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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「聖書を学ぶ秘訣」

2019年02月26日 06時40分37秒 | 神の国とは

 よく知られた姉妹のお話が聖書に出てくる。

皆によく知られた有名なお話である。

わたしはこの話をバイブルトークとして、いろいろなところでいろいろな教会で何回やったか分からない。

そして、やる度にこんな簡単で短いお話から次々と新しい気づきが与えられてきた。

それは、自分でも不思議なほどである。

そうです。

「マルタとマリヤ」のあの話のことだ。

 グループでのバイブルトークでは、何でも自由に話してよいことになっている。しかし、学びの中心であり、最後の行き着く先は、イエスとはどういう方かということを、グループのリード役はしっかりつかんでいなければならない。

どうしてかと言うと、それには理由がある。

次のみ言葉に聖書を学ぶ秘訣と言えるものがあるとわたしは思っている。

ヨハネ5:39,40のイエスのみ言葉だ。

もう何度も取り上げてきたみ言葉の個所であるから、覚えておられると思う。

分からない方は、ご自分で聖書を開いて確認してほしい。

これはイエスご自身の言葉であるし、イエスが聖書をどう見ておられるかということでもある。

聖書を学ぶ時、このみ言葉の視点から、イエスとはどういう方かを見ていくのだ。

このみ言葉によれば、そのようにしてイエスのもとに来る人に「いのち」が与えられると約束されている。

そして、このイエスのことを見ていくうちに、わたし自身、気づかされ分かってきたことがある。

そうです。

神の国のこと。

次回からこの視点で、「マルタとマリヤ」の話を一緒に学んでいきたいと思う。

 

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「神の国での生き方」

2019年02月22日 06時08分51秒 | 神の国とは

 マタイ20:20~28の話を神の国の視点から読んでいる。

このお話からの最終回である。

ここで、イエスはこの世の国と神の国とを対比させておられる。

異邦人の支配者たち、上に立つ人たちは権力を振るっているが、あなたがたはそうであってはならない、と言われた。

この話から、イエスに従ってきた弟子たちではあるが、イエスの言われる神の国のことがまだ、分かっていなかったことがよく分かる。
では、神の国に生きるとはどういうことなのか。

「偉くなりたい人は、人に仕える者となり、一番になりたい人は、皆の僕になりなさい」

ということだった。

前にも言ったように、これはこの世の中で出世するための処世術ではない。

神の国の中での生き方なのだ。

イエスの弟子たちが、そのような生き方をすると何がどうなるのか。

イエスの言われる言葉に従って生きる人たちがいるところに、神の主権と支配、神の国が現わされていくのだ。

その人たちこそ、神の国と神の義を求めている人たちである。

 

さて、この話の最初の出だしは、どういうことからだったか、をもう一度見てみよう。

ゼベダイの子であるふたりの弟子たちの母親がイエスに何かのお願いに来たことから始まっている。

「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」と母親は言いに来た。

この個所で「あなたの御国」というところを新共同訳では「あなたが王座にお着きになる時」と訳している。

ふたりの弟子とその母親が神の国でのことを言ってきたので、イエスはその母親たちの思っている神の国のことを否定してはおられないが、それとは違った、今現在の神の国のことを話されている。

イエスは、この母親と息子たちが思っている神の国のイメージとご自分の神の国のイメージの違いについて説明する代わりに、「異邦人の間では、支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と言われた。

「異邦人の間では」というところを、わたしは「この世」と理解して読んでいる。

この世の中に生きていながら、神の国と神の義を求めて生きる人は、この世の人たちと同じようであってはならない。

なぜか。

それは、この世にあって、神の国が力をもって現わされていくためだ。


「それは、人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。(マタイ20:28口語訳)

 

 

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「仕える人になるのは」

2019年02月19日 06時42分01秒 | 神の国とは

 「神の国シリーズ」としてマタイ20:20-28 のお話の続き。

この話はもともとふたりの弟子たちの親から出てきた話だった。

自分の息子の将来を思う母親が言ってきたことから話が始まっている。

もう一度、そのはじめの方を見てみよう。

 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
そこでイエスは彼女に言われた、
「何をしてほしいのか」。
彼女は言った、
「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。

 このゼベダイの子らの母親は、「あなたの御国で」と言っているから、神の国について、将来完成される神の国のことを思って言っているようだ。
その時、自分の息子たちのことをよろしくと頼んでいる。

自分の息子が将来、成功して偉くなってほしいという親の願いは、昔も今も変わっていない。

この母親はまだ、イエスの言っておられる神の国のことがよく分かっていなかったようであるが、イエスはそれに対して親切に答えておられる。

 

偉くなりたいと思っている人は、仕える人に、頭になりたいと思う人は僕になるのだとイエスは言われた。これは、神が主権をもって支配される今この時の神の国での生き方なのだ。

ここで、イエスは将来完成される神の国のことではなく、「神の国は近づいた」と言われる、その神の国のことを話しておられるのだ。

ということで、仕える人になるというのはこの世の中で出世して、偉い人になるための処世術を教えておられるのだとは言えない。

 他の10人の弟子たちはこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨したようだ。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、
「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
あなたがたの間ではそうであってはならない。・・・」

ふたりの弟子たちとその母親がイエスと話をしていた。
神の国において、このふたりがイエスの右と左の座に着くことについての話だった。

その話を横で聞いていた他の10人の弟子たちが憤慨したというのだ。

どういうことで、この10人は気を悪くし、憤慨したのだろうか。

自分たちのことをさしおいて、こんな重要なことをイエスと話し合っているこの母親とふたり息子のことで憤慨したようだ。

この弟子たちもイエスの右と左の座に着くことついて無関心ではなかった。

弟子たちの間で、競争意識、ライバル意識が働いている様子がうかがえる。

信徒同志の比べ合い、牧師同志のライバル意識、教会間の競争意識と少し似ているだろうか。

つまり、イエスに従ってきた12人の選ばれた弟子たちですら、神の国のことがまだ分かっておらず、心はこの世の国に生きている人たちであった。

そこで、イエスは、異邦人の支配者たち、上に立つ人たちは権力を振るっているが、あなたがたはそうであってはならない、と言われた。

イエスはここで、この世の国と神の国とを対比させておられる。

イエスに従ってきた弟子たちは神の国に生きることを学ぶ必要があったのだ。

どう思いますか。

 

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「絶大な存在価値」

2019年02月15日 06時32分07秒 | 神の国とは

 前回の続きで、マタイ20:20-28 から学んでいる。 

 

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。

あなたがたの間ではそうであってはならない。
かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない」
とイエスは言われた。

これはこの世での出世のための秘訣を教えておられるのだろうか。

もちろん、そういう意味にとることも出来る。

職場やいろいろなところで、へりくだって、仕える人になろうとすることは、悪いことだとは言えない。それは、皆に認められ、皆に良い評価を得ることにもなる。このような生き方は世の中で、成功した人の苦労話としても出てくるので、これは決して聖書だけの教えだとも言えない。

いや、聖書の方がもっと早くから教えていることであって、人が後で気づいたのではないか、とも言えるかもしれない。

それはそれでよいとして、ここでわたしの言いたいことがある。

イエスの言われるように他の人に仕える者となれる人は、自分の人間としての値打ちや価値、あるいはそのアンデンティが働きの成果や社会的な地位とは別のところでハッキリしている人である。

いじめなどで自殺に追いやられた子どものニュースが絶えない。そんな形で子どもを亡くした親にとって、その子どもの存在価値は学校の成績や評価などに関係ないはずだ。

放蕩息子のあの父親は、息子が死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかったと言って、息子の存在そのものを喜び盛大な祝宴を開いている。

ところが、働き志向の兄には、その父親のやっていることが気に入らず、家に入ろうともしなかった。

イエス・キリストを信じたあなたやわたしはこの父親の愛にも似た神の愛をいただいているのだ。

「わたしたちが神の子と呼ばれるには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい」(1ヨハネ3:1)

ここにあなたやわたしの人間としての絶大な存在価値がある。

ただし、これは時間を取って、よーく考えなければならないテーマでもある。

 

ということで、何かの働きによって、また立場や地位などによって自分の存在価値を得ようとしなくてもよい人は、仕える人にもなれるわけである。

ところで、仕える人はずっと仕える人で、最後までそのままでよいのか。

どう思いますか。

 

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「思うように出来る立場」

2019年02月12日 06時18分22秒 | 神の国とは

 

人に認められ、一定の評価を得ることを願っていない人はいるだろうか。

それが良いことかどうかは別として、人にどう評価され、人にどう思われているかを気にするのは、人として普通のことだ。

わたしもブログでこのような「聖書との対話」を発信し続けているが、時として、これはいったい読む人にどう思われているのかと気にすることがある。

この年になってもである。

「神の国シリーズ」として、更に聖書から別の話を取り上げたいと思う。

 

マタイ20:20-28  

そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。

そこでイエスは彼女に言われた、
「何をしてほしいのか」。
彼女は言った、
「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。

イエスは答えて言われた、
「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。
わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。

彼らは「できます」と答えた。

イエスは彼らに言われた、
「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。
しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。

十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、
「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。
かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。

それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。(口語訳)

 

人を自分の下で支配し、思うように出来る立場や地位を求めるのは、自分が人よりも優れた人間であることを示したいという願いからであるかもしれない。
もっと言えば、人を支配でき、ある程度の権力を振う立場に立ってこそ、自分の人間としての値打ちと価値を高めるものだと思いもある。

ゼベダイの子らとその母が、イエスにわざわざ頼んでいるのは、そのような思いからであったかもしれない。

 イエスは、このことについて何と言われたか。
偉くなりたいと思う者は、仕える人とならなければならないと言われた。
これは偉くなるための処世術を教えておられるのだろうか。

どう思いますか。

 

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