goo blog サービス終了のお知らせ 

浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「クリスマスの喜び」

2019年12月24日 05時06分36秒 | クリスマス・ストーリー

 

ルカ2:1-20のこのクリスマス・ストーリーからの学びの最後となった。

クリスマスの喜びという言葉が普通に使われている。

その喜びとはどういうことなのか。

その喜びはどういう人に与えられるのか。

 

御使いはイエス降誕のことを、「すべての民に与えられる大きな喜び」と言っているが、それをのような貧しい羊飼いたちにだけ知らせて、帰って行った。
なぜ、もっと大勢の人たちに同じように知らなかったのだろうか。

 

赤ちゃんが生まれると、その両親、おじいちゃん、おばあちゃんなど家族が喜ぶ。

その喜びは、他の何かと違った特別な喜びである。

わたしも何度もその喜びを経験させてもらったひとりである。

誰かの誕生を喜ぶ、その喜びとは新しい出会いの喜びでもある。

それが御使いの言っている「大きな喜び」と言えないか。

それは何かを説明してもらって理解して、分かって得られる喜びではない。

出会いによる喜びなのだ。

聖書のみ言葉を通して主イエスに出会う人は皆、この喜びを経験する。

それは聖霊の働きだということが分かっていてもいなくても経験できる喜びである。

いろいろな霊的な体験を通してすばらしい喜びを経験した人たちはいると思う。

しかし、わたしがここで注目したいのは、主イエスを初めて信じて、主イエスに出会った人は皆この喜びを経験するということである。

あなたが主イエスを信じている人であるなら、その時のことを覚えているだろうか。

また一度その喜びを味わった人は、他の人が同じように主イエスに出会って喜んでいると、その喜びが伝わってくるのだ。

そしてまた、同じように主イエスを信じている人たちが一緒にいることで、この喜びを経験する。

不思議だ。

特別な霊的な体験による喜びも素晴らしいと思うが、わたしは主イエスを信じる人たちが普通に経験しているこのような喜びをこそ、再確認する必要があると思っている。

特にクリスマスのこの時にである。

なぜなら、それはすべての民に与えられる大きな喜びだからだ。

なぜなら、それは、聖書が十分に理解出来ても出来なくても、ただ主イエスを信じ、主イエスに出会った人たちに与えられる喜びだからである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「神とはどういう方か」

2019年12月20日 05時37分01秒 | クリスマス・ストーリー

 

ルカ2:1-20のこのクリスマス・ストーリーから、神とはどういう方だろうか。

わたしたち日本人の中に漠然とでも神の存在を認めている人は少なくないと思う
しかし、イエス・キリストのことについてはどうだろうか。 

イエス・キリストは偉大な人であったので、死んだ後、弟子たちによって神としてまつられたのだろうか。
イエス・キリストは天地の主なる神からこの世に遣わされた方だった。

このキリスト誕生の経緯のすべてはこの主なる神の発想であった。
その神は、神を信じないローマ皇帝のような影響力のある権力者をも御計画のために用いることができ、ご自分の御計画とタイミングによって、人を動かすことが出来る方であった。

一方で、この主なる神は、人には無視されているような貧しい人たちを選ばれ、用いられた。

このクリスマス・ストーリーによれば、主なる神はイエス・キリストの誕生を多くの人には知らせておられない方である。

御使いは多くの人に遣わされず、他の人は羊飼いたちを通して、その知らせを聞くようにされた。

特に雄弁で説得力のある人たちとも思われなかった羊飼いたちを通してである。

御使いは誰にでも現れてイエスの降誕を知らせてはいないが、幼子イエスは誰でも近づくことが出来る家畜小屋に生まれている。

神は良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らしてくださる方であり、すべての人に公平に愛を示しておられる。

誰でも自由に入って行ける場所にイエスは生まれた。

しかし、そこに入って行ったのは、少数の人たちだけだった。

イエス・キリストはその生涯において、神をご自分の父と呼んでおられ、ご自分を神の子として表された。

しかし、当時のユダヤ人たちはこのイエスを認めなかった。
誕生の時もそうだった
十字架上で死ぬ時もそうだった

最初のクリスマスでは、羊飼いたちというごくわずかな人たち、この貧しい人たちだけが飼い葉おけに寝かされた幼な子、このイエスの誕生を喜んでい

最初のクリスマスも多くの人はイエスの誕生を無視していたように、今日も多くの人に、その誕生日無視されている。

今日も、特に日本の社会では、マスメディアにもイエス・キリストのことは無視されてい

もう一度、主なる神とはどういう方なのか。
主なる神とは、羊飼いたちや飼い葉おけに寝かされた幼な子の出てくる、このようなクリスマスのストーリーの脚本を書かれた方である。

目に見えない舞台裏でその演出もされ、このシンプルなストーリーを通して多くの人に大切なメッセージを発信しておられる方である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「少数者たち」

2019年12月17日 05時52分21秒 | クリスマス・ストーリー

 

 

何度も言っていることですが、イエス誕生に関する、このクリスマスのストーリーについて聖書には解説も説明もない。

しかし、どんな人もこのストーリーにしっかり向き合っていくなら、

そこに羊飼いたちや飼い葉おけの中の幼な子という、このシンプルな光景から発信しているメッセージを聞き取ることは出来る。

2000年を超える歴史の中で、洋の東西を問わず世界中の人たちがこのストーリーを耳にし、そこから受け取ってきたものがあるのだ。

話の続きです。

その後、羊飼いたちは飼い葉おけの中に寝かせてある幼な子を探し当てた。

その時、羊飼いたちはそこにいる人たちに何かを言っただろうか。

幼な子イエスが寝かされていた飼い葉おけのそばには、ヨセフとマリアだけでなく、他の人たちもいたようだ。

これはあくまでも想像ではあるが、その人たちはマリヤの出産のために水を汲んできたり、いろいろなことで助けてあげていた人たちだったかもしれない。

旅先で、まったく経験もない若いヨセフひとりでは、恐らくマリヤが無事に出産することは難しかったと思われる。

聖書によると、その人たちも飼い葉おけのそばにいて、突然やって来た羊飼いたちから御使いの言ったことをすべて聞かされたようだ。

ただしかし、彼らはそれを聞いて不思議に思っただけだった。

飼い葉おけの中に寝かされている幼子をすぐ近くで同じように見ているのに、なぜ、羊飼いたちと同じように信じ、喜ばなかったのだろうか。

マリヤは、その時、聞いたことを思いめぐらしていた。

ここで人間とはどういう者なのか。

幼な子イエスを目の前に見ていたのだ。

御使いの言った言葉を羊飼いたちを通して聞いたのだ。

しかし、すぐには信じなかった。

だからと言って、羊飼いたちはその人たちに一生懸命説明したり、説得したりはしていない。

この後、羊飼いたちはただ、神をあがめ、賛美しながら、喜んで帰って行った。

ここに主イエスを信じている人たちの姿を見る。

み言葉を聞いて、主イエスに出会って、喜びをもって神を賛美し礼拝する人たちの姿である。

それはまた、主イエスを信じている人たちの共同体、教会の姿でもある。

 

ここで、飼い葉おけの中に寝かされていた幼な子のことで、更に思うことがある。

ヨセフとマリヤは好き好んで家畜小屋を出産の場所として選んだのではなかった。

止むおえずそういうことになったのだ。

もし仮に、マリヤが普通の宿屋で出産していたとすれば、この話はどうなっていただろうか。

きっと羊飼いたちは探すのに苦労しただろう。

もしかしたら、他にも赤ちゃんがどこかで生まれていたかもしれない。

その子と、御使いが言った幼な子とどう見分けることが出来ただろうか。

また、もし、幼な子がいる所が見つかったとしても、宿の人は羊飼いたちを家の中に入れてくれただろうか。

 

それに比べて飼い葉おけのある家畜小屋であれば、そこはある意味、誰でも出入り自由なのだ。

また、いつも家畜と一緒に生活していた羊飼いたちにとって、家畜小屋は決して入りにくい特別なところではなかったはずだ。

幼な子イエスは人が誰でも自由に入って行ける所に生まれたのだ。

しかし不思議なことに、誰でも自由に入って行けるのではあるが、実際には羊飼いや東方の博士たちのような人たち以外は、

幼な子イエスに会うためにそこに入って行かなかった。

 

これは今も変わらない神のご計画である。

「狭い門からはいれ。

滅びにいたる門は大きく、その道は広い。

そして、そこからはいって行く者が多い。

命にいたる門は狭く、その道は細い。

そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13,14口語訳)

 

人があまり近づきたくないような、その家畜小屋で幼な子イエスに出会った羊飼いたちは、喜んで神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

最初のクリスマスも、その本当の喜びを知った人たちは少数者であった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「羊に合わせた生活」

2019年12月13日 06時24分16秒 | クリスマス・ストーリー

 

イエスがベツレヘムで誕生された時、その郊外の野で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに神の御使いが現れた。

あのヨハネの父親ザカリヤにも御使いが現れている。

受胎告知の時、マリアにも御使いが現れている。

このふたりの場合は、それなりの理由があった。

しかし、この貧しい羊飼いたちにこのような超自然的な仕方で御使いが現れたのは、何らかの理由があったのだろうか。

幼子イエスが飼い葉おけの中に寝かされた、その光景を思い浮かべることでいろいろなことを思わされたが、このベツレヘムの郊外の野で突然、羊飼いたちに御使いが現れた、この光景をイメージすることでも、そこにメッセージがあるのではないか。

単に、正しい聖書解釈ということに気を使うだけではなく、このストーリーの光景をイメージするひとりひとりに、それぞれ違ったメッセージが発信されているのではないか。

 

その羊飼いたちに御使いが現れたのは、夜だった。

では、この羊飼いたちは昼間は何をしていたのだろうか。

羊飼いたちは昼間は何もしないで、夜だけの仕事をしていたのではない。

昼間も羊の世話をしており、夜もその羊の番をしていたと思われる。

つまり、彼らは一日中ほとんど羊と生活を共にしていたような人たちであり、そうしなければ生きていけないような人たちだったと思われる。

羊が人間に合わせるのではなく、人間の方が羊に合わせた生活をしている人たちであった。

人が寝ている時に、夜の仕事をしている人たちは今日もいると思う。

他の人たちは皆、家でゆっくり休んでいる時に、働かなければならないことは、そう楽しいものではないはずである。

しかし、生活のために、生きていくために、そうせざるを得ない人たちである。

夜、羊と同じような生活をしていた、その羊飼いたちが選ばれ、御使いが遣わされたのである。

誰がそう決めたのか。

そこにも決めた方の何らかの意図があったはずである。

 

その羊飼いたちに御使いは幼子について、5つのことを言ってい

1.その幼子は、すべての民に与えられる大きな喜びである。

2.その幼子は、主なるキリストである。

3.その幼子は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている

4.その幼子は、きょうダビデの町に生まれた。

5.その幼子は、あなたがたのための救主である。

短く無駄のない言葉で簡潔明快に、御使いは幼子について、このような情報を羊飼いたちに伝えている。

そして、最後の締めくくりの言葉として、

あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」と御使いは言っている。

ここで御使いが言う「しるし」とはどういう意味だろうか。

わたしは二つの意味を上げることが出来ると思う。

ひとつは、羊飼いたちが、その「飼い葉おけに寝かされている幼子」を探す上で、それが目印のようなものであった。

他にはそういうところで生まれた子供はいなかったからである。

もう一つ、御使いが「しるし」と言っているのは、その幼子を探し当てたなら、幼子について言われたことは本当であるという意味でのしるしである。

もし、その「飼い葉おけに寝かされた幼子」を探せず、そういう子供はいなかったというのであれば、御使いの言ったことは嘘だったということになる。

しかし、結果的に、羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったことを知って、神をあがめ、またさんびしながら帰って行ったのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「貧困という問題」

2019年12月10日 07時02分37秒 | クリスマス・ストーリー

 

結果的に、イエスは家畜小屋のようなところ生まれるということになた。
ここにも神のご計画があったとすれば、その意味は何だろうか。

飼い葉おけの中に生まれたというイエスの誕生にまつわる貧しさにはどんな意味があるのだろうか

ここに言葉を超えたすごいメッセージがある。

聖書は、言葉による分かりやすい説明ではなく、この飼い葉おけの中に寝かされている幼子のイメージによって人の心に何かを語りかけている。

それは、子どもにもお年寄りにも、どんな国の人にも、その人その人が受け取れる何かのメッセージである。

わたしは九州の出身で、子どもの頃、自分の家が貧しいことをどこか恥じていた。

小学校の先生が家庭訪問に来る時、古い借家に住んでいたわたしの家のことを先生に知られたくなかった。自分よりももっと貧しい人たちがいることも考えず、そんな思いがあったことを今も覚えている。

貧しさは、人をみじめにし、卑屈にする。また、人に無視される。だから人は貧しさを恥じる。

 今日この日本にも子どもの貧困という問題があり、日本の子どもの7人に1人が貧困だと言われている。

貧しいことで、その子は自己肯定感が下がり、自分を価値のない人間だと考えるようになるとも言われている。

イエス・キリストは赤ん坊として生まれた、その出産直後から貧しさの中に身を置かれた。

貧しさの中にあるために、価値のないみじめな人間と思い、また思われている人たちと同じようになられたのだ。

主なる神は貧しい人たちに対して目を留め、心を向けておられる。

そのことを表し示すために神の子イエスは、その貧しさの中に身を置かれ、この世の人生をスタートされた。

 

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」と言われたイエスは、誕生の時だけではなく、文字通り、そのような人生を生きられた。

貧しさを恥じなくてもよい。貧しさはその人の人間としての価値を低くするものではないというメッセージを身をもって表しておられる。

 

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。

すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。

それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」(2コリント8:9口語訳)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする