われているのでしょうか。

 

000人もの群衆にパンを食べさせようとする、この話はそもそも誰から出たことでしたか。

弟子たちの誰かが言いだしたことでしたか。

 

・人々が自分を王としようとした時、イエスはどうしてそこを立ち去ったのでしょうか。王として認められれば、その後、もっと自由にいろいろなことが出来たと思いますが…。

 

この話から人間とはそもそもどういう者だと思いますか。

 

この話からイエスはどういう方だと思いますか。

自分を王としようとした人々、人間とはこういうものであることが最初から分かっておられたのであれば、なぜ、こんな奇跡をされたのでしょうか。

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