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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

打ち砕かれた心

2014年02月24日 21時00分58秒 | 心について

心が打ち砕かれた時のことを思いだす。

どんな時だったか。


そんな自分のことをどう思ったか。

自分自身のことが情けなく、惨めで、嫌になった。


み言葉は何と言っているか。


詩篇34:18

主はの砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。


たましいが悔いくずおれた人とはどんな人のことか。

誰もそんな人になりたいと思わないはずだ。

そんなことになってほしくないが、人生にはそうさせられることがある。



そんな人に主は近くいて、救いの手を差し伸べてくださる。

わたしが信じている主なる神とはそういう方なのか。


「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。

神よ、あなたは砕けた悔いた心を軽蔑されることはありません」(詩篇51:17)

 

 

 

 

 

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心を造られた方

2014年02月23日 05時54分18秒 | 心について

空気は目に見えない。

命も目に見えない。

心も目に見えない。

主なる神も目に見えない。

このどれも、大切なものなのに無視してしまうことが多い。


なぜ?

見えないから。


詩篇33:15

「主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。」


この聖書のみ言葉によれば、

わたしの心は自然にできてきたものではなく、それを造られた方がおられるのだ。


主なる神は心をもっておられる。

神はわたしをご自身のかたちに似せて造られた。

また、わたしのすることについて心をとめられる。


 
人の顔色や人の目を気にする心と主の目を意識する心。

どちらの傾向が強いか。


主の目を意識する心、

それは信仰に関係している。


 
人のことをどうしても意識してしまう。目に見えるからだ。

主の方を無視してしまう。目に見えないからだ。

この事実を認めよう。


見えるものはすべて一時的で、見えないものは永遠に続く。

これも聖書の言葉。


聖書は目に見えない神を、見えるように見せてくれている。

イエスは目に見えない神を、見えるように現しておられる。


そのイエスは、信じる者の内におられる「栄光の希望」である。

これも見えない。

 

 

 

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口の言葉、心の思い

2014年02月19日 06時20分15秒 | 心について

「また心にもないことを言って・・・」

と家内に言われたことがある。

どういう意味か。

心では、本当はそう思っていないことを口で言っていると思われた場合だ。

見事に見破られたというわけ。

そんな時、

「いやいや、本当にそう思っているよ」

とまた、言わなくてはいけない。


詩篇19:14

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、

の思いがあなたの前に喜ばれますように。」

 

口の言葉と心の思い、これが一致しているかいないか。

それが問題だ。


人から信頼されなくなるのはどういう場合だろか。

口で言うその言葉と日々の現実の行動が、つまり言行が不一致である場合だ。


だがしかし、ここでは自分の口の言葉と心の思いが一致しているか。

そのことが問題とされている。

幸いなことに周りにいる人で、そんなことに気づく人はあまりいない。

だから大事なことではあっても、自分もそれをいい加減にしてしまう。


では、見えない自分の心が見えている方がいるとすればどうか。

家内のことではない。

聖書の神を信じるとはどういうことか。


 その方の前で自分の口の言葉と心の思いが

喜ばれるものになるようにと心がけて生きる人。

今の時代には合わないかれしれない。

が、3000年前にそんな人がいたのである。


今日、そんな人になることは可能なのか。それにどんなメリットがあるのか。


 
「主よ、わたしをためし試み、と思いとを練りきよめてください」詩篇26:2

「神よ、どうか、わたしを探って、わがを知り、わたしを試みて、

わがもろもろの思いを知ってください。」詩篇139:23

 

 

 

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主の臨在

2014年02月15日 17時51分34秒 | 心について

人とのよい関係をつくっていくことは大切だ。

皆がそのような友だちを求めているのではないか。

だがしかし、現実はどうか。

 
関係ということでは、もう一つ大切な関係がある。

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詩篇16:8、9

「わたしは常に主をわたしの前に置く。

主がわたしの右におられるので、わたしは動かされることはない。

わたしの心は楽しみ、魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。」


目に見えない主を自分の目の前に置く、と言っている。

目に見えない主が自分の右におられる、と言っている。

その結果、心に楽しみ、喜びがあり、からだも安らかになるという。



主はいつもわたしと共におられると信じている。

では、自分の前に主を置くというのはどういうことか。

自分の目の前には、いつもパソコンやテレビが置かれている。

主に対する信仰の問題は心の問題だ。


日々、どんな時にも主の臨在を実践した

ブラザー・アンドリューという人がいる。

彼は神学校で学んだこともなく、特別な教育を受けこともない人であった。

修道院で皿洗いをしていた人だった。


その彼がこのみ言葉を実践していたという。

皿洗いをしている時も、いつも主を自分の前に置いていた。

主の臨在を実践していたと言われる。

その結果は、

まもなく多くの人が彼のところに悩み事などの相談に来るようになった。

その中には宗教的な指導者たちも多くいたという。

 

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心が教える

2014年02月14日 07時31分38秒 | 心について

新しいことを学ぶことに積極的な人もいる。

人から教えられたり、本から学ぶこともいろいろとある。

テレビやインターネットなどの情報から学ぶこともある。


詩篇16:7

「わたしにさとしを下さる主をほめたたえる。

 夜はまた、わたしのがわたしを教える。」


主から与えられる「さとし」。

 それは心に気づきとして与えられる場合もある。


 
夜、心がわたしを教える・・・・

 どういうことか。

 

心が守られている時、自分の心に、はっと教えられることがある。

そういう体験だ。

そのような時、自分の賢さを自慢したくなる思いも起こってくる。

 だがしかし、「さとし」を与えてくださる主に感謝し、主をほめたたえよう。

 

 

 

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