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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「対比によって」

2022年06月28日 05時30分26秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」


ローマ人への手紙5章からイエス・キリストとはどういう方なのか

を見ています。

聖書には多くの対比があります。

それによって真理を分かりやすくしています。

アベルとカイン、ヤコブとエソウ、放蕩息子とその兄などなどです。

 

・「けれども死は、アダムからモーセまでの間も、

アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、

支配しました。

アダムは来たるべき方のひな型です。」(新改訳2017 5:14)

 

ここからイエス・キリストとはどういう方でしょうか。

14節には「来るべき方」と言われています。

この来るべき方のひな型と言われているのが、

人類の先祖アダムですね。

ということは、アダムがキリストのひな型です。

「アダムは、きたるべき者の型である。」(口語訳)

「アダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」(新共同訳)

 

(罪を犯したアダムがどういうことで、キリストのひな型と

言えるのですか。)

(キリストは罪を犯していませんので、アダムがひな型というのは、

どういうことでしょうか。

14節、15節の言っていることですね。)

 

・「しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。

もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、

神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、

なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。」(5:15)

 

「ひとりの違反によって多くの人が死んだ」と

「ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物が多くの人に

満ちあふれている」とが、対比されています。

悪いことの結果が多くの人に及んだのと同じように、

良いこと、つまり恵みの賜物が多くの人に満ちあふれるように

なったのです。

 

(そういうことですね。そういう意味で、アダムはキリストの

ひな型と言えるのですね。)

(そして、16節にも、さらにこの両方の対比が別の言葉で

言われています。どういう対比ですか。)

 

・「また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。

さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、

恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。」(5:16)

 

さばきの場合、恵みの場合、という対比ですね。

さばきの場合とはアダムの場合であり、

ひとつの違反から不義に定められ、

恵みの場合とはイエスの場合であり、

多くの違反が義と認めれることになりました。

次回に続きます。

 

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「なおいっそう確かなこと」

2022年06月24日 05時30分02秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ人への手紙の手紙、だいぶ読み進んできました。

難しいと思えるところですが、繰り返し何度も読んでいます。

本当は、もっと5,6人の小グループで、ああでもない、こうでもないと

話し合いながら聖霊の働きに期待していく時、

もっと新しい気づきや発見があるかもしれません。

 

ひとりが文章に書き、他の人が黙って(黙っていない人もいるかも・・・)

それを読む、ひとりの人が教え、他の人が黙って聞いているというのも

別に悪いことではないのですが、バイブルトークを経験している人たちは、

わたしの言っていることも分かっていただけると思います。

 

・「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、

この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

敵であった私たちが、

御子の死によって神と和解させていただいたのなら、

和解させていただいた私たちが、

御子のいのちによって救われるのは、

なおいっそう確かなことです。」(5:9,10)

 

この個所から、イエス・キリストとはどういう方でしょうか。

ここには「なおいっそう確かなことです」「なおいっそう確かなことです」

と、同じ言葉が2回繰り返されています。これに注目しましょう。

 

(何が確かなことなのですか。)

(簡単に言えば、過去にこういうことがあった。

だから、今現在と将来こういうことが起こるのは確かなことです、

間違いないと断言できます、という意味です。)

 

(では、過去にどういうことがあったのですか。

そして、今現在と将来に起こる、確かなこととはどういうことですか。)

(それは、どうぞ、ご自分でもう一度、

この短いみ言葉から確かめてみてください。

そこにイエス・キリストがどのように関係しているのかも

確認してください。)

(えっ、教えてくれないの。)

(はい、ご自分で発見するチャンスを奪いたくないからです。)

(そんなことを言って、逃げているのではないでしょうね。)

(「御子の死」と「御子のいのち」という対比があります。

ここにヒントがあるかもしれません。)

 

・「それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、

私たちは神を喜んでいます。キリストによって、

今や、私たちは和解させていただいたのです。」(5:11)

 

ここには「キリストによって」という言葉が、2度出てきます。

「キリストを通して」とも言えます。

子どもが直接お父さんに言わないで、

お母さんを通してお父さんに話してもらうというこきもあります。

そして、お父さんの思いや考えを、お母さんを通して知らされる

ということになります。

そしてまた、子どものためにお母さんが頑張ってくれて、

それがお父さんに通じて、お父さんの方から子どものために最善がなされた

ということです。

ですから、その子どもたちはお母さんによって、

お父さんのことを喜んでいます。

 

意味が通じたでしょうか。

次回に続きます。

 

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「黙って死んでくださった方」

2022年06月21日 05時30分54秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

あなたは何か信仰をしておられるのですか、と聞かれると、どう答えますか。

わたしたちの信仰とは、イエス・キリストとどういう関係をもっているか、

とも言えます。

そのイエスとの近い、深い関係を持つためにも、この方がどういう方かを

聖書のみ言葉から知っていくことは、とても助けになります。

 

ローマ人への手紙5章に入ります。

ここからイエス・キリストとはどういう方なのかを見ていきます。

 

・「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、

私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、

今立っているこの恵みに導き入れられました。

そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」(5:1,2新改訳2017)

 

(このみ言葉から、イエス・キリストはどういう方であると言えるでしょうか。

まず、主イエスを信じる信仰によって、

あなたやわたしは義と認められました。罪を赦されたとも言えます。(過去)

 

その結果として、今、この主イエスによって、神との平和(平安)を

もっています。

そしてまた、今立っているこの恵みに導き入れられました。


ですから、今経験しているこの恵みは、

主イエスとの関係、つながりからくるものです。(現在)

 

そして、

このキリストによって神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(将来)

 

ということで、イエス・キリストはあなたやわたしの

過去、現在、将来のすべてに深く関わっておられる方です。)

 

・「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、

不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。

善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために

死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を

明らかにしておられます。」(5:6-8)

 

(ここから、イエス・キリストとはどういう方でしょうか。)

(神はあなたやわたしのことを愛しておられるのですが、

ただ愛しているよ、と言っておられるのではなく、

その愛を見えるように示してくださったのです。)

 

(どのように、ですか。)

(イエス・キリストによってです。)

(それはどういうことですか。)

(あなたやわたしがまだ弱く、神などいるものかと言っていた

不敬虔な人間であった時、いろいろうるさいことは言わず黙ってキリストが

死んでくださった、そのことによってです。

ですから、神の愛とは漠然としたものではなく、

見えるようにイエス・キリストの十字架において明らかにされたのです。)

 

 

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「イエス・キリストとは」

2022年06月17日 05時30分28秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ人への手紙からイエス・キリストとは、

どういう方なのかを見ています。

 

ところが、1章の10節から2章、3章の21節までは、

イエスのことは出てきません。

わたしは見落としているかもしれません。

もう年せいか、よく見落としたり、

見過ごしたりすることがあります。

それで、年寄りを頼りにしないで、

あなたもご自分で確認してください。

 

あっ、やっと出てきました。

3章の22節です。

 

・イエス・キリストとは、この方を信じる人に

神の義が与えられます。(3:22)

 

(また、よくわからない言葉、神の義が出てきた。)

(簡単に言えば、神に義とされ、神に認められ、

受け入れられることです。

確認したい方は、このブログの3月18日のところを

見てください。)

 

・「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、

価なしに義と認められるからです。」(3:24)

 

イエス・キリストとは、わたしたちが神に義と認められ、

受け入れられるために、

ご自分が贖いの犠牲となってくださった方です。

ですから、これは神の恵みです。

 

・イエス・キリストとは、わたしたちが信仰によって受け取るべき、

血による宥めのささげ物となってくださった方です。(3:25)

 

血によるなだめのささげ物とは、十字架の贖いとも言えます。

このあたりの言葉は日常では聞きなれない言葉ですので、

時間をかけて思いめぐらす必要のある言葉ですね。

 

・イエス・キリストとは、この方を信じる者は神によって

義と認められる、そういう方です。(3:26)

 

もともと罪ある者が、主イエスを信じる人となり、

罪赦され神に義と認められる人となります。

 

・「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を

信じる私たちも、義と認められるのです。」(4:24)

 

イエス・キリストとは、十字架上で死んで、墓に葬られ、

死者の中からよみがえった方であり、

その方を信じる私たちは義と認められます。

 

・イエスとは、私たちの背きの罪のために十字架上で殺され、

私たちが義と認められるために墓からよみがえられた方です。

(4:25)

 

イエスの十字架はわたしたちの罪のためでした。

しかし、別の言い方もあります。

イエスが十字架上で殺されたのは、人間の背きの罪によってでした。

復活はわたしたちが義と認められるためでした。

 

次回は、5章からです。

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「イエスとはどういう方か」

2022年06月15日 05時33分56秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

主イエスを信じている自分とはどういう者か、

その自分探しの旅、

その次は、わたしたちの信じている神とはどういう方か、

その神探しの旅と続けてきました。

そのためにローマ人への手紙を1回目、2回目と繰り返し

読んできました。

 

これはいつから始まったのでしたか。

去年のクリスマスの後、12月の年末から始まりました。

ですから、間もなく、半年になります。

 

そしてまた、ローマ人への手紙の最初からです。

3回目になりますが、準備はよろしいでしょうか。

主イエスを信じている自分とはどういう者か。

聖書の神とはどういう方か。

そして、いよいよイエスとはどういう方かについてです。

 

信仰歴の長い方々にとっては、

イエス・キリストのことはもうよく知っている

と思っておられることかもしれません。

わたしもそう思っている時がありました。

 

わたしたちがやっているバイブルトークでは、

いろいろなことを自由に話し合うのですが、

イエスとはどういう方なのか、

このことを着地点としてやっています。

 

そして毎回のように、ご自分のことを絶えず「人の子」と

言っておられるイエス・キリストとは

一体どういう方なのかに改めて気づかされ、

新たな出会いを経験することが少なくありません。

 

では、このローマ人への手紙の中では、

イエス・キリストとはどういう方として紹介されているでしょうか。

 

何と、ローマ人への手紙の1章1節にいきなり、

「キリスト・イエス」と出てきます。

この手紙の著者が、自分のことを自己紹介しています。

わたしはキリスト・イエスのしもべです、と。

 

これはキリスト論などと言われる教理的、

神学的な説明ではないですね。

 

わたしはかっては、神学的、教理的な説明を読んだり、

学んだりするのが好きでしたが、今はそうでもありません。

 

ここでパウロは、自分のことを言っているので、

とても具体的で分かりやすいです。

(イエス・キリストとは誰ですか。)

(わたしの主人です。そして、わたしはそのしもべです。)

(へぇー・・・・)

 

これは神学的な説明によって人に何かを分からせようとしている

のではなく、イエスを自分との関係の中で語っています。

そうです。関係です。

わたしとイエスはこういう関係、こういう間柄なのです、

と言って、イエスを紹介しています。

 

・聖書の中にあらかじめ約束されていた神の福音とは、

実は御子に関することなのです。

ここで御子と呼ばれている方こそ、

実はイエス・キリストのことです。(1:2,3)

 

(実は、福音とは、ひと言で言えば、イエス・キリストのことです。

イエス・キリストのことが分かる人は、

福音、良い知らせ、グットニュースが心の耳に入ってくるのです。

 

福音を語るというのは、単なる福音についての教理的な説明では

なく、御子イエス・キリストについて語ることであって、

それがすべての人にとっての良い知らせ、福音となるのです。

 

ですから、未信者であっても、イエスとはどういう方なのかを、

問うていくことは福音に触れることになります。

となると、わたしたちの伝道についての視点が変わってきます。)

 

・キリストは神の御子であられ、

御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、

力ある神の子として公に示された方です。

その方こそ、私たちの主イエス・キリストです。(1:3,4)

 

(キリストはどういう方なのか。

この説明はシンプルですね。

この言葉を暗記して言うよりも、クリスチャンが自分の言葉で

ー例えば大阪弁や東北弁であっても―言いかえることによって、

未信者への福音となります。)

 

・この方、キリストによって、その御名のために、

わたしたちは恵みと使徒的な務めを受けたのです。

それはすべての未信者の中に信仰の従順をもたらすためです。

(1:5)

 

(ここは「わたしたち」となっていますから、

使徒の務めを受けたのはパウロだけのことではありません。)

 

・異邦人の中にあって、

つまりこの日本という社会の中にあって、

わたしたちも召されてこの方、イエス・キリストのもの

となりました。(1:6)

 

(そうなのですね。

クリスチャンとは、一般的には何か、親切で良い人という印象が

ありますが、実は、本質において召されてキリストのもの

となった人たちです。)

 

・イエス・キリストとは、父なる神と同じように、

わたしたちに恵みと平安を与えてくださる方です。(1:7)

 

・祈りや感謝を神にささげる時、

わたしたちはイエス・キリストとのつながりの中で、

この方を通してすることができるのです。(1:8)

 

・御子イエス・キリストの福音を伝えること、

それよってわたしたちは神に仕えているのです。(1:9)

 

(何度も「御子の福音」という言葉が出てきます。

これは日本語としては、違った意味にも取れます。

御子が宣べ伝えていた福音という場合と、

御子その方自身が福音という場合です。

 

普通はどちらに取りやすいでしょうか。

わたしは後者に取っています。

1章3節にあるように、これは御子に関する福音です。

ということは、イエス・キリストご自身が福音なのです。

この方を信じる人は罪が赦され、救われるからです。

 

言いかえると、イエス・キリストがどういう方であるかを知り、

その方に出会い、その方を信じる人は救われるのです。

それ以外の多くの教理的な教えを

知らなければならないわけではありません。

 

となると、伝道とはもっとシンプルなものとなります。)

 

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