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  <title>浜崎英一ブログ「聖書との対話」</title>
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  <dc:creator>goeiichihamasaki</dc:creator>
  <dc:date>2025-06-26T17:47:09+09:00</dc:date>
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  <copyright>&#9400;NTT DOCOMO, INC. All Rights Reserved.</copyright>
  <description>わたしは今も、７０年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。</description>
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   <title>「言えなかった言葉」</title>
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<![CDATA[
ルカ福音書１５章からの続きで、３回目です。<br><br>父親から財産を分けてもらい、<br>遠い国に出かけて行った弟息子は、<br>クリスチャンの間では、放蕩息子と呼ばれています。<br><br>その彼は、すべての財産を使い尽くし、<br>お腹を空かして、<br>トボトボと長い道のりを歩いて<br>父親のいる元の家に帰って来たのでした。<br><br>もう息子と呼ばれる資格はないので、<br>雇人として家に入れてもらおうと思い、<br>お父さんに会った時に、<br>こう言おうという言葉も用意していました。<br><br>父の家のことを思い出した時、<br>最初に彼の頭に浮かんだのは何でしたか。<br>そうですね。<br>父の家には食べ物に何の心配もしていない雇人が<br>大勢いるということでした。<br><br>何日くらい歩いて帰って来たのかわかりませんが、<br>まだ、家に帰りつく前に、その近くまで来た時に、<br>ひとりの人が彼の姿を見て、<br>家から飛び出してきました。<br>お父さんでしたね。<br>「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて・・・」（２０節）<br>とありますので、<br>この父親は、<br>その日たまたま息子を見つけたのでしょうか。<br>というよりも、<br>恐らく毎日、「今日息子は帰ってくるか。今日帰ってくるか」<br>と家から遠くを見ていたのではないか<br>と想像できます。<br>家を出て行った時の姿とは<br>だいぶ変わり果てた息子の姿だった<br>と思われますが、<br>父親の目にはすぐに息子とわかったようです。<br><br>さて、このふたりが顔と顔を合わせて、<br>久しぶりに会ったのですが、<br>この時、<br>ふたりのうちのどちらが先に声をかけたでしょうか。<br>または、どちらが先に何をしたでしょうか。<br>そうでしたね。<br>父親の方でした。<br>「駆け寄って彼（息子）の首を抱き、口づけした。」（２０節）スゴイですね。父が弟息子を抱きしめたのは、<br>息子の反省の言葉を聞いた後でしたか、<br>前でしたか。<br><br>ここでは、<br>父親の方が先に弟息子に駆け寄って来ていますが、普通のお父さんであれば、<br>こんな時、どういう対応をするでしょうか。<br>わたしが考えられる一つのことは、<br>遠くに帰ってくる息子の姿を見て、<br>自分はさっと姿を消し、後は家内に知らせて、<br>「お前に任せる」と言う方法です。<br><br>聖書の話の方に帰ります。<br>その後、何かを言ったのはどちらでしたか?<br>そうです。息子の方が何かを言いました。<br>「お父さん。私は天に対して罪を犯し、<br>あなたの前に罪ある者です。<br>もう、息子と呼ばれる資格はありません。」（２１節）<br>豚を飼っていた時、<br>こう言おうと用意していた言葉を<br>彼は口に出して言えました。<br>彼が用意していた言葉はこれがすべてでしたか。<br>他になかったでしょうか。<br><br>１５章１９節の言葉をもう一度見てください。<br>彼は用意していたある言葉を言っていませんね。<br>これは一番肝心な言葉だと思いますが、<br>なぜ言わなかったのでしょうか。<br><br>そこまで言った時、<br>彼の言葉をさえぎって父親の方から<br>何か言ったからでしょうか。<br>それとも、<br>その肝心な言葉が<br>何かの理由で彼の口から言えなかった、<br>のでしょうか。<br>その言葉こそ、彼が豚を飼っている時に、<br>是非ともそう言おうと思っていた言葉<br>だったと思います。<br><br>彼が言えなかった言葉について、<br>あなたはどう思いますか。<br><br>次回に続きます。<br><br>浜崎英一<br>ーお知らせー<br>goo blog のこの記事は6月末の今回で終了します。<br>続けて読まれる方は「はてなブログ」へ 移行してください。<br>移行の方法は、<br>「グーグル」などで、「はてなブログ聖書との対話」、<br>あるいは、 「はてなブログ浜崎英一」<br>で検索していただくと、すぐに出てきます。<br> あるいは、https://enhamasaki.hatenablog.com/はてなブログ　浜崎英一ブログ「聖書との対話」
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   <category>ルカ福音書より</category>
   <dc:date>2025-06-27T05:30:35+09:00</dc:date>
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   <title>「泣き面に蜂」</title>
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<![CDATA[
<br>ルカ福音書１５章からの続きです。<br>父親から財産をもらって、すぐに家を出た弟息子は、やがてもっていた財産をすべて使い尽くしました。<br> その時、何が起こりましたか。<br><br>おわかりですね。<br>その時、ちょうど飢饉が起こりました。<br> 雨が降らない日が何日も続いたのです。<br>そのため、生活に窮する人たちが続出したようです。この息子にとっては、<br>持っていた財産をみな使い尽くし、<br>その上で、多くの人が食べていけないような<br>飢饉が続いたのです。こんな時、よく言われる言い方がありますが、<br>思いつく言葉がありますか。<br><br>そうですね。泣き面に蜂、ですね。<br>また、踏んだり蹴ったり、です。<br>まだ、別の言い方がありますか。ありますね。<br>弱り目に祟り目、悪いことは重なる、などです。<br><br>日本語にはこのような時の言い方が<br>いろいろあります。<br>ということは、この弟息子に限らず、<br>この人生、昔も今もこのような辛くて悲しい<br>経験をする人たちがいるということです。<br><br> 豚を飼う仕事を与えられたものの、<br>この人は、豚が食べているいなご豆で<br>腹を満たしたいほどでしたが、<br>何か与えてくれる人は誰もいませんでした。この光景を思い出せますか。<br><br> その後のルカ１５章の話です。15:15 それで、その地方に住むある人のところに<br>身を寄せたところ、<br> その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で<br>腹を満たしたいほどだったが、<br> だれも彼に与えてはくれなかった。15:17 しかし、彼は我に返って言った。<br>『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、<br>なんと大勢いることか。<br> それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。<br><br>彼は人の豚の世話をしながら、<br>豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほど、<br>お腹を空かしていました。<br>その時、ふと彼は我に返ったのです。<br>我に返ったとはどういうことでしょうか。<br>そして、父の家のことを思い出しました。<br>その家にはパンを腹いっぱい食べている雇人が<br>大勢いることを思い出しました。<br>自分も今では豚を飼っている雇人であり、<br>父の家の雇人と比べるとその違いの大きさに<br>気づいたのです。<br>自分は飢えて死にそうな雇人で、<br>父の家の雇人は腹いっぱい食べている雇人である<br>ことに気づいたのです。<br>その後、この人はどうしたでしょうか。<br><br>15:18 立って、父のところに行こう。<br>そしてこう言おう。<br> 「お父さん。私は天に対して罪を犯し、<br>あなたの前に罪ある者です。15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。<br>雇い人の一人にしてください。」』<br><br>彼は「もう息子と呼ばれる資格はないので、<br>雇人の一人にしてください」と言っています。<br>もちろん、息子と呼ばれる資格はない、<br>と言っていますので、<br>自分のやったことについて<br>反省はしているようですね。<br><br>そして、彼はとぼとぼと家路につきました。<br>どのくらいかかって家に帰り着いたのでしょうか。<br><br>１３節には「弟息子は、<br>すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。」<br>とありますので、遠い国から帰って来たわけです。<br><br>さて、この家に帰って来た息子を<br>最初に目撃したのは誰でしたか。<br> その人は、息子と呼ばれる資格はない<br>と言う彼に対して、<br>どういう態度を取ったでしょうか。<br><br>次回に続きます。<br><br>ーお知らせー<br>goo blog のこの記事は6月末で終了します。<br>続けて読まれる方は「はてなブログ」へ 移行してください。<br>移行の方法は、<br>「グーグル」などで、「はてなブログ聖書との対話」、<br>あるいは、 「はてなブログ浜崎英一」<br>で検索していただくと、すぐに出てきます。<br> あるいは、https://enhamasaki.hatenablog.com/はてなブログ　浜崎英一ブログ「聖書との対話」<br><br>
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   <category>ルカ福音書より</category>
   <dc:date>2025-06-24T05:30:53+09:00</dc:date>
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   <title>「わかりにくいところは」</title>
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<![CDATA[
<br>一般的に言って、わたしたちのこの国、日本には、<br>神の存在を漠然とではあっても、<br>信じている人たちは少なくないと思います。<br>正月の初もうでにはどこの神社にも大勢の人が<br>出かけて行っています。<br><br>神もいろいろあって、よくわからない<br>と思っているも少なくないと思います。神とはどういう方かについては漠然としているのが一般的であり、<br>普通のことになっています。<br><br>それに対して、聖書ほど、<br>神とはどういう方かについてハッキリと教えている書物は<br>他にないのではないかと、わたしは思います。<br><br>もう一つ、あなたやわたしは、何かのことで後悔の念から<br>「自分はもう親としての資格はない」とか、<br>もう自分は「クリスチャンとしての資格はない」<br>と思ったことはないでしょうか。<br><br>今回から、何回かに分けて取り上げる聖書のお話も<br>こういったテーマを取り上げています。<br>ルカ15:11‐24（新改訳2017）イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。15:12 弟のほうが父に、<br>『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。<br> それで、父は財産を二人に分けてやった。15:13 それから何日もしないうちに、<br>弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。<br> そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。15:14 何もかも使い果たした後、<br> その地方全体に激しい飢饉が起こり、<br>彼は食べることにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、<br> その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。15:16 彼は、<br>豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、<br> だれも彼に与えてはくれなかった。15:17 しかし、彼は我に返って言った。<br>『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、<br>なんと大勢いることか。<br> それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。<br> 「お父さん。私は天に対して罪を犯し、<br>あなたの前に罪ある者です。15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。<br> 雇い人の一人にしてください。」』15:20 こうして彼は立ち上がって、<br>自分の父のもとへ向かった。<br>ところが、まだ家までは遠かったのに、<br>父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、<br> 駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。15:21 息子は父に言った。<br>『お父さん。私は天に対して罪を犯し、<br>あなたの前に罪ある者です。<br> もう、息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。<br>『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。<br> 手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、<br>いなくなっていたのに見つかったのだから。』<br> こうして彼らは祝宴を始めた。<br>この話は、誰にでもとてもわかりやすい話ですが、<br>よく読んでみますと、わかりにくいところも出てきます。わかりにくいところはどこでしょうか。<br> このお話の場面、状況を思い描いていただくために、<br>これを４枚の紙芝居にすると、<br>どういう場面に分けられるでしょうか。次回に続きます。<br><br>浜崎英一<br>ーお知らせー<br>goo blog のこの記事は6月末で終了します。<br>続けて読まれる方は「はてなブログ」へ 移行してください。<br>移行の方法は、<br>「グーグル」などで、「はてなブログ聖書との対話」、<br>あるいは、 「はてなブログ浜崎英一」<br>で検索していただくと、すぐに出てきます。<br> あるいは、https://enhamasaki.hatenablog.com/はてなブログ　浜崎英一ブログ「聖書との対話」<br> 
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   <category>ルカ福音書より</category>
   <dc:date>2025-06-20T05:30:55+09:00</dc:date>
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   <title>「神に対して富む者」</title>
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<![CDATA[
<br>前回の続きです。<br><br>ルカ１２章でイエスは<br>「自分のために蓄えても、神に対して富まない者は<br>このとおりです」と言われました。<br>では「神に対して富む者」とは、<br>どういう人のことでしょうか。アフリカの奥地に宣教師として行く人、<br>誰でも出来ないような神のために素晴らしい働きを<br>している人のことでしょうか。<br><br>エペソ4:28「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。<br>むしろ、困っている人に分け与えるため、<br>自分の手で正しい仕事をし、<br>労苦して働きなさい。」（新改訳2017）<br><br>ここには「仕事をし、労苦して働きなさい」<br>と言われています。何のためですか。<br>自分のためだけではありません。<br>また、もっともっとという貪欲な生き方のため<br>でもありません。「困っている人に分け与えるため」<br>と言われています。<br><br> 次のみ言葉でも同じようなことが言われています。<br><br>使徒 20:35<br> 「わたしは、あなたがたもこのように働いて、<br>弱い者を助けなければならないこと、<br>また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。（口語訳）<br><br>これらのみ言葉から「神に対して富む者」とは、<br>このような「与える」生き方をしている人のことだ、とわたしは思います。<br><br>この生き方は時間やお金を必要以上に無駄にしない、ただ「もったいない」という生き方ではありません。<br><br>更に、次のみ言葉はもっとハッキリしています。<br><br>ローマ15:1‐2<br> 私たち力のある者たちは、<br>力のない人たちの弱さを担うべきであり、<br>自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、<br>益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。<br>（新改訳2017）<br><br>これらのみ言葉を信じますか。<br> 「与える」という、<br>この神の国の価値観に生きる人は、<br>もっともっとという貪欲な思いから<br>解放されている人です。<br>また、「もったいない」という必要以上の束縛からも<br>解放されている人です。このような自由と解放を日々味わう人こそ、<br>「神に対して富める人」ではないでしょうか。天の御国の前味を味わっている人<br>ではないでしょうか。<br><br>もう一度、ルカ12章の主イエスの言葉を<br>確認しておきましょう。<br><br>12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分も<br>いっぱい物がためられた。<br>さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、<br>今夜おまえから取り去られる。<br>おまえが用意した物は、<br>いったいだれのものになるのか。』12:21 自分のために蓄えても、<br>神に対して富まない者はこのとおりです。」<br>（新改訳2017）<br>次回からは、あの有名なお話、<br>ルカ15章のお話に進みます。<br> 浜崎英一<br>ーお知らせー<br>goo blog のこの記事は6月末で終了します。<br>続けて読まれる方は「はてなブログ」へ 移行してください。<br>移行の方法は、<br>「グーグル」などで、「はてなブログ聖書との対話」、<br>あるいは、 「はてなブログ浜崎英一」<br>で検索していただくと、すぐに出てきます。<br> あるいは、https://enhamasaki.hatenablog.com/はてなブログ　浜崎英一ブログ「聖書との対話」
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   <category>ルカ福音書より</category>
   <dc:date>2025-06-17T05:30:00+09:00</dc:date>
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   <title>「時間やお金を無駄にしない」</title>
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<![CDATA[
<br>前回の続きです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、<br>わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、<br>それを救うであろう。」（マルコ8:35口語訳）<br><br>これらのみ言葉に関連して、以下は、<br>経験からわかってきたはわたし自身の問題です。<br><br> ある時、車の免許証を返上し、<br>車に乗ることをやめました、その当時、<br>わたしは大阪の枚方に住んでいました。<br>その地域はバスや電車が便利でした。<br>車をやめた最初の頃、バスや電車に乗る時に、<br>わたしが一番嫌だったことは、<br>バス停でバスが来る時間を待つことでした。<br>１０分も待つことがとても苦痛だったことを<br>今も覚えています。待つことが嫌だというのは<br>どういうことなのかと考えたことがありました。<br><br>わたしの中にどこか、お金や時間を<br>無駄にしてはいけないという思いがあります。<br>これは小さい頃からわたしのうちに築かれてきた<br>「もったいない」という価値観であり、<br>また生き方です。<br>その心にある思いがいろいろなところで具体的な形で表れてくるのです。<br><br>別に悪いことをしたとか、<br>罪を犯したということではありません。時間やお金を無駄にしないというのは、<br>そのままこの世の価値観とも言えます。<br>世の中、<br>多くの人たちがそのような生き方をしています。<br>お金を無駄にせず、<br>有効に使おうとしています。<br>スマホやパソコンという便利なもの（最近はAI）などを駆使し、時間を取らないように、<br>できるだけ便利で、<br>効果的な方法を見つけようとしています。それ自体は何も悪いことではありません。<br><br>しかし、わたしの場合、<br>もっと早く出来る方法を、もっと便利な方法を・・・とやっていくうちに、<br>それにいよいよ依存的になっていきました。<br><br>お金や時間を無駄にしたくないのは、<br>なぜなのかを問うていく時、<br>わかったことがあります。<br>大げさに言えば、<br>それによって自分の命を救おうとしていたわけです。これは、わたしの場合です。<br><br>便利さや楽な生き方を求め続けることで、<br>逆に疲れ、いらいらし、<br>健康まで損なってしまうことがあるという話は、<br>別に珍しい話ではありません。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い・・・」<br>（マルコ8:35）とイエスが言われる通りです。さらに聖書の言葉で言えば、<br>わたしの場合、それは肉の問題です。<br>気づきにくい、目に見えない問題です。<br><br> 「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」<br>（ローマ８：５，６新改訳2017）<br><br>次回は、イエスが言われた言葉、<br>「神に対して富む者」とは、についてです。<br>ーお知らせー<br>goo blog のこの記事は間もなく終了します。<br>続けて読まれる方は<br>「はてなブログ」へ 移行してください。<br>移行の方法は、<br>「グーグル」などで、「はてなブログ聖書との対話」、<br>あるいは、 「はてなブログ浜崎英一」<br>で検索していただくと、すぐに出てきます。<br><br>はてなブログ　浜崎英一ブログ「聖書との対話」https://enhamasaki.hatenablog.com/
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   <category>ルカ福音書より</category>
   <dc:date>2025-06-13T17:12:18+09:00</dc:date>
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   <title>「自分の命を失う人」</title>
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<![CDATA[
<br>人が生まれるのも、また死ぬのも、<br>その時については<br>誰も自分で決めることはできません。<br> 生と死に関することであり、本人にとって極めて重要なことですが、<br>それを決めるのは天地万物を造られた神ご自身です。という話で前回終わっています。<br><br>ルカによる福音書12章から、その話の続きです。<br> イエスのたとえ話の、<br>その結論について見ていきます。もう一度その前の所から見てみましょう。<br>12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「金持ちの畑が豊作であった。12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』12:18 そして言った。<br>『こうしよう。私の倉を壊して、<br>もっと大きいのを建て、私の穀物や財産は<br>すべてそこにしまっておこう。12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、<br>これから先何年分もいっぱい物がためられた。<br>さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、<br>今夜おまえから取り去られる。<br>おまえが用意した物は、<br>いったいだれのものになるのか。』12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」（新改訳2017）<br>この21節が<br>イエスのこのたとえ話の結論とも言える言葉です。自分のためだけに富や財産を蓄えても、<br>神に対して富まない人とは、<br>こういう人のことだとイエスは言われました。<br><br>この人は畑から豊かな収穫を得たのです。<br>それは悪いことではありませんね。<br>そして、古い蔵を壊して、<br>新しい蔵を建てたばかりでした。<br>その後、彼は亡くなりました。<br>彼の持っていた財産と収穫した作物と新しい蔵が<br>残りました。<br>それはどうなったのでしょうか。<br>後は読者が想像するだけです。<br><br>自分のために新しい蔵に蓄えたものは一見、<br>とても大切なものに思えます。<br>しかし、もっと大切なものがありました。<br>この人はそれに気づいていたのでしょうか。<br>人に聞かれれば、<br>それはもちろん自分の命だと彼は答えたでしょう。<br>しかし、今まで生きて来たのだから、<br>これから先も同じように生きていける<br>と思っていたのかもしれません。<br><br>「たとい人が全世界をもうけても、<br>自分の命を損したら、<br>なんの得になろうか。<br>また、人はどんな代価を払って、<br> その命を買いもどすことができようか。」（マタイ16:26口語訳）<br><br>この金持ちの人のことをイエスは、<br>「神に対して富まない人」と言っています。神に対して富まない人と、<br>神に対して富んでいる人がいるわけですね。<br><br>「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、<br>わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」（マルコ8:35口語訳）<br><br>これらのみ言葉から、<br>わたしは自分の問題として<br>気づかされたことがあります。<br><br>わたしは７０歳くらいで、車の免許証を返上し、<br>車に乗ることをやめました。<br>当時は大阪の枚方に住んでいましたので、<br>バスや電車が便利でした。<br>最初の頃、そのバスや電車に乗る時、<br>わたしが一番嫌だったことがあります。<br> 長くなりますので、この続きは次回とします。<br><br>浜崎英一<br>ーお知らせー<br>goo blog のこの記事は間もなく終了します。<br>続けて読まれる方は「はてなブログ」へ <br>移行してください。<br>移行の方法は、<br>「グーグル」などで、「はてなブログ聖書との対話」、<br>あるいは、 「はてなブログ浜崎英一」<br>で検索していただくと、すぐに出てきます。<br><br>はてなブログ　浜崎英一ブログ「聖書との対話」<a href="https://enhamasaki.hatenablog.com/">https://enhamasaki.hatenablog.com/</a><br>
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   <category>ルカ福音書より</category>
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   <title>「時がある。」</title>
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<br>ルカによる福音書12章のお話の続きです。<br>人の心に秘められている問題は、見えませんので、他の人にはわかりにくいです。しかし、イエスはその心の思いを見事に見抜いておられます。その心の思いとは何でしたか。<br>貪欲という思いでしたね。<br>「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。」<br>その貪欲という言葉は理解できます。しかし、イエスはただ貪欲という言葉を口にしただけではなく、それを絵に描いたように見せてくれています。子どもでも分かるように、です。とてもわかりやすく、たとえ話によって液晶大画面で映すように見せてくれています。これは簡単なようですが、スゴイと思いませんか。<br>「ある金持ちの畑が豊作であった」と、ここから、たとえ話が始まりました。<br>畑が豊作であったのは、貧しい人ではなく金持ちの人でした。すでに経済的に豊かでお金 の蓄えもある人の、その畑が豊作であったのです。この後 ,その畑から収穫した作物をどうするかは、その人の心の思いによって決まります。<br>あなたや私ならどうするでしょうか。<br>17節を見ると、その金持ちの人は心の中で考えたと言われています。「どうしよう。 作物をしまっておく場所がない。」これがたくさんお金を持ってる人の悩みのようです。<br>考えた末、この人が決めた結論がこうでした。<br>「こうしよう。 今の蔵を壊して、もっと大きいのを建て、 穀物や財産をすべてそこにしまっておこう。」<br>もっと大きい蔵を建てること、それがこの人が考えついた結論でした。ここに、この人の見えない心の思いが現れていると思いませんか。もっと大きいのを、です。 もっともっとです。<br>イエスはその「もっと」を貪欲という言葉で表しています。<br>しかし、この人にとっては、この考えが他に選択肢のない良い判断だと思いました。<br>そして彼は自分にこう言い聞かせたのです。 「わが魂よ、これから何年先までも、沢山の物が蓄えられたのだ。さあ、毎日食べて飲んで、楽しめ。」<br>今日は、老後の蓄えとか言われます。 では、定年退職後の蓄えとはどのくらいあればよいのでしょうか。このくらいあれば·····。 いやそれでは足らない、など、いろいろと意見があり、判断が人によって違ってきます。その判断はその人その人の心の中の思いによって決まってきます。<br>ただ、自分の一番大事なことでありながら、決められないことが一つだけあります。この人生、あとどれだけ生きられるのかという判断は、自分のことでありながら、 誰も自分で決めることができません。<br>ここが一番大事な問題なのですが、人はこのことを 重い病気になるまで、あまり考えようとしません。<br>なぜだと思いますか。<br>考えても、自分ではどうにもならない問題だからでしょうか。<br>最近、ある集会で私はこのような話を未信者の方々の前でしました。生命保険をかけていても、その保険は本人のものではなく、後に残された人のためのものです。自分のための生命保険というのがあります。 それを聖書では福音と言います。 つまり 良い知らせという意味です·······。<br>畑から沢山の収穫があったこの金持ちも同じでした。自分がいつ死ぬかということについては、全くわかっていなかったのです。ということで、彼はとても重大な判断ミスをしていました。もっと大きな蔵を建てる前に知っておかなければならないことがあったのです。<br>「愚か者、お前の魂は、今夜お前から取り去られる。」<br>こんなことを一体誰が言ったのでしょうか。 そうです。 神がそう言われました。 人の人生が いつ終わるのかを決めるのは神ご自身です。 <br>聖書には、生まれるのに時があり、死ぬのに時があると言われています。 その時を決めるのは本人ではありません。 生まれる時を自分で決めることはできないように、死ぬ時も人は自分で決めることはできません。それを決めるのは神ご自身です。もちろん、神はそれを人と相談して決めるのではありません。 一方的に相談なしに決めるのです。その神は情け容赦のない厳しいだけの神なのでしょうか。<br>次回に続きます。<br><br><br>
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   <category>ルカ福音書より</category>
   <dc:date>2025-06-06T05:30:21+09:00</dc:date>
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   <title>「心の思いは」</title>
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「心の思いは」家族の間の遺産問題でいろいろもめ事が起こるのは２０００年前も今も変わらないようです。<br> ですから、聖書のこのルカ１２章の箇所は、クリスチャン、未信者に関係なく、今現在のわたしたちに身近に感じられるお話です。<br>「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」と言ってきた人に対して、またそばにいる人たちに対してイエスはたとえ話をされました。<br><br> そのたとえ話の前に、イエスはこの人の申し出に対して、こう言われました。「いったいだれが、わたしを<br>あなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」まず、イエスは、問題を持ってきたこの人は<br>イエスを裁判官か調停人として利用していることを<br>指摘しておられます。<br>イエスを自分の何かの目的のために利用する、<br>そういうことは今日もあり得るでしょうか。<br><br>自分の目の前の困った問題の解決のために祈る時に、わたしたちも注意したいですね。<br>確かに聖書は、何でも求めるものを祈ってよい<br>と教えています。<br> しかし、このイエスの言葉によれば、<br>わたしたちも自分のこの祈りは<br>イエスを自分のために利用しているのではないか、<br>と問うことも必要です。そのことにわたしたちは気づいていなくても、<br>イエスは敏感なのです。<br>あなたも人から何かのことで利用されている<br>と思ったことはありませんか。<br>相手は意外と気づいていなくても、<br>利用される方はわかります。<br><br>もうひとつ、ここで教えられることがあります。<br> この祈りは自分の貪欲な思いから<br>来ているのではないか、<br>と問う必要もあります。つまり、祈りの言葉だけではなく、<br>わたしたちのその祈りの根底にある心の思いを<br>主イエスは見ておられます。<br>「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。」<br><br>そのように祈る自分の心が貪欲な思いに<br>支配されているのではないかの確認です。<br><br>そして、その１５節に<br>もう一つ大切なことが言われています。<br> 「人があり余るほど持っていても、<br>その人のいのちは財産にあるのではないからです。」<br><br>長生きするためにはそれだけのお金が<br>必要となります。<br>しかし、お金を貯めたことによって<br>長生きするとは限りません。人のいのちは持ち物、財産にはないからです。<br><br>それに対して貪欲な心は、<br>多くの財産があれば長生きできると、<br>ふたつを結び付けているのです。<br><br>その貪欲というのは、人の心に隠れているので、<br>表には見えません。<br>ですから人にも見えません。<br> イエスは人のうちに隠れているその心を見事に指摘しておられます。ここから教えられることがありますか。<br><br>わたしやあなたも祈る時に、<br>自分の心にどういう思いがあるのか、<br>その隠れているところを聖霊に示していただく必要があるかもしれません。<br><br>この後に語られたイエスのたとえ話は、<br>今日も変わらない人間の問題を<br>とても分かりやすく示しておられます。<br>人間には、<br>いつの時代も変わらない問題があります。<br>しかし、わたしたち主イエスを信じている者には、イエスが問題の答えです。<br><br>次回に続きます。<br>ーお知らせー<br>goo blog のこの記事は間もなく終了します。<br>続けて読まれる方は「はてなブログ」へ<br> 移行してください。<br>移行の方法は、<br>「グーグル」などで、「はてなブログ聖書との対話」、<br>あるいは、 「はてなブログ浜崎英一」<br> で検索していただくと、すぐに出てきます。<br><br>はてなブログ　浜崎英一ブログ「聖書との対話」https://enhamasaki.hatenablog.com/<br><br> 
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   <category>ルカ福音書より</category>
   <dc:date>2025-06-03T05:05:30+09:00</dc:date>
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   <title>「遺産問題」</title>
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<br>今回から前回と同じルカによる福音書からですが、<br>新しいストーリーを取り上げたいと思います。<br><br>この箇所はあまり知られていない<br>個所かもしれませんが、<br>わたしはここにも深い真理が<br>隠されていると思います。<br><br> ルカ福音書の１２章１３～２１節のところです。<br>12:13 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、<br>私の兄弟に言ってください。」12:14 すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、<br>わたしをあなたがたの裁判官や調停人に<br>任命したのですか。」12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。<br>人があり余るほど持っていても、<br>その人のいのちは財産にあるのではないからです。」12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、<br>私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、<br>これから先何年分もいっぱい物がためられた。<br>さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、<br>今夜おまえから取り去られる。<br>おまえが用意した物は、<br>いったいだれのものになるのか。』12:21 自分のために蓄えても、<br>神に対して富まない者はこのとおりです。」（新改訳2017）<br><br>ひとりの人がイエスに頼みごとをしています。どういう頼み事でしたか。遺産の問題についてでしたが、<br>その人はイエスにどういうことを頼んだのですか。<br><br>それに対してイエスは<br>ひとつのたとえ話をしておられます。どういうたとえ話でしたか。それは誰に向かって話されたのですか。ある金持ちの話でしたね。その人の畑が豊作となった後の話でした。沢山のお金を持っていた、<br>この人の畑が豊作となったのです。持てる人はもっと持てるようになるのですね。<br><br>この人は、その沢山の作物を入れておくための<br>大きな倉庫を作りました。そこまでは良かったのですが、<br>彼は予定が狂ってしまいました。<br>大きな計算違いをしていました。どういう計算違いでしたか。<br><br>次回に続きます。 ーお知らせー<br>goo blog のこの記事は間もなく終了します。<br>続けて読まれる方は「はてなブログ」へ 移行してください。<br>移行の方法は、<br>「グーグル」などで、「はてなブログ聖書との対話」、<br>あるいは、 「はてなブログ浜崎英一」<br> で検索していただくと、すぐに出てきます。<br><br>はてなブログ　浜崎英一ブログ「聖書との対話」https://enhamasaki.hatenablog.com/<br>
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   <category>ルカ福音書より</category>
   <dc:date>2025-05-30T05:30:21+09:00</dc:date>
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   <title>「神の国の視点から」</title>
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<br>ルカ１０章の「マルタとマリア」のお話の最後です。この話を神の国の視点から見ると<br>どうなるでしょうか。イエスに聞き従う姿勢のあるところに、<br>神の国が現わされていきます。なぜなら、イエスこそ、神の国（キングダム、王国）の王であるからです。この視点から、マルタとマリアの話を見ていくなら<br>どうなるでしょうか。<br><br>台所でイライラし、喜びが不平と不満に<br>変わっていったマルタがいました。<br>これは神の国ではなく、人の国です。<br>マルタの国です。<br><br>そのマルタがイエスのところへ行きました。<br>イエスのみ言葉を聞きました。<br>個人的に語られたみ言葉です。<br>神の国の王の言われたみ言葉です。しかし、王であっても、<br>この神の国の王はひとりの人の弱さを思いやる<br>ことのできる方です。「この大祭司（イエスのこと）は、<br>わたしたちの弱さを思いやることの<br>できないようなかたではない。<br>罪は犯されなかったが、<br>すべてのことについて、<br>わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」（ヘブル 4:15口語訳）<br><br>そうです。姉のマルタはイエスの語られたみ言葉を<br>通して神の国に触れたのです。言い換えれば、自分の国からイエスのところへ行き、神の国に移ったのです。神の国に移るつもりではなかったのですが、<br>イエスのところへ行ったからです。<br><br>イエスのもとに行く人は、<br>神の支配する神の国に行くのです。「すべて重荷を負って苦労している人は、<br>わたしのもとに来なさい。<br>あなたがたを休ませてあげよう。」<br><br>イエスのところへ行く人は、<br>イエスの支配下に入りますから、<br>そこにはたましいの安息があります。<br><br>イエスがマルタの言うとおりにしてあげ、<br>「マリア、あなたもお姉さんの手伝いを<br>してあげなさい」と言えば、<br>マルタの国に入ることになります。<br><br>しかし、ここでイエスはご自分の主導権を<br>放棄しておられません。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。無くてはならないものは多くはないのです。<br>いや、一つだけです。<br>マリヤはそのよい方を選んだのです。<br>それを彼女から取り去ってはなりません」<br><br>聖書のお話はここで終わっています。後は読者が自分で想像するようにと、<br>言われているようです。それでこれはわたしの想像です。マルタはこのイエスの言葉を聞き、<br>それを受け入れ、<br>自分の国から神の国に移ったのだと、<br>わたしは思います。ですから、もう一度、台所へ戻っていきました。<br>以前とは全く違った気持ちで台所に立っていました。<br> イライラの気持ちが変わって、<br>イエスの愛を感じながら、<br>イエスの思いをしっかり受け止め、<br>台所での自分の仕事は、イエスのみ言葉が語られ、<br>それを聞いている人たちのためなのだ、<br>という感じだったのです。<br><br>「なぜなら、<br>神の国は食べたり飲んだりすることではなく、<br> 聖霊による義と平和と喜びだからです。」（ローマ14:17新改訳2017）「まず神の国と神の義を求めなさい。<br>そうすれば、<br>これらのものはすべて、<br>それに加えて与えられます。」（マタイ6:33新改訳2017）<br>ーお知らせー<br>goo blog のこの記事は間もなく終了します。<br>続けて読まれる方は「はてなブログ」へ 移行してください。<br>移行の方法は、<br>「グーグル」などで、「はてなブログ聖書との対話」、<br>あるいは、 「はてなブログ浜崎英一」<br> で検索していただくと、すぐに出てきます。<br><br>はてなブログ　浜崎英一ブログ「聖書との対話」https://enhamasaki.hatenablog.com/<br>
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   <category>ルカ福音書より</category>
   <dc:date>2025-05-27T05:30:41+09:00</dc:date>
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