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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「憐れみ深い人には」

2021年06月29日 05時30分32秒 | 詩篇より

 

主がどういう方であるかが、続いています。

詩篇18章17~25節までは自分にとってどういう方であるかが、

いろいろな角度で語られていますが、26節からは

主がどういう方であるかが、更に広がっています。

 

 18:26 あなたの慈しみに生きる人に

あなたは慈しみを示し

無垢な人には無垢に

 18:27 清い人には清くふるまい

心の曲がった者には背を向けられる。

 18:28 あなたは貧しい民を救い上げ

高ぶる目を引き下ろされる。

 18:29 主よ、あなたはわたしの灯(ランプ)を輝かし

神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。

 18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし

わたしの神によって、城壁を越える。

 

26,27節は、英語訳ではこうなっています。

With the merciful You will show Yourself merciful;

With a blameless man You will show Yourself blameless;

With the pure You will show Yourself pure;

And with the devious You will show Yourself shrewd. (NKJV)

 

憐れみ深い人には、主はご自身を憐れみ深いものと示される、というのです。

これは主イエスの山上の垂訓の一節を思い出す言葉です。

「憐れみ深い人たちは幸いである。その人たちは憐れみを受ける」

(マタイ5:7)

 

つい最近、あるグループのバイブルトークで一緒に学んだ個所ですが、

あのローマの百人隊長は、中風で苦しんでいる自分のしもべのことで

イエスのところへやって来ました。

このしもべのために、隊長自らイエスにお願いに来ています。

イエスはすぐに、「わたしが行って、なおしてあげよう」と言われました。

(マタイ8:5~)

 

以前には気づかなかったのですが、

今回このお話から改めて気づかされたことがあります。

自分の家で働いているしもべ、奴隷であったかもしれないその人が

病気で苦しんでいる。

そのしもべに憐みの心をもっていた、この百人隊長に対して、

イエスも憐れみの心を示しておられます。

 

主の慈しみに生きる人に、主は慈しみを示されるのです。

次回に続きます。

 

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「主はわたしの支えとなり」

2021年06月25日 05時30分30秒 | 詩篇より

 

現実離れしたようなダビデのこの詩篇18篇は、

自然界の異常気象のような状況を通して霊的な何かを表現しています。

それについての説明はありません。

それをわたしが代わっていろいろと説明するのも越権行為となりかねません。

わたしはこれらの詩篇についての、分かりやすい説明をしようと

思っていません。

もっとも、しようと思っても出来ません。

わたしは著者ではないので、出来なくて当たり前ですね。

ですから、これを読まれる皆さんも、これを詩篇の解説書として

読まないでください。

分からないところをそのままにしていることについて、

不満を持たれる方もおられるかもしれないと思い、こんなことを書いています。

 

それでも、なぜか、わたしは80を超えるこの年になっても、

この詩篇に心ひかれるものがあります。

それはもちろん、わたしがこれを理解できているからではありません。

詩篇18篇(新共同訳)の続きです。

 

 18:17 主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ

大水の中から引き上げてくださる。

 18:18 敵は力があり

わたしを憎む者は勝ち誇っているが

なお、主はわたしを救い出される。

 18:19 彼らが攻め寄せる災いの日

主はわたしの支えとなり

 18:20 わたしを広い所に導き出し、助けとなり

喜び迎えてくださる。

 

ここには何度も「主は…」「主は…」という言い方が出てきます。

「主はわたしをとらえ…」「主はわたしを救い出し」

「主はわたしの支えとなり」

 

自分が主のために何をしたかということよりも、

最近、主があなたに何をしてくださったかを思い出しませんか。

ダビデのように書き出してみることもできますね。

敢えて思い出さなければ、気づかない場合もありますし、

忘れてしまっていることもあります。

 

そのような主に対して「わたし」は、どうしようとしているのでしょうか。

 

 18:21 主はわたしの正しさに報いてくださる。

わたしの手の清さに応じて返してくださる。

 18:22 わたしは主の道を守り

わたしの神に背かない。

 18:23 わたしは主の裁きをすべて前に置き

主の掟を遠ざけない。

 18:24 わたしは主に対して無垢であろうとし

罪から身を守る。

 18:25 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。

御目に対してわたしの手は清い。

 

次回に続きます。

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「すさまじい雷鳴」

2021年06月22日 05時30分33秒 | 詩篇より

 

詩篇18篇の続きです。

ひとりの人の主に向かっての叫びはむなしく思え、

目に見えるところには何の変化も見られないように思える場合もあります。

ここで、しかし、ダビデは、自分の叫びは主の耳に届き、その結果、

主が怒りを表し、揺れ動くとは思えない大地と

永遠に安定しているように見える山々が震え、揺らぐ、と言っています。

 

18:8 主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。

山々の基は震え、揺らぐ。

18:9 御怒りに煙は噴き上がり

御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。

 

まさに火山の噴火を思わせるような主なる神の怒りです。

山の神が怒っているというのではなく、

天地万物の造り主なる方が怒りを表している光景です。

それは誰に対しての怒りでしょうか。

前に見てきた18:4~7節から判断できますね。

 

 18:10 主は天を傾けて降り

密雲を足もとに従え

 18:11 ケルブを駆って飛び

風の翼に乗って行かれる。

 18:12 周りに闇を置いて隠れがとし

暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。

 18:13 御前にひらめく光に雲は従い

雹と火の雨が続く。

 

自然界の様々な状況、天候、気象状況など、

テレビの気象予報士にも説明し難いような密雲、風の翼、闇、暗い雨雲、

立ちこめる霧、雹、火の雨によって隠れて行動しておられる主のことが

このように記されています。

 

数日前、わたしの住んでいるこの地域に、夜中でしたが、

激しい雨と真っ暗な夜の空にゴロゴロと鳴り響く雷の音が

2,3時間も続きました。

眠りながら聞こえていたのですが、すごかったですね。

「いかずち鳴りわたる時、まことの御神を思う」と聖歌にもありますが、

その時のわたしは半分寝ていましたので、主を思うことはありませんでした。

 

 18:14 主は天から雷鳴をとどろかせ

いと高き神は御声をあげられ

雹と火の雨が続く。

 18:15 主の矢は飛び交い

稲妻は散乱する。

 18:16 主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し

あなたの怒りの息に世界はその基を示す。

 

ダビデは、この時、実際に雷鳴を聞いていたのではなく、霊的に、

心の領域でその光景を見ていたのでしょうか。

彼はこのすさまじい雷鳴に主の御声を聞き、

闇の中に光る稲妻を飛び交う主の矢と見ています。

その主の怒りによって誰も見ることのできない海の底が、

世界の基があらわになるのです。

 

次回に続きます。

 

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「死の縄」

2021年06月18日 05時30分44秒 | 詩篇より

 

詩篇18篇から、前回の続きです。

 

18:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め

敵から救われる。

 18:5 死の縄がからみつき

奈落の激流がわたしをおののかせ

 18:6 陰府の縄がめぐり、

死の網が仕掛けられている。

 

自分を脅かし、憎しみと敵意をもって迫って来る、

その人たちから自分を救われる主はほむべき方であると言っているダビデ。

そのダビデに敵意をもって迫ってきたのはイスラエルの敵、ペリシテ人でも

あったのですが、もっと脅威に思ったのは身近な王であるサウルでした。

つまり、外にも内にも目に見える敵がいたのですが、

目に見えない神、主がその敵から自分を救ってくださると言っているのは、

信仰の告白ですね。

それにしても、その脅威を言い表す言葉の表現はスゴイです。

 

死の縄、奈落の激流、陰府の縄、死の網。

 

自分の身に危険を感じている状況を、これほどの言葉で表現する人は、

そんなにいないかもしれません。

不安、恐れの気持ちをこのように客観的に表現しているのは、

脅威は感じつつも、それに縛られ、流されていないからだと思われます。

しかし、その迫っている不安と恐れの現実は否定できない状況なのです。

 

 18:7 苦難の中から主を呼び求め

わたしの神に向かって叫ぶと

その声は神殿に響き

叫びは御前に至り、御耳に届く。

 

目に見えない主を呼び求めるのは、目に見える不安と恐れの現実が

迫っているからです。

緊急を要する叫び、つまり主への110番です。

そして、彼はただ叫んでいるだけではありません。

その声、その叫びが目に見えない主のおられる神殿に響いているのを

見ているのです。

「死の縄」が迫ってきている現実があって、一方で見えないところで、

自分の叫びが聞こえている主の耳を意識しています。

これが信仰ですね。

 

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」

へブル11:1(新共同訳)

 

 

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「わたしにとって、主とは」

2021年06月15日 05時30分47秒 | 詩篇より

 

詩篇18篇に入ります。

わたしはこの詩篇をすべて手書きのボールペンでノートに書き写し、

そこに自由にいろいろなことを書きこんでいます。

そのノートが何冊かになっています。

そこからこのパソコンに打ち込んでいるという次第です。

 

詩篇18:1-3(新共同訳)

【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、

また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】

主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。

主はわたしの岩、砦、逃れ場

わたしの神、大岩、避けどころ

わたしの盾、救いの角、砦の塔。

 

ここで、ダビデは、ただ、主なる神を漠然と信じますと言っていません。

「わたしがあなたの力となろう」と言われ、実際に、

主が自分の力となってくださったので「わたしの力よ」と言っています。

 

その主は愛し、心に慕う方なのです。

主なる神は自分の大切な方であり、心が引かれる方なのです。

 

その後も、主が自分にとってどういう方であるかを、

様々な言い方で告白しています。

3節には9つもの短い言葉で、主なる神のことを言い表しています。

目に見えないはずの主なる神を信仰の目で見て、主を告白しています。

岩や砦、盾や角という言葉は、今日のわたしたちには身近にないもの、

ピンとこないもの、実感しにくいものかもしれません。

しかし、これらは抽象的な神学用語でもありません。

 

ダビデは、目に見える身近なものの特徴を借りて、

目に見えない神がどのような方であるかを言い表しています。

それは一般論ではなく、自分にとって主なる神がどういう方であるか、

なのです。

 

では、あなたやわたしは、自分の信じている主なる神がどのような方であるか

を、どのように表現し、告白できるでしょうか。

 

主はわたしの力の源、いのちの源泉、わたしの相談相手、

親しくさせてもらっている方、わたしの警備員、保護者、

最高の上司、生涯の恩師などなど・・・。

 

主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と

言われましたね。

 

主なる神はあなたにとってどういう方なのかを、自由に書き出してみませんか。

 

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