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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「どの時点で」

2025年03月28日 05時30分14秒 | ルカ福音書より

ルカ福音書5章からの続きです。

5:8 これを見たシモン・ペテロは、
イエスの足もとにひれ伏して言った。
「主よ、私から離れてください。
私は罪深い人間ですから。」
5:9 彼も、一緒にいた者たちもみな、
自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。
5:10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。
イエスはシモンに言われた。
「恐れることはない。今から後、
あなたは人間をとるようになるのです。」

イエスはこのガリラヤ湖畔で
3つのことをしておられます。
一つ目、イエスは
漁師ペテロの舟の上から群衆に教えられました。
二つ目、イエスは
シモンに声をかけて、大漁の奇跡を見せられました。
三つ目、イエスは
シモンに人生の使命を与えられた。
実は、この3つ目の、ここにイエスの目的があったと思われます。

おびただしい魚が獲れた、この大漁の奇跡は何のためだったのでしょうか。
彼らの生活を助けるためだったのでしょうか。
 群衆に話をするために舟を借りた
お礼なのでしょうか。
夜通し働いて1匹の魚も取れなかったペテロのことを可哀そうに思われたのでしょうか。

 そうであれば、その大漁という結果を出したことで、それでめでたし、めでたしで終わってもよいはずです。


イエスは人のニーズ(必要)に応え、
困っている人を助けるというサービスだけを
目的としておられません。
時として、わたしもあなたもそのような動きをすることがないでしょうか。
もちろん、イエスは人に恩を着せて、
後で何かを頼むというやり方を
しておられるのでもありません。
この大漁の奇跡は、
一晩中働いて何も結果を出せずに、
失望し疲れていたシモンが、
イエスに出会うための一つのチャンスでもあった
と言えます。
彼ら漁師たちがある程度満足できる収獲を得ていた
時だとすれば、
この奇跡は起こらなかったかもしれません。

主イエスの側に二つの目的がありました。
①ペテロが「わたしは罪深いものです」と気づくことです。
②「今から、あなたは人間をとる漁師になのだ」
という召命のためです。

では、この話のどの時点で、イエスはペテロに、
そのような人生の目的を与えることを
考えられたのでしょうか。

ペテロの舟の上で、群衆に話をされた後に、
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
と言われた時には、もうイエスの頭の中には、
これが何のためかの目的がハッキリあったはずです。
では、その前でしょうか。
群衆に話をしておられる時でしょうか。
 もっと前でしょうか。
ペテロの舟に乗り込んで来られた時でしょうか。
いや、もっと前でしょうか。
ペテロが罪深い人間であることに気づき、
人間をとる漁師となるという人生の目的を与えられることを、イエスはそれ以前に考えておられたとも言えます。
イエスは、自分は父なる神の言われることに従っているのであって、
自分からは何一つしていないと言っておられます。
とすると、父なる神はシモン・ペテロのことをずっと以前から知っておられたはずです。
イエスが湖岸に立って網を洗っているシモンの姿を見た、その時に、もうすでに、この人だという思いを与えられていたのだとも言えます。
そのために、
シモンの舟に乗り込んできておられます。
それは集まってきた群衆にお話をするためであった
のですが、
ペテロを、人間をとる漁師にするという召命こそが、一連の話のすべての目的であったと言えます。

どう思いますか。

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「不思議です」

2025年03月25日 05時30分17秒 | ルカ福音書より

ルカ福音書5章からの続きです。
シモン・ペテロは「お言葉ですから」と言って、
イエスの言われた言葉に従いましたが、
そのためには何を犠牲にする
必要があったでしょうか。

何度も言っていますが、
自分の身に着けた知識や経験を犠牲にしました。
簡単に言っていますが、
これは、普通はなかなか出来ないことです。

イエスは、
ペテロたちが一晩中漁をして一匹も獲れなかったことを知らないで言ったのではなく、
十分承知の上で、ペテロに命令的に言ったのです。

5:5 すると、シモンが答えた。
「先生。私たちは夜通し働きましたが、
何一つ捕れませんでした。
でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、
おびただしい数の魚が入り、
網が破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、
助けに来てくれるよう合図した。
彼らがやって来て、
魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、
両方とも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、
イエスの足もとにひれ伏して言った。
「主よ、私から離れてください。
私は罪深い人間ですから。」

いなかったはずの所に魚がいました。
獲れた魚で一杯になり、網が破れそうになりました。
 これを見た、ペテロはどうしましたか。
その時まで、
同じ舟に乗っておられたイエスの足もとに
ひれ伏しています。
そして、最初は「先生」と言っていたイエスに
向かって、何と言っていますか。

そうです。
 「主よ」と言っています。
イエスが何者であるかについての変化が
ペテロのうちに起こっています。
言い換えると、
ペテロはここでイエスに出会っています。

それと同時に、不思議なことに、
自分の罪深い姿を見せられたのです。
大漁の魚が獲れた、その舟の中で
「私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言いました。

これはペテロが誰かに教えられ、
説明されてわかったのではありません。
しかし、彼はわかったのです。
彼は特に何か後ろめたいこと、
人には言えない悪いことを
隠れたところでしていたのでしょうか。
そうではありませんね。
「自分は罪深い人間ですから、
もうわたしに関わらないでください。
ほっといてください。」
と言っているのではありません。

この時、
イエスに個人的にお説教をされたのでもないのです。
不思議です。
不思議ですが、イエスに出会った時、
ペテロは自分が罪深い人間であることが
わかったのです。

あなたもわたしもペテロが言っていることは、
本当のことを言っていると、わかりますね。
このペテロのことがわかるのは、
あなたもわたしもある程度、
似たような経験をしているからではないでしょうか。
別に大漁の奇跡を経験していなくても、です。
どう思いますか。

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「信仰とは」

2025年03月20日 10時04分30秒 | ルカ福音書より

ルカ福音書5章からの、前回の続きです。

ペテロたちはある意味、魚のこと,
漁のことについては詳しいプロの漁師でした。
ですから、信仰のことについては
詳しい先生であっても、
漁のことでは素人とも思える
イエスの言われることに従うことは
そう簡単ではなかったはずです。
一晩中働いても魚が獲れなかったところへもう一度漁に行くように、
イエスに言われたのです。
この聖書を読んでいるわたしたちは、
この話の結果を知っていますので、
それほど驚くこともないのですが、
この時のペテロの立場を想像し、
その状況に立てば、話はそう簡単ではなかった
と思われます。

「おことばですので」と言っているペテロがここにいます。
自分が漁師として身に着けている知識、
経験からすれば無理な話ではあっても、
先生のお言葉ですからやってみます、
ということです。

ここに信仰とは何かについての、
とてもわかりやすい教えがあります。
自分の持っている知識、
今まで経験してわかっていること、
そういうことを横において、犠牲にして、
イエスの言われることに従うこと,
これはそう簡単なことではありません。
「でも、おことばですから」とはそういう意味ですね。

5:4 話が終わるとシモンに言われた。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
5:5 すると、シモンが答えた。
「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。
でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

お気づきですね。
ここでも、イエスのひと言は、ある意味で命令的な言い方です。
もう一度、網を下ろしてみてはどうですか、という提案ではありません。

わたしやあなたの人生とは、
自分の知識や経験したことを踏まえての
日々の歩みです。
そこから外れることは、
人にはわかってもらえない非常識な行動
ということになります。
それも、長年自分の身に着けてきた知識や経験に
反するという場合は、なおさらそうです。

しかし、イエスは今でも、
ご自分の言われる言葉に従う人を求めておられます。
その人の言う言葉を信じて従うということは、
その人を信じることです。
その人の言う言葉を信じないのは、
その人を信じないことです。

この聖書を読んでいるあなたやわたしは、
この後の結果、つまり大漁の奇跡が起こることがわかっています。
しかし、この時のペテロはその後、
どういうことになるのか、
その結果はわかっていません。
大漁の魚が獲れるとわかっていて
「おことばですから」と従ったのではありません。

今日、わたしたちは
イエスの肉声の言葉を聞くことは出来ません。
しかし、聖書を通して、
あるいはいろいろなことを通して、
イエスは聖霊によっては今も、
わたしたちに語りかけておられます。
そう、わたしは信じています。

ヘブル 11:6a 
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
(新改訳2017)

あなたも小さなことでも大きなことでも、
ことの大小には関係なく、
ペテロのように「おことばですから」
と従った経験はおわりではないでしょうか。
それは勇気のいる信仰だったと思います。
それはどういう場合でしたか。
その結果はどうでしたか。


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「お言葉ですから」

2025年03月18日 05時10分49秒 | ルカ福音書より

ルカ福音書5章から、前回の続きです。

1回目にイエスがペテロに言ったことは、
舟を少し漕ぎ出すことでしたが、
2回目に言っていることは、
漁師のペテロとしては
そう難しいことではありませんでした。

しかし、ペテロ本人にとっては、
「えっ」と思えるようなとても無理な話でした。
なぜ、無理と思えるようなことでしたか。

群衆のための話が終わった後、
イエスがペテロに言われたことは、
ルカ5章4節以下の話です。

5:4 話が終わるとシモンに言われた。
「深みに漕ぎ出し、
網を下ろして魚を捕りなさい。」
5:5 すると、シモンが答えた。
「先生。私たちは夜通し働きましたが、
何一つ捕れませんでした。
でも、おことばですので、
網を下ろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、
おびただしい数の魚が入り、
網が破れそうになった。

少し漕ぎ出した小舟の中からイエスは、
岸にいる大勢の群衆に話をされました。
その話が終わると、
ペテロに「深みに漕ぎ出し、
網を下ろして魚を捕りなさい。」
と言われました。

イエスはペテロたちが一晩中、
漁をしていたのを知らなかったのでしょうか。
イエスは彼ら漁師たちが
舟から降りて網を洗っているのを
見ておられなかったのでしょうか。
恐らく、夜の間、
彼らは漁をしていたのだとわかる光景です。
どうやら、魚はあまり獲れていなかったことも想像できたかもしれません。

ですから、そのイエスの意外な言葉を聞いて、
ペテロは「えっ?」と思ったはずです。
「先生。私たちは夜通し働きましたが、
何一つ捕れませんでした。」と
イエスに知ってもらいたい重要な情報を
伝えています。
しかし、ペテロとしては、
その自分たちのことを知ったうえで、
イエスは言っておられるのだと、
ウスウス感じていたのかもしれません。

それにしても、ペテロはなぜ
「おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と、イエスの言われることに簡単に従ったのでしょうか。
イエスに出会って、
まだ間もないペテロです。
イエスのことが
それほどわかっていなかったはずです。
しかし、イエスのことを「先生」と呼んでいます。
ペテロは、イエスが人々のいろいろな病気を
癒しておられることを知っていました。
また、湖岸に集まっていた群衆に
話をしておられるのを、
同じ舟の中の一番近いところで
聞いていたかもしれません。

「おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
と言っている、ペテロのこの短いひと言には、
意味があるように思いませんか。
「おことばですので」と言っています。
しつこいですが、「おことばですので」と、どういう思いでペテロはこのように言ったのでしょうか。
どう思いますか。

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「お願いもせず勝手に」

2025年03月14日 05時30分09秒 | ルカ福音書より

ホセア6:3 
私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。
地を潤す、後の雨のように。(新改訳2017)

わたしたちは小グループのバイブルトークを
いろいろなグループでやっていますが、
その集まりの目的は単なる聖書研究ではなく、
「主を知ること」です。
ですから、どんな聖書の個所からも、
ここで「イエスとはどういう方でしょうか」
という質問を入れています。
旧約聖書の場合、
「主なる神とはどういう方でしょうか」となります。

主イエスに出会うなら、人は救われます。
主イエスに出会うなら、人は変えられていきます。
主イエスに出会うなら、道、真理、いのち
について開かれていきます。

今日から、また新しくルカによる福音書から
のストーリーを一緒に見ていきたいと思います。
この箇所から主はあなたやわたしに
何を語っておられるでしょうか。
聖霊に聞いていきたいと思います。

これから取り上げる聖書の話は、
イエスが個人的にひとりの人に
呼びかけたところから始まります。
言い換えると、この驚くべき奇跡の話でも
イエスが最初の主導権を取っておられるのです。

ルカ5:1~3
5:1 さて、群衆が神のことばを聞こうとして
イエスに押し迫って来たとき、
イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、
5:2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。
漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスはそのうちの一つ、
シモンの舟に乗り、
陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。
そして腰を下ろし、
舟から群衆を教え始められた。(新改訳2017)

ここで、イエスは群衆に話をするために
シモンの舟に乗り込まれたのですが、
シモンに頼んで乗り込んだのでしょうか。
勝手に乗り込んだのでしょうか。

イエスはシモンのことを
知っておられたのでしょうか。
知らない人の舟に勝手に乗り込まれたのでしょうか。
どう思いますか。

聖書のこの箇所からは、
イエスが初めて会った人の舟に、
お願いもせず勝手に乗り込んだと思われます。
イエスのされることは非常識なことも多いので、
それもありかと思ってしまいます。

しかし、この話の前の章、4章を見てみると、
わかることがあります。
イエスはシモンの家に入って行っています。
その家で、シモンの姑が高熱で、苦しんでいたので、彼女を癒されました。
そして、今度は家ではなく、
2艘あったうちのシモンの舟に乗り込んでおられます。

シモンはイエスのことを知っていたし、
イエスはシモンのことを知っておられたようですね。

そして、舟に乗り込んだ後、
網を洗っていたシモンに、
少し沖に漕ぎ出すように頼んでいます。
そこから群衆に話をするためでした。

ここまでのイエスの様子から分かることは、
誰かに言われてではなく、
すべてイエスが自分から進んで
やっておられるようです。

そして、話が終わると、
またここでイエスがペテロに
何かを言い出されたのです。

 はい、ここまで、すべてイエスの主導権で
事が進んでいます。
1回目にイエスがペテロに言ったことは、
舟を少し漕ぎ出すことでしたが、
この2回目に言っていることは、
漁師のペテロとしては
そう難しいことではなかったのです。
いえ、しかし、ペテロ本人にとっては、
「えっ」と思えるようなとても無理な話でした。
 群衆のための話が終わった後、
イエスはペテロに何を言われたのですか。

ルカ5章4節以下の話です。
次回に続きます。
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