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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

ふたりの人の祈り(3)

2014年03月08日 17時36分34秒 | 聖書の真理発見

 
4.神とはどういう方か。

神は何によって人を義とし、評価されるのだろうか。

神の憐れみとは何か。


自分のどうしょうもない現実を認めて祈っていた取税人が、

神に義とされ正しいとされたのだ。



人と自分を比べて、自分は間違ったことをしていない、

正しい生き方をしていると自分で判断していたパリサイ人

は神に義とされなかった。


 あなたがたに言います」と、イエスは念を押して、

言っておられる。

この話全体を通して神とはこのような方なのだと言って

 おられるのだ。


5.適用

この話を今日に適用すると、どうなるか。

 
パリサイ人とは現代日本の社会でいうと、どんな人たち

だろうか。


 

①世間一般では人は何によって認められ、

評価されるだろうか。

プロ野球の選手はその年の実績によって、

次の年の年俸が決まっていくようだ。

結果を出したか、出さなかったかの実績が評価され、

給料が決まっていくのは、スポーツの世界のことだけ

ではない。

 
この同じ価値観はパリサイ人の価値観と似ているものが

ある。

 
一方で、人の目を気にし、人の評価を気にしている人は

 少なくない。その人は絶えず人と自分を比較する世界に

生きている。本当の自分の値打ちと価値とが分らず、

自分を見失っている。


 
また、比較の世界は絶えず、誰かが悪者となり、

誰かが良い方となる。また、誰かがすぐれた人間で、

誰かが劣った人間ということになる。自分はあの人よりは

ましだ。あの人はひどい奴だ、という見方が身についていく。


映画やドラマの世界では必ず、この二つのタイプの人間が

登場してくる。人間を二極化することで、そこに闘いがあ

り、そこに葛藤が生じてくる。誰かを悪者にすることで、

人間関係が切れていく。小さな戦争が起こる。

それは国と国の紛争や戦争にもつながっていく。

実績至上主義の今の世の中で、子どもたちに何を教えて

いくか。そのヒントがここにある。


②成果主義の、この世の評価と人の心を見られる神の評価

のどちらが分かりやすいだろうか。

 
私たちは人の評価と神の評価のどちらに影響されやすいだろうか。

 
「偽りの中に生きていると、本物が分からなくなる」(山口市の

あるお寺の前に書かれていた言葉)



世の中一般では、自分で自分のことに責任を持てない人は

無責任だと言われる。それは確かにそうだ。


では、神に憐れみを求める人のことはどう思われるのだろうか。


自分を低くした人がいる。


十字架にかけられ、自分で自分を救えない情けない人間だと言われ、

人々にバカにされたのは誰だったか。


神はそのイエスを死からよみがえらせ、罪と悪とサタンに対する

勝利を表された。

 
主イエスの十字架は神の憐れみ、神の慈しみ、神の愛を表すしるし

だったのだ。あの取税人に対して、この神の憐れみが表されたのだ。


今日、十字架を胸にかけている人たちをよく見かける。

神はこのような十字架の犠牲を通して自分に愛を示してくださった

のだ、ということを人に見せているのではないと思うが・・・。



この取税人の方が神に義とされたことについて、普通に、

誰にも納得できる説明をしようとしても分かってもらえる

だろうか。ひとつ提案がある。


このことを同じように経験しているひとりひとりが

その自分のことを話して聞かせるという提案だ。



この話から学ばされることを誰かに話すとすれば、

誰にしますか。



キリスト教は倫理、道徳の教えのようなもの、

教会とは聖人君主のような人たちの集まりだと

思っている人にこの聖書の話をし、話し合うのはどうか。


 

人の言葉や行動のことは注目されやすいが、その人の心の

ことは見えないので、無視され、軽く考えられやすい。

 
何をしたか、しなかったかも大切だ。しかし、神は

それ以上に人の心の態度を見て、評価される。

自分を正しいとし、人を見下している人。

それは心の態度であって、人には分かりにくいが、

神には見えている。


 

とすれば、取税人のように正直な心で神の前に祈ることが

できるかどうかが、人には決定的なチャレンジとなる。<o:p></o:p>

 

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ふたりの人の祈り(2)

2014年03月08日 12時09分30秒 | 聖書の真理発見

 

2.取税人のこと

もう一方の神に義とされたと言われている、この取税人は

何をしたので義と認められたのだろうか。


「目を天に向けようともしないで、胸をうちたたいて・・・」

とあるが、胸を打ちたたく、そのことがよかったのだろうか。



取税人とはどういう人たちだったか。

当時、ローマ帝国の植民地下にあったユダヤの国において、

税金を取り立てる仕事をしている彼らは

人によく思われていなかった理由があった。

彼らは言わば、ローマの犬のような者で、人々から取り立てた

税金はローマ政府のもとにもっていかれていた。

それに加えて、彼らは不正な取り立てをし、

自分の懐にも入れるようなことをしていたのかもしれない。


一般のユダヤ人から極度に嫌われていたことから想像出来ること

である。


 
そのような取税人のひとりが宮にやって来て、遠く離れて立ち、

目を天にむけようともしないで、胸を打ちたたきながら、

「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのである。

そして、この人は神に義とされたとイエスは言っておられる。


では一体、この取税人は何をしたので、神に義とされたのだろうか。

この人自身は自分が義とされたことが分かっただろうか。

その後、どんな思いで家に帰って行ったのだろうか。



この話は考えさせられるところがある。

しかし、分かるようで分かりにくい。


今の時代にも関係のある話だろうか。


3.イエスの結論

この分かりにくい話について、イエスは最後にひと言、

説明しておられる。

おおよそ、自分を高くする者は低くされ、

自分を低くする者は高くされるであろう」



このイエスの結論はこの話全体を理解する鍵とも言えるものだ。


高ぶる人は、人間関係ではどういうことになるだろうか。

へりくだる人は、人間関係ではどういうことになるだろうか。


①「自分を高くする人」とはどんな人か。

この話から分かることは、パリサイ人のような人が自分を

高くする人である。

では、彼はどのように自分を高くしていたのだろうか。


わたしはほかの人たちのような」人間ではない、と言っている。

また、「この取税人のような人間でもない」とも言っている。

この人の問題は何か。

1)この人は人と自分を比べている。


2)この人はそのことで自分を正しいとしている。

祈りには来ているが、神の義を求めてはいない。

神の判断を求めていないで、自分で判断し、

自分で自分を義としている。


 
イエスはこのような人のことを「自分を高くしている」人

と見ている。


イエスはこの人の何を見ていたのだろうか。

彼の外見ではなく、人目には見えない彼のそのような心を

見ておられたのだ。



このパリサイ人の問題は、未信者の問題であって、

主を信じているクリスチャンにはもう関係のないことだろうか。


いや、このパリサイ人は未信者ではなく、神を信じ、

聖書も知っており、祈りもし、断食もし、

献金もしていた人であった。



②「自分を低くする人」とはどんな人か。

腰の低い人か。謙遜な人か。


 
「出来てない」「出来てない」というメンタリティで、

いつも自分を低く見ている人もいる。

このような人が自分を低くしている人だろうか。

 自分はだめだ、だめだと思っている人はほめられても

素直に受け取れない人だ。

そのような人が自分を低くしている人なのか。



自分に自信がなく自分を低く見るセルフイメージが低い人と、

自分を低くする人とはどう違うのだろうか。



自分は駄目だという人も、自分のことを自分で評価している点では、

あのパリサイ人と変わらない。

このイエスの話から言えば、

「神さま、罪人のわたしを憐れんでください

と祈った取税人が自分を低くしている人だ。


・この人は「罪人のわたしを」と、自分の罪深い現実を認めている。

・この人はその自分を憐れんでください、

と胸をたたきながら祈っている。


・そのような罪深い自分の現実を自分で何とかしようとしていない。

いや出来ないと思っている。


・神の憐れみによってだけ、何とかなると信じている。

 神はこのような罪深い者を憐れんでくださる、と信じている。


 
同じようなことをパウロはもっと詳しく語っている。

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために

死んでいたのです。


この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、

不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して

歩んでいました。


わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、

以前は肉の欲望の赴くままに生活し、

肉や心の欲するままに行動していたのであり、

ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを

受けるべき者でした。


しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して

くださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちを

キリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによる

のです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に

着かせてくださいました。


こうして、神はキリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しに

なった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に

現そうとされたのです」
エペソ2:1-7


この取税人はひと言、あの短いひと言の祈りをするために

家を出て宮にやってきたのだ。


宮に来る時と比べて、帰る時のこの人の気持は何か

変わっただろうか。


心に何かの変化があったのではないか。

自分は大切な存在なのだという自覚と共に、
心に平安があった。

不思議な静かな喜びもあったのではないか。

どうしてこのような想像が出来るのか。



それは、次のような聖書の箇所からだ。

こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が

罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が

義と認められて、いのちを与えられる
のです」
ローマ5:18


 
義と認められた人に「いのち」が与えられるとするなら、

この取税人は
その「いのち」の現れとして心に平安や喜びを

経験していたに違いない。

このローマ人への手紙を書いたパウロもまた、このことを

自ら体験した者として、それについて明確に語っているわけだ。


 
「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす」

イザヤ書32:17

[続く]

 

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ふたり人の祈り(1)

2014年03月03日 10時39分15秒 | 聖書の真理発見

ルカ18:9~14

この聖書の話から真理を発見するポイント:

 日本ではクリスチャンのことを聖人君子のように思われているところがある。

理由の一つは、聖書の真理が正しく伝わっていないからである。


 
・福音とは何なのか。律法的な信仰とはどういうことか。

聖書から教えられていかなければ、クリスチャンも律法的な信仰になっていきやす

い。なぜか。

私たちの住んでいる日本社会は極めて律法的な価値観が強いから、

その影響はまぬがれない。


目次:

1. 
パリサイ人のこと

2.取税人のこと

3.イエスの結論

4.神とはどういう方か

5.今日への適用


 ルカ18:9~14(私訳)

自分のことを義人だと自任して他の人を見下している人たちに対して、

イエスはまたこのたとえをお話しになりました。


「ふたりの人が祈るために宮に上りました。

ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人でした。

パリサイ人は立って、ひとりでこう祈りました。

神よ、わたしは他の人のような貪欲な者ではなく、不正な者でもなく、

姦淫をする者でもありません。


また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

わたしは週に2度断食しておりますし、全収入の10分の1をささげています』。

 
ところが、もうひとりの取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、

胸を打ちたたきながら言いました。

『神様、罪人のわたしを憐れんでください』


あなたがたに言います。

神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、

あのパリサイ人ではなかったのです。


おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」


この話しから一緒に考えてみよう。

まず話の内容を確認


1.パリサイ人のこと

非の打ち所のないすばらしい人と思われるこのパリサイ人は神に義とされなかった。

いったい、この人はやっていることで何が問題で義とされなかったのだろうか。


彼の祈りをもう一度見てみよう。

「神よ、わたしは他の人のような貪欲な者ではなく、不正な者でもなく、

姦淫をする者でもありません。


また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。

わたしは週に2度断食しておりますし、全収入の10分の1をささげています」

この人は人間として貪欲な生き方をしていなかったようだ。

それが何か問題なのか。

この人は社会生活においても不正なことは一切していなかった。

すばらしい。


この人は女性問題も一切なかったし、妻だけを大切にしていたようだ。

よろしい、立派なことだ。


この人は信仰生活においても週に2度の断食をし、10分の1献金も

キチッとしていた。

努力しなければ出来ないこと、簡単なことではない。


このようにこの人は私生活、社会生活、信仰生活において非の打ち所のない

真面目な人であった。


このような生き方や価値観は当時のユダヤ教社会にあって、その組織、体制によって

強く支持され、高く評価されていたに違いない。



それなのに、ああそれなのに、この人は神に義と認められなかった、と

主イエスは言っておられる。

では彼のやっていたことで何が問題だったのだろうか。



このパリサイ人本人は、自分が神に義とされなかった、そのことが分かっただろう

か。

どんな気持で家に帰って行ったのだろうか。


次回に続く
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