4.神とはどういう方か。
神は何によって人を義とし、評価されるのだろうか。
神の憐れみとは何か。
自分のどうしょうもない現実を認めて祈っていた取税人が、
神に義とされ正しいとされたのだ。
人と自分を比べて、自分は間違ったことをしていない、
正しい生き方をしていると自分で判断していたパリサイ人
は神に義とされなかった。
「あなたがたに言います」と、イエスは念を押して、
言っておられる。
この話全体を通して神とはこのような方なのだと言って
おられるのだ。
5.適用
この話を今日に適用すると、どうなるか。
パリサイ人とは現代日本の社会でいうと、どんな人たち
だろうか。
①世間一般では人は何によって認められ、
評価されるだろうか。
プロ野球の選手はその年の実績によって、
次の年の年俸が決まっていくようだ。
結果を出したか、出さなかったかの実績が評価され、
給料が決まっていくのは、スポーツの世界のことだけ
ではない。
この同じ価値観はパリサイ人の価値観と似ているものが
ある。
一方で、人の目を気にし、人の評価を気にしている人は
少なくない。その人は絶えず人と自分を比較する世界に
生きている。本当の自分の値打ちと価値とが分らず、
自分を見失っている。
また、比較の世界は絶えず、誰かが悪者となり、
誰かが良い方となる。また、誰かがすぐれた人間で、
誰かが劣った人間ということになる。自分はあの人よりは
ましだ。あの人はひどい奴だ、という見方が身についていく。
映画やドラマの世界では必ず、この二つのタイプの人間が
登場してくる。人間を二極化することで、そこに闘いがあ
り、そこに葛藤が生じてくる。誰かを悪者にすることで、
人間関係が切れていく。小さな戦争が起こる。
それは国と国の紛争や戦争にもつながっていく。
実績至上主義の今の世の中で、子どもたちに何を教えて
いくか。そのヒントがここにある。
②成果主義の、この世の評価と人の心を見られる神の評価
のどちらが分かりやすいだろうか。
私たちは人の評価と神の評価のどちらに影響されやすいだろうか。
「偽りの中に生きていると、本物が分からなくなる」(山口市の
あるお寺の前に書かれていた言葉)
世の中一般では、自分で自分のことに責任を持てない人は
無責任だと言われる。それは確かにそうだ。
では、神に憐れみを求める人のことはどう思われるのだろうか。
自分を低くした人がいる。
十字架にかけられ、自分で自分を救えない情けない人間だと言われ、
人々にバカにされたのは誰だったか。
神はそのイエスを死からよみがえらせ、罪と悪とサタンに対する
勝利を表された。
主イエスの十字架は神の憐れみ、神の慈しみ、神の愛を表すしるし
だったのだ。あの取税人に対して、この神の憐れみが表されたのだ。
今日、十字架を胸にかけている人たちをよく見かける。
神はこのような十字架の犠牲を通して自分に愛を示してくださった
のだ、ということを人に見せているのではないと思うが・・・。
この取税人の方が神に義とされたことについて、普通に、
誰にも納得できる説明をしようとしても分かってもらえる
だろうか。ひとつ提案がある。
このことを同じように経験しているひとりひとりが
その自分のことを話して聞かせるという提案だ。
この話から学ばされることを誰かに話すとすれば、
誰にしますか。
キリスト教は倫理、道徳の教えのようなもの、
教会とは聖人君主のような人たちの集まりだと
思っている人にこの聖書の話をし、話し合うのはどうか。
人の言葉や行動のことは注目されやすいが、その人の心の
ことは見えないので、無視され、軽く考えられやすい。
何をしたか、しなかったかも大切だ。しかし、神は
それ以上に人の心の態度を見て、評価される。
自分を正しいとし、人を見下している人。
それは心の態度であって、人には分かりにくいが、
神には見えている。
とすれば、取税人のように正直な心で神の前に祈ることが
できるかどうかが、人には決定的なチャレンジとなる。<o:p></o:p>
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