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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「わたしの義」

2021年01月29日 05時38分43秒 | 詩篇より

 

詩篇4篇です。

ここもまた、素晴らしいところです。

わたしは今、日本語は4種類、英語は3種類の聖書の訳を見ています。

悩ましいことは、いくつかの点で、訳が違うのです。

その違う点をいろいろと比較していくと、かえって混乱してしまいます。

それで他の訳も参考にしながら、一応、ここは口語訳から見ていきます。

 

詩篇4:1~8

わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。

あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。

わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。

人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。

いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。

しかしあなたがたは知るがよい、主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。

主はわたしが呼ばわる時におききくださる。

あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。

床の上で静かに自分の心に語りなさい。

義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。

多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。

主よ、どうか、み顔の光をわたしたちの上に照されるように」と。

あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした。

わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。(口語訳)

 

まず、最初に「わたしの義を助け守られる神よ」と言っています。

気になる言葉です。

「わたしの義」とありますが、あなたやわたしの義とは何でしょうか。

この義という言葉はピンとこない言葉です。

新約の光から見ると、どうなるでしょうか。

そこで思い出してください。

ルカ18章にある、主の宮に祈りに行ったあのふたりの人のことです。

目を天に向けようともせず「罪人のわたしをおゆるしください」と祈った取税人の方が、

神に義とされて帰って行きました。

この話覚えていますね。

これはとても分かりやすい義についての説明となります。(今風の言い方?)

この正直な祈りを通して、彼は神との安心できる関係に入れてもらったのです。

義とはそういうことです。

 

その自分の義を助け守ってくださる神、と呼び掛けているのがこの詩篇の著者です。

これは短いひと言ですが、自分は神のことをどう思っているのかという信仰告白とも言えます。

祈りの中で、このような信仰の告白をしてもよいのですね。

いや、すべきなのですね。

後の方に、「義のいけにえ」という言葉も出てきます。

次回に続きます。

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「救いは主のもの」

2021年01月26日 05時13分51秒 | 詩篇より

 

詩篇3篇の続きです。

詩篇3:5、6

「わたしはふして眠り、また目をさます。

主がわたしをささえられるからだ。

わたしを囲んで立ち構える、ちよろずの民をもわたしは恐れない」(口語訳)

 

4節では「主に向かって、声をあげれば、答えてくださる」と言い、

この5節は4節とは、ガラッと変わっています。

自分を苦しめる者、自分に立ち向かう者がいる、「彼には神の救いなどあるものか」と言われている、

という話でした。

それが急に眠る話になっています。

どうしたのでしょうか。

 

とすると、主が自分に答えてくださる、と言っていたのは、これだったのではないか。

何か感じられたり、主の御声が聞こえたりというよりも、夜、自分に恐れや不安がなく、

平安のうちに眠ることができるのです。

自分を苦しめる人たちがいる、しかし、主が夜の眠りの中で自分を支えてくださっていると、

彼は受け取っています。

すごいですね。

この人は、夜も眠れないような大変な問題の中にある人ですよ。

外にさほどの問題がなくても、心のうちになぜか不安、安心できないものがある人たちもいます。

 

けれども、この著者にそういう内面の平安はあっても、目に見える現実はまだ、何も変わっていません。

 

詩篇3:7、8

主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。

あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。

救は主のものです。

どうかあなたの祝福があなたの民の上にありますように。(口語訳)

 

まだ、敵は勝ち誇っているという目に見える現実があります。

「主よ、立ち上がってください」と、祈っています。

注意して、この個所を読んでください。

「主よ、自分を苦しめる人たちが何人もいる今この状況で、

わたしはどうすればよいのでしょうか」とは彼は祈っていません。

かえって、主がこの状況でどうされるのかをイメージしています。

敵の頬を打ち、その歯を折られるというイメージは、分かりやすいですね。

「あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです」

自分の方が敵にやられているというマイナスのイメージではありません。

不安恐れに支配されていると、まだ何も起こっていないのに、

自分が何かをされるのではないかというマイナスのイメージをもってしまうのは、

わたしも経験があります。

 

しかし、この詩篇の著者は、まだ起こっていないことですが、

主がなされることを信仰によってイメ―ジしているのです。

こんな祈りをしてもよいのですね。

この人は自分が何をしなければならないかではなく、主がしてくださることに心を向けています。

これは無責任なのでしょうか。

なぜこんな祈りができるのでしょうか。

最後の8節、救いは主のものだからです。

すごい信仰ですね。

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「現実逃避なのか」

2021年01月22日 05時18分27秒 | 詩篇より

 

詩篇3:1~4からのところですが、ここで、信仰とは何でしょうか。

今、この詩篇3篇から答えるとすれば、信仰とは、目に見える厳しい現実を前にして、

目に見えない、感じられない神に目を向け、心を向け、見ているように信じることです。

 

では、この詩篇の著者ダビデはどういう厳しい現実に直面していたのでしょうか。

自分を苦しめる人たち、敵意をもつ人たちがいたのです。

その人たちによって苦しい思いをしているのですが、その数が増えていっています。

それも不安であり、脅威に思えることでした。

「彼に神の助けなどあるものか」という声も聞こえてきます。

そのような中で、ダビデは、どうしていたのでしょうか。

その人たちをほっておけないし、この人たちにどう対応すべきなのか、

その知恵と導き求めて祈っていたのでしょうか。

 

この詩篇を読む限り、どうもそうではないようです。

ダビデのしていたことは、主に心を向け、主がどういう方かについての信仰を告白しています。

こんな時にですか。

それは現実逃避の信仰ではないのですか。

 

詩篇3:3、4

しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。

わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。(口語訳)

 

不安と恐れに取り囲まれた中にあって、自分にとって主はどういう方なのかに目を向け、

そのことを告白する信仰は、スゴイですね。

「わたしの頭をもたげてくださる」と言っていますが、

これも主が何か感じられる方法で答えてくださるということでしょうか。

「主に向かって、声をあげれば、答えてくださる」と言っていますが、

その主は耳に何かが聞こえてくるように答えてくださるのでしょうか。

 

そして、5節になると、話がガラッと変わっています。

どういうことでしょうか。

 

詩篇3:5、6

「わたしはふして眠り、また目をさます。

主がわたしをささえられるからだ。

わたしを囲んで立ち構える、ちよろずの民をもわたしは恐れない」(口語訳)

 

次回に続きます。

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「主を避難所とする人」

2021年01月19日 05時07分18秒 | 詩篇より

 

詩篇2篇の続きです。

詩篇2:7b「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」(新共同訳)

これは、どこかで聞いたような言葉ですね。

 

イエスに向かって、「これはわたしの愛する子」と天の父の声があったのは、どういう時でしたか。

二度ありましたね。

最初は、ヨルダン川でバプテスマを受けられたすぐ後、天から声がありました。

もう一つは、山上の変貌の時、雲の中から、同じような声がありました。

確かに、旧約聖書のこの詩篇はイエスについて証しています。

そうだとすれば、これはスゴイことですね。

 

そして、その父なる神の、その子は、王として即位されたのです。

イエスは、ユダヤ人の王として生まれました。

東から来た博士たちは、星によって、そのことを奇跡的に知らされました。

イエスはまた、ユダヤ人の王として十字架で命を犠牲とされました。

ローマ総督ピラトによって、そのように書かれた罪状書が十字架の上に掲げられました。

ユダヤ人、つまりイスラエルは神の選びの民として神の国を現していく使命がありました。

そのユダヤ人の王、神の国の王としてイエスはこの世に来られたのです。

何とそのことが、それ以前のおよそ1000年近く前の詩篇の時代に、すでに預言されていました。

ビックリですね。

 

詩篇2:10~12

すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。

畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び躍れ。

子に口づけせよ、主の憤りを招き、道を失うことのないように。

主の怒りはまたたくまに燃え上がる。

いかに幸いなことか。主を避けどころとする人はすべて。(新共同訳)

 

これは現実離れした、単なる詩的表現なのでしょうか。

コロナ禍にあって、国、政府に何かを要求し、守ってもらうにも限界があります。

自分で自分を守ることも大切ですが、それでも感染していく人たちが増えています。

神の国の王なる方、主を避け所、避難所とする人は、幸いな人です。

「主が町を守るのでなければ、守る者の覚めているのはむなしい」

町を守る者も必要です。

しかし、この言葉は、それだけでは駄目だと、もっと大切なところに目が開かれた人の言っている言葉だと思います。

不安、恐れという人の心の問題の解決は、政府に頼っても、自分の頑張りだけでも無理かもしれません。

神の国の王なる方は、そこを守る避難所となってくださるのです。

ですから、「幸いな人」とは、主を避け所、避難所とする人です。

 

 

 

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「神が即位させた王」

2021年01月15日 04時50分43秒 | 詩篇より

 

詩篇2:4~6

天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り

憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される。

「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。」(新共同訳)

 

第2篇を読むと、1篇とは全く違った感じで、これは何の話なのか、戸惑うような個所です。

難解と言うか、分かるようで分かりにくいところです。

この個所は祈りでも、賛美でもありません。

国々の話から始まっています。

王が出てきます。

遠い昔の王様の時代の話でしょうか。

ひとりのクリスチャンとしては、あまり関係のない箇所のように思えるところです。

 

地上の王、支配者たちがいます。

また、一方で主なる神が即位させた王がいます。

天を王座とする方がシオンに王を即位させたのです。

その王は「わたしの子」と呼ばれる方です。

その子は国を嗣業として与えられ、地の果てまで領土を広げます。

 

お分かりですね。

新約の光に照らしてみると、この「わたしの子」とは主イエスのことです。

主イエスを王とする神の国が地上に拡大されていくのです。

ですから、地上の王、上に立つ支配者たちはすべて目覚めなければなりません。

畏れ、敬い、この主なる王に仕えなければなりません。

「わたしの子」と呼ばれる王に口づけをし、へりくだって、崇め、敬う関係をもたなければなりません。

主の憤りをまぬがれるため、行く道を見失うことがないためです。

 

ところがです。

2節にあるように、地上の王、支配者たちは結束して、主に逆らう行動を起こしています。

今、現在、グローバリズムという動きがあることを聞いたことがあると思います。

自分の国を第一とするナショナリズムに対してのグローバリズムです。

世界が一つになって、世界国家を造り上げていこうとする動きとも言えます。

国と国とが争わないで、一つになっていくことは良いことのように思えます。

しかし、もしそれが、地上の王、支配者たちが結束して、主なる王に対抗する勢力として

結集していく動きであるとすれば、どうでしょうか。

現代版の「バベルの塔」(創世記11:1~9)と言えるかもしれません。

 

「話が少し飛躍し過ぎていませんか」と思われますか。

このような時代であるだけに、わたしは主イエスを信じている人たちが、

もっと教会間や教団教派などの違いを超えて、

「わたしの子」と呼ばれる方を王とする神の国を求める時が来ていると思っています。

 

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」

(マタイ6:33口語訳)

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