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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「将来の完成された神の国」

2019年01月29日 06時01分58秒 | 神の義とは

 

さて、聖書の言っている神の国について、また神の義について分かち合ってきましたが、ある程度の理解が得られたでしょうか。
これらのことは、今のあなたやわたしの信仰の歩みにも関係があるでしょうか。

 

そこで、神の国について、更に付け加えておくことがあります。

それは将来の完成された神の国のことです。

神の国について3つの見方があります。

ひとつは、死後に約束されている天国も神が完全に支配される神の国です。

また、イエスやパウロが宣教の中心とした今現在の神の国があります。

3つ目は、特にヨハネ黙示録においてハッキリと約束されている将来の神の国があります。

それは今現実からは信じられないような完成された神の国です。

 

ヨハネ黙示録11:15 
第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。
すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。
主は世々限りなく支配なさるであろう」。(口語訳)

 

ヨハネ黙示録21:1 
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。
先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。(口語訳)

 

あるクリスチャンたちは、死後の天国を神の国として強調します。
「天国に行けますように」と祈る人たちです。

ある人たちは、将来の完成された神の国を強調します。

しかし、それと共に、イエスの宣教の開始とともに始まった神の国があります。

「御国が来ますように」と祈る人たちが信じている神の国です。

あなたはこの3つのうちで、どの神の国に一番関心がありますか。

わたしは、もちろん、死後の天国のことに無関心ではありませんし、将来の完成された神の国を思う思いもありますが、今のところは、現在、あらわされる神の国に関心があります。

イエスはその働きを通して、将来の神の国を今現在にもたらされたとも言えます。

 

コロサイ1:13 
「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(口語訳)

口語訳も新改訳も、この個所を「愛する御子の支配下に」と訳されていますが、英語訳では、「愛する御子の王国に移して下さった」と訳されています。

He has delivered us from the power of darkness and conveyed us into the kingdom of the Son of His love,NKJV

イエス・キリストを信じて救われた人たちは、罪を赦され闇の力の支配から救い出されただけではありません。
御子を王とする王国の民とされたのです。

これは将来のことではなく、今現在のことです。

そして、あなたもわたしも、今のこの時、神の国の義や愛や喜びや平和を味わっているわけです。

どう思いますか。

 

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「正しい裁きをされる方」

2019年01月25日 06時15分32秒 | 神の義とは

 宮に上って、祈ったパリサイ人と取税人がいたが、神に義とされて、家に帰ったのはあの取税人だった。

もちろん、この取税人のやっていたことが良しとされたのではない。

神はふたりの人の心を見ておられた。

人のことではなく、自分の罪と間違いをはっきりと認めて神の前に出ていたのは取税人の方だった。

イエスは神の義についてハッキリ分かっておられた。

だから、神に義とされたのは、この取税人の方だと断言されている。

 

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(ローマ3:23-25新共同訳)

 

しかし、わたしやあなたは多くの場合、自分の義と神の義とを混同してしまいかねないものである。

 

もうひとつ、神の義はまた、キリストの十字架を通して現わされた。

 
「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(1ペテロ2:23口語訳)

 

イエスは誰にののしられ、苦しめられたのか。

イエスはパリサイ人を代表とする、自分たちを正しいとする人間の義によってののしられ、苦しめられ、十字架に追いやられていったのだ。

しかし、その中で、イエスは正しい裁きをされる方にいっさいをゆだねておられた。これはイエスが神の義を求めておられる姿勢であるとも言える。

そして、そのイエスは、復活の後、天においても地においてもいっさいの権威を与えられたのである。(マタイ28:18)

 

この神の義を求めていく人のところに神の国が現わされていく。

また神の国を求めていく人のところに、神の義と人間の義の対立も起こってくる。

その神の国の主権と支配は、罪赦され、神に義とされたあなたやわたしを通して、またエクレシアという信仰共同体である教会を通して現わされていく。

どう思いますか。

 

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「自分の義、神の義」

2019年01月23日 09時02分54秒 | 神の義とは

 「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それらのものはすべて添えて与えられます」というみ言葉から、神の義について学んでいる。

 

あの宮で祈っていたパリサイ人は、神の義を知ろうとしないで、自分の義を立てることに熱心な人であった。

その姿は、前に引用したパウロの言っている言葉にも一致している。

 

「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」(ローマ10:3 口語訳)

 

まさに、これはあの宮で祈っていたパリサイ人のことだ。

そして、このパリサイ人はまた、自分の正しさを主張することで、神の義を認めようとしない多くの人間を代表している人だとも言える。

自分の正しさを主張することで、争いが起こり、人間関係も駄目にしていく。これも人間の現実であり、多くの人たちが日々経験していることではないか。

しかし、神の義が現わされてくるところに、平安、平和がある。
だから、その神の義と神の国とは無関係ではないのだ。


「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」(ローマ 14:17 口語訳)

 

一つの国には、法律を決める議会(立法府)があり、法の下に正しいか間違いか、有罪か無罪かを決める裁判所(司法府)があり、法の下に行政を行う内閣(行政府)がある。いわゆる三権分立である。
神の国(王国)にも国家としての権威がある。

その中で、正しい間違いをハッキリさせる司法権がある。

つまり、裁きの権威である。

そこで何が間違いか、何が正しいかを決める神の義がハッキリ現わされるのだ。

神の国において、これは無視できない、欠かせない働きであり、分野である。

 

 

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「着地点」

2019年01月18日 06時19分31秒 | 神の義とは

 前回の続き。

聖書をひとりで読むことも大切だが、何人かのグループで一緒にみ言葉に向き合っていくと、ひとりで読んでいる時よりも短い時間で多くの発見があるようだ。

そこに聖霊の働きもあり、豊かな内容の会話が開かれていく。

わたしもいくつかのグループでバイブル・トークをやっているが、いつもそのような経験をしている。

しかし、何でも自由に話せる場であったとしても、限られた時間の中で、その学びが豊かな内容となっていくためには知恵と導きが必要である。
その一つは、その学びはどこに向かっているかをリードする人は知っていなければならない。そうでないと、いろいろな話題で自由な話は出来たとしても、それで終わってしまうなら、そのような学びの場は続いていかないだろう。

 

「ふたりの人の祈り」のお話の最後の方で、イエスは言われた。

「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」

これは、ずいぶんと断言的な言い方であるが、普通の人にはこんな判断をし、こんなことはなかなか言えない。

イエスのこの判断をあなたは受け入れますか。

 

断片的ではあるが、前回紹介したグループの報告の続きをもう少し紹介したい。

「私たちはパリサイ人の祈りを不快な気持ちで読むが、自分の中にもパリサイ人的なところ、古い自分がかなり色濃く残っていることを認めざるを得ない。

特に、私たちは人と自分を比べて優越感に浸るより、劣等感を抱くことの方が多いが、それは神の前に自分を低くすることとは対極の“謙遜傲慢”につながり、“人と比べる”の一事において他人を見下すことと同じ罪だと分かち合えた」

 

バイブル・トークでは、皆さんが思ったことを自由に話し合える場であるが、しかし、それだけではない。リーダーは限られた時間であっても、その話し合いの着地点をハッキリしていなければならない。

私たちが「バイブル・トーク」を「イエスに出会うバイブル・トーク」としているのもそのためである。

このグループの場合、「ふたりの人の祈り」の学びの着地点はこうだった。

 「聖霊に内住していただいている私たちはいつでも宮にいるようなものである。
生活のただ中で、人と比較するのではなく、ひたすら神を見上げ、悔い改めに導かれたらすぐに悔い改め、古い自分が十字架につけられていることを認めていこうと話し合って終わった。それが今回の私たちの着地点であった」

これはどこかの有名な牧師の話ではない。また、何かの信仰書や聖書注解書に書かれていた言葉でもない。普通のクリスチャンたちのグループでのバイブル・トークの中で話し合われた結論であった。

 あなたの場合、この話はどのような着地点となりますか。

 

 

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「あるグループでのバイブル・トーク」

2019年01月15日 06時12分08秒 | 神の義とは

 前回からの続き。

「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。
そうすれば、それらのものはすべて添えて与えられます」というみ言葉から、神の義について学んでいる。

その神の義について、ルカによる福音書18章9~14節に出ている「ふたりの人の祈り」のところを学んできた。
信徒の人たちだけのあるグループで、この個所の学びがされたそうだ。

その報告を読ませてもらい、特別に神学校に行った人もいないこのグループでよくこのような深い話し合いがなされ、素晴らしい気づきが与えられたなーと感心するところがあった。

それで、その一部だけを、承諾をいただき、ここに紹介させていいただきたい。

特別に新しいことではないかもしれないが、皆さんでしっかりとみ言葉に向き合い、気づきや発見が与えられていることがよく分かる。

このグループの人たちが、イエスのこのお話に出てくるパリサイ人と取税人のふたりの祈りの違いをどうとらえているかを見ることが出来る。

 

「そこで、今回はストーリーをよりゆっくりと話ことばで丁寧に語り、内容確認の質問にも時間をかけた上で、真理発見の質問の最初、この二人の祈りをどう感じましたか? 二人の違いは何ですかと全員に問うてみたところ、想像以上に的確な答えが返ってきた。

≪パリサイ人≫

・神に祈っているようでいて、実のところ自分の正しさをアピールしているだけ。

・他人との比較で優越感を抱いている自己満足な人。

・標準線を自分で引き、それより上か下かで人を判断、見下している。

・自分で自分を義人と定め、自分が神になっているのでは?

・宮に上がってはいるが本当の意味で神の前に出ていない。

 

いや、鋭い見方だと思う。

いろいろな意味で、的をついていますね。

特に、自分で自分を義とし、自分が神となっている、というのは鋭い見方だと思う。

自分を義としているこのパリサイ人は、言い換えれば、自分を神の座に置いていることになる。

それでは神に義とされるわけはないのは、当然だ。

 

≪取税人≫

・他人との比較もないわけではないだろうが、神に目が向けられている。

・自分の罪深さと弱さを自覚し、神に告白している。

・自分の置かれた立場をよくわかっており、神の前で深い悔い改めをしている。

・悔い改めをした上で、神に憐れみと救いを求めている。

・義を自分で定めていない。等々。

 

自分の罪の現実を正直に認め、神の前にその正直な心を祈った経験のある人は、この取税人の祈りのことがよく分かるはずだ。

このグループの中にもそのような経験のある人たちがいたのだと思われる。

どう思いますか。

 

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