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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「一つであっても、多くある」

2022年09月30日 05時30分51秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

先日、ある病院でクリスチャンの兄姉に久し振りにお会いしました。

また、つい先日、ショッピングの時、

何十年も会っていなかったひとりの姉妹に声を掛けられました。

多くの人たちの中で、教会の外で、クリスチャンの方にお会いすると、

不思議な親しみを感じます。

これはいったいどういうことでしょうか。

 

ローマ

12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、

すべての器官が同じ働きをしてはいないように、

12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、

一人ひとりは互いに器官なのです。(新改訳2017)

 

同じものを見ていて、ここに「一つ」と言われ、

また「多く」と言われています。

また、「大勢」と言われ、「一つ」と言われています。

何のことでしょうか。

 

難しい神学的な話ではありません。

わたしたち皆がもっている「からだ」のことです。

からだは一つであって、そこには手や足や目や耳や口などの

多くの器官があります。

これは当たり前のことで、分からないという人はいないと思います。

 

ここで、パウロは、そのわたしたちのからだが何と同じだと言っていますか。

ここでパウロは見えるものを見せて、見えないものを見せています。

見えるわたしたちのからだのことと、見えないキリストのからだのことです。

 

わたしたちクリスチャンもいろいろな人がいて大勢いるのですが、

一つであると言っています。

これは見えるようで見えません。

主イエスを信じる人たちは、キリストにあって一つのからだである

と言われています。

別のところでは、それは「キリストのからだ」です。

 

1コリント12:27

あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。

(口語訳)

 

信仰歴の長い人、短い人の違いがあっても、教会の大小の違いがあっても、

教団、教派の違いはあっても、わたしたちクリスチャンは一つです。

しかし、それは何かの組織や規則によって一つになるのではなく、

キリストにあって一つなのです。

 

教会の外で、クリスチャンに出会うと、不思議な近親感を覚えるのは、

そういうわけですね。

あなたもそういう経験がおありだと思います。

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「信仰の始まるところ」

2022年09月27日 05時30分11秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

主イエスとはどういう方かを求めて、ローマ人への手紙を共に読んでいます。

 

ホセア6:3

「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。

主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、

わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。(口語訳)

 

ローマ

10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。

「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。

10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。

聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

(新改訳2017)

 

普通、あの人は信仰熱心な人だと言われるのはどういう人のことでしょうか。

 

この17節によれば、信仰は知ることから、

つまり知識から始まるのではありません。

聞くことから始まります。

 

更に、その聞くこととは、「キリストについての言葉を通して」です。

そうですね。

聞くことよりも、知ることが重視されている時代です。

 

一般的に、キリスト教とはキリストの教えが中心と思われています。

ところがです。

聖書の中の何かの教えを学ぶというよりも、

キリストについての言葉を聞くことが、信仰とつながっているのです。

そうです。

キリストについての言葉です。

 

イエス・キリストとはどういう方であるか、

その視点から聖書を読んでいくことの大切さがここにあります。

 

ですから、キリスト教とは、教えも大切ですが、

それ以上にキリストご自身です。

キリストとあなたやわたしとのつながり、その関係性こそが大切なのです。

どう思いますか。

 

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「すべての人の主」

2022年09月23日 05時30分13秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ10:12,13

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。

同じ主がすべての人の主であり、

ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです(新改訳2017)

 

ユダヤ人とギリシア人が出てきます。

ユダヤ人を宗教的な民族とすると、ギリシア人はギリシャ文明、

ギリシャ哲学と言われるように知性的な民族を代表すると言えます。

人は民族の違いを重視しますが、このみ言葉では、

両者に「区別は」ないのです。

聖書の価値観から言えば、白人も黒人も、黄色人種も区別はないのです。

 

現に、今、世界中のあらゆる民族、あらゆる人種、

国境を越えてイエス・キリストを信じるクリスチャンが起こってきています。

主イエスの御名を呼び求める人たちです。

「同じ主」であるイエス・キリストが「すべての人の主である」ことが

証明されてきています。

 

先日、バイブルトークのグループに参加しておられるクロアチアの婦人の話を

聞きました。

この方は日本に来て、2年ほど前に大阪で救われたそうです。

そして、この夏、救われて初めてクロアチアに久し振りに帰国したそうです。

そのクロアチアにバプテスト教会があったので、

数か月の短い期間ではあったのですが、朝も夜もすべての集会に出て、

自分の国の言葉で思いっきり神を賛美し、とても恵まれたと言っていました。

 

この話を聞いて、わたしもとても恵まれました。

今日の御言葉通りですね。

人種、民族の違いに関係なく、

主イエスの御名を呼び求める人たちがどこにいても恵みを与えられています。

救いの恵み、罪の赦し、永遠のいのちの恵みを体験しています。

これはスゴイことですね。

 

改めてお聞きします。

主イエス・キリストとはどういう方だと思いますか。

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「口と心」

2022年09月20日 05時30分08秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ人への手紙10章に入っています。

ここからイエス・キリストとはどういう方かを更に見ています。

以下のみ言葉からわたしたちの信じている主イエスとは

どういう方でしょうか。

 

ローマ10:9,10

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、

あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、

あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(新改訳2017)

 

ここに「口」、「心」という言葉は何回出てきますか。

それぞれ2回づつですね。

人には誰でも口があり、また心があります。

口は誰の口でも見ることができますが、

心は自分でも見ることが出来ません。

まして、他人の心はもちろん見えません。

 

見えないからと言って、自分には「心」がないと言う人はいません。

しかし、人は時によっては、心にもないことを言うことがあります。

 

この聖書の個所では、口は何をするのですか。

心は何をするのですか。

 

口はイエスを主と告白するのです。

心(頭ではなく)は神がイエスを死から復活させたと信じるのです。

 

これはある人たちにはできても、普通の人にはかなり難しい、

ということではありません。

そのように心で信じて、口で告白する人は義と認められ、また救われます。

 

旧統一教会のように、何百万、何千万と言うお金を捧げる必要は

ありません。

 

それにしてもお金もかからず、簡単に罪も赦され、

救われるというのであれば、こちらの方は安物で、

あまり高価なものでない、大したものではないと取られるかもしれません。

お金が高いほど高価なものであるという価値観からは、

お金がかからないもの、ただというのは、なかなか分かりにくいですね。

 

そうですね。

実は、この罪の赦しも救いもただではありません。

イエス・キリストの十字架による犠牲という高価な、高価な代価が

払われています。

 

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「養育係」

2022年09月16日 05時30分36秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

ローマ人への手紙からイエス・キリストとはどういう方なのか

を見ていっています。

これまでの中から、今、あなたの心に留まっているみ言葉が

あるでしょうか。

 

ローマ10:4

律法が目指すものはキリストです。

それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(新改訳2017)

ローマ10:4

キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、

律法の終りとなられたのである。(口語訳)

 

英語訳NKJVの訳は口語訳に近いですね。

 

以下の二つの言い方は、どちらが分かりやすいですか。

・律法をしっかり守って、それが認められ、義とされる。

・キリストを信じて、それが認められ、義とされる。

 

わたしは規則などをきちっと守る文化をもった日本人には、

やはり前者が分かりやすいと思います。

 

聖書の時代の律法学者、パリサイ人と言われる人たちも

その律法の道を進んでいました。

しかし、かつてはその律法を厳格に守っていたはずの

パリサイ人であったパウロという人がこのローマ人への手紙を

書いたのです。

 

また、パウロはガラテヤ人への手紙の中で、こう言っています。

「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。

それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」

(ガラテヤ3:24新改訳2017)

 

わたしはこちらの方のみ言葉が分かりやすくて、

心に留めている箇所です。

ローマ10:4と同じ意味です。

 

ですから、律法はもういらないのだ、とは言っていません。

いや、律法に大切な役目があるのです。

イエス・キリストのところへ連れて行く「養育係」、

英訳はtutor(家庭教師)です。

つまり、律法の役目は、あなたやわたしをキリストのところへ

連れて行く家庭教師のような役目なのです。

これは律法的な教えについての全く新しい見方です。

 

ユダヤ教の律法ではなく、日本でもいろいろな宗教には

それぞれの教えがあり、その教えを努力して守っている人たち、

また倫理道徳などの教えを一生懸命実践している人たちもいます。

もちろん、その人たちは自分たちが養育係に世話されているとは

思わないでしょう。

しかし、このみ言葉を知っているわたしたちクリスチャンから見る

と、この人たちはキリストのもとに来る上で、近いところにいる

と言えるかもしれません。

わたしはある時から、そのような見方をするようになりました。

 

ごく少ないのですが、旧統一協会から救われた人、

エホバの証人から救われた人、実践倫理から救われた人と

接していて、このみ言葉は本当だということをこれまで

何度も経験しました。

どう思いますか。

 

 

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