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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「真っ暗な中での出会い」

2024年10月29日 05時30分01秒 | ヨハネ福音書より

わたしは何かの恐れのために行動したり、
また反対に恐れのために自分の行動を
変更することがあります。
あなたはそういうことがありませんか。

ヨハネ18章に行きます。
ここにも恐れによって行動した人と
恐れによって行動していない人の両方が出てきます。その対比でみていくとよく分かる話です。

ヨハネ18章
18:1 イエスはこれらのことを語り終えて、
弟子たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた。そこには園があって、
イエスは弟子たちと一緒にその中にはいられた。
18:2 イエスを裏切ったユダは、
その所をよく知っていた。
イエスと弟子たちとがたびたびそこで
集まったことがあるからである。
18:3 さてユダは、
一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人たちの送った
下役どもを引き連れ、
たいまつやあかりや武器を持って、
そこへやってきた。

いよいよイエスが捕らえられ、
連れて行かれるあの場面です。
緊迫した様子が伝わってくるようですね。
イエスを捕らえるためにやって来た人たちは、
たいまつや明かりを持っていますから、
これは夜ですね。
人影も見えないような真っ暗な時間です。
多分、そこらには街灯もなかったはずです。

そして人里離れたケデロンの谷の向こうにある園が
その場面です。
名前は書かれていませんが、
多分ゲッセマネの園ですね。

そこにいたイエスと弟子たち一行のもとへ、
突然、暗闇の中に一群の人たちが
明かりを手にして現れました。
事前に打ち合わせをしていて約束の時間に、
皆が集まったというのではありません。
予告もなく、真っ暗な中に突然、
明かりや武器を持った大勢の人たちが現れた
とすると、あなたならどうしますか。

弟子たちはその明かりと人の気配に
ビクッとしたでしょうね。
こんな時に相手に何か声をかけるのは、
どちら側であってもそう簡単ではないですね。
この状況で誰が最初に何を言ったでしょうか。
武器を持った人の側から
何か声をかけてきたでしょうか。
 それともイエスと弟子たちの側からでしたか。
次回に続きます。

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「愛、喜び、平安」

2024年10月25日 05時30分21秒 | ヨハネ福音書より

 前回は、
目に見えるクリスチャンたちの交わりに
つながっていることは、
目に見えない主イエスにつながっていることになり、これは霊的な真理であり、
とても分かりやすい大切な真理であることを確認しました。

主イエスは
「わたしにつながっていなさい。
そうすれば、わたしもあなたがたとつながっていよう」と言われました。

主イエスにつながる方法は
いろいろあると思いますが、
このことも主イエスにつながるための
やさしい方法と言えます。

あなたもきっと経験があると思いますが、
クリスチャンがお互いに集まり、祈ったり、
讃美したり、み言葉を分かち合う時、
そこに何かの喜びや愛や平安、
そういったものを経験することがあります。
これはどういうことかと考えたことがありますか。

そこに聖霊の働きもあります。
そこに「いのち」が表されるのです。

ローマ 8:6 
肉の思いは死ですが、
御霊の思いはいのちと平安です。(新改訳2017)
ローマ8:10 
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、
からだは罪のゆえに死んでいても、
御霊が義のゆえにいのちとなっています。
(新改訳2017)

お花や植物にもいのちがありますが、
犬や猫の動物のいのちはそれに優ります。
更に人のいのちは動物のいのちに優ります。
そして、
神のいのちは人のいのちに遥かに優ります。

上記のみ言葉に出て来る「いのち」は
神のいのちだと思います。
そのいのちは平安や愛や喜びによって表されます。
御霊の実(ガラテヤ5:22,23)もそうですね。

主イエスを信じる人たちの集まりに
主ご自身がおられ、
その人たちを通して
イエスのいのちが表されるのです。

主イエスにつながっているなら、
その人たちは実を結びます。
「もし人がわたしにつながっており、
またわたしがその人とつながっておれば、
その人は実を豊かに結ぶようになる。」
(ヨハネ15:5口語訳)
そして、この15章の9―11節には、愛、喜びのことが出てきます。

あなたもきっと主イエスを信じる人たちとの交わり、集まりの中で、
そのような愛や喜び、平安を
経験しておられるでしょう。
それは神のいのちの表れだと思います。
主イエスにつながっているからです。

わたしたちがやっているバイブルトークのことを、
「イエスに出会うバイブルトーク」と呼んでいます。いろいろな聖書のストーリーに共に向き合って
いく時、そこに聖霊が働き、いのちが表され、
イエスに出会うことが起こるからです。




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「なぜわたしを迫害するのか」

2024年10月22日 05時30分18秒 | ヨハネ福音書より

 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」

とは、誰が誰に言った言葉でしたか。
聖書のどこに出てくる言葉でしたか。
そうですね。
これは迫害者サウロに対する
主イエスの天からの声でした。
使徒の働き(使徒行伝)9章に出てくる言葉です。
ご存じですね。

ダマスコ途上での、
この主イエスとの劇的な出会いが、
迫害者サウロを使徒パウロに大きく変える
転機となりました。

少し前のところから、
ヨハネ15章の「わたしにつながっていなさい。
そうすれば、わたしもあなたがたとつながっていよう」と言われた主イエスの言葉の意味を問うています。
今日、主イエスにつながるとは、
どうすることかについて見ています。

急に使徒の働きに飛びましたが、
この主イエスの短い言葉も
これと関係のある大切な意味をもっています。

迫害者サウロは
クリスチャンたちを迫害していました。
しかし、ここで主イエスは
「なぜわたしを迫害するのか」と言っておられます。
「なぜわたしを信じている
クリスチャンたちを迫害するのか」
とは言っておられません。
これは主イエスの少し極端な言い方なのでしょうか。
それともクリスチャンたちを迫害することは、
主イエスを迫害することと同じだと、
文字通りとってもよいのでしょうか。

一番戸惑ったのは、
この時のサウロだったと思います。
自分はクリスチャンたちを異端の者として
迫害しているのであって、
イエスを迫害しているつもりはない。
なぜ、そんなことを言われるのか。

その後、サウロは目が見えなくなりました。
それは何日間でしたか。
そうです。3日間でした。
その目が見えなくなった間、
彼の頭にこの疑問が繰り返し繰り返し起こってきた
とわたしは思います。
なぜ、クリスチャンを迫害していた自分が、
イエスを迫害していたことになるのか。
その疑問を持ち続けていたサウロでしたが、
どれくらい後でしょうか、
そのパウロ(改名して)に
新しい啓示が与えられました。
何でしょうか。
「キリストのからだ」という啓示です。

「あなたがたはキリストのからだであり、
ひとりびとりはその肢体である。」
(1コリント12:27口語訳)

主イエスはダマスコ途上のサウロに最初から
「なぜ、わたしのからだでもあるクリスチャンたち
を迫害するのか」
と言っておられません。
短く「なぜ、わたしを迫害するのか」という
強烈な言葉を語っておられるだけです。
なぜでしょうか。

主イエスは、
目が見えなくされたサウロが、
その後、この短い言葉を思いめぐらし、
その真理を自分で発見するように導いておられます。
もちろん、聖霊の助けによってです。

ということで、分かってくることがありますね。
目に見えるクリスチャンたちの交わりに
つながっていることは、
目に見えない主イエスにつながっていることになります。
これは霊的な真理です。
とても分かりやすい大切な真理です。
どう思いますか。

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「見えるもの、見えないもの」

2024年10月18日 08時18分41秒 | ヨハネ福音書より

ヨハネ15章のみ言葉からです。
主イエスは「わたしはぶどうの木」と
言われましたね。
そして、
「わたしにつながっていなさい。
そうすれば、
わたしはあなたがたとつながっていよう。」
と言われました。(ヨハネ15:4)

そして、枝がぶどうの木につながっていなければ、
実を結ぶことがないように、
イエスにつながっていなければ、
わたしたちも実を結ぶことがないのです。
人がイエスにつながり、
イエスもその人につながっているなら、
その人は多くの実を結ぶ、
と言われています。

それで、あなたやわたしは今日、
どのように主イエスにつながるのかを話題としています。

前回は、
「2,3人が、わたしの名によって集まっている
ところに、わたしもそこにいる」
というみ言葉を取り上げました。

主イエスがそこにおられるのであれば、
その主につながり、関係をもつことは可能です。

また、2,3人がイエスの名によって集まる
ということですが、
その2,3人は集まることで、
お互いにつながり、関係をもつことになります。
そういうことですね。

主イエスの名によって集まる人たちのいる所に
主イエスがおられるのですから、
その2,3人の集まりの中で、主イエスにつながり、主イエスに出会うことが起こるのです。
どう思いますか。

ということは、5,6人でなくても、
少しさびしいと思える2,3人の集まりを
主イエスは大切に思っておられます。
わざわざわたしもそこにいる、
と言っておられるからです。

ですから、わたしたちも2,3人が
顔を見合わせると、
少し頼りないような感じであっても、
主イエスがそこにおられるのであれば、
話は変わってきます。
主イエスにつながるチャンスがそこにあるからです。
主イエスにつながる人は実を結ぶのです。

ということで、2,3人の集まりを軽視し、
5,6人であれば満足に思ったりするのは、
わたしが主イエスではなく、
目に見える人を頼りにしているからだ
と気づかされます。

「わたしたちは、見えるものにではなく、
見えないものに目を注ぐ。
見えるものは一時的であり、
見えないものは永遠につづくのである。」
(2コリント4:18口語訳)

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「2,3人の集まり」

2024年10月15日 05時30分54秒 | ヨハネ福音書より

しつこいかもしれませんが、
下記のみ言葉に更に耳を傾けていきましょう。

「わたしにつながっていなさい。
そうすれば、
わたしはあなたがたとつながっていよう。」
(ヨハネ15:4)

このみ言葉を直接、聞いた当時の弟子たちは
イエスにつながることは
そう難しくなかったと思います。

しかし、今日のわたしたちはどうでしょうか。
イエスにつながると言っても、
イエスは見えません。
どのようにつながるのでしょうか。

前回も言ったことを繰り返します。
日曜日には教会に行き、
毎日、聖書を読み、祈る時間をもっていること、
それも主イエスにつながっている
ことであるかもしれません。
目に見えないイエスにつながる方法として、
これは今日のわたしたちクリスチャンが
一般的にやっていることです。
このようにしてイエスにつながることが出来ます。
逆に言えば、このようなことを止めてしまうなら、
イエスにつながることから
切れてしまうことになります。

さて、ここで今日のわたしたちがイエスにつながる、もう一つの分かりやすい方法があります。
何でしょうか。
イエスを信じている信仰の仲間たちと
つながることです。
あなたはこのつながりについて
どう思っておられますか。
この信仰の仲間たちとのつながりや交わりが
大切なのは、
それがイエスとつながることに関係があるからです。
このことについて、どう思いますか。

イエスを信じる信仰を同じくする仲間と
つながることは、イエスにつながることになる
と言えるのは、どうしてでしょうか。

ただ、そう思いなさいということでしょうか。

それとも、それは聖書的なことであり、
主なる神の願っておられることなのでしょうか。

主イエスの言われたみ言葉から、
またパウロの言っているみ言葉からそのことをハッキリしたいと思います。

まず最初に引用したいみ言葉は、これです。

マタイ 18:20 
ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、
わたしもその中にいるのである。(口語訳)

よく知られている有名なみ言葉ですね。
素晴らしいみ言葉ですね。

何かの時にクリスチャンが3人しか集まらなかった時、あなたはどう思いましたか。

わたしの経験を言えば、
今日はこれだけしか集まらなかった。
少しさびしいな。
あの人はどうして休んだのか。
何も連絡がなかったが・・・。
この顔ぶれで、
今日はこの集まりをしなければならないのか・・・。
せっかく集まるのなら、
やはり5,6人は来てほしかった・・・。
などなどと思ってしまいます。

そうです。そのとおりです。
そのように思うわたしは、
このマタイ18章20節のみ言葉を忘れているし、
無視しています。
このみ言葉のことよりも
人数のことを気にしています。
このみ言葉よりも
人数が多い方がよいと思っています。
どう思いますか。

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