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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「真理発見のための問い」

2018年04月30日 09時37分00秒 | 聖書の真理発見

このお話「姉と妹の話」にどのような真理が隠されているでしょうか。

一緒にその真理を発見していきましょう。

 

まず、以下のいくつかの質問にご自分なりに答えてみてください。

これは〇×式の答えを求めていません。

どなたかと一緒にか、あるいはグループで話し合うための質問でもありますので、ご自分の想像出来ることを話し合ってみることもお勧めです。


・姉のマルタは喜んでイエスを自分の家に迎え入れました。ところが、しばらくすると、その喜びがなくなり、苛立ちと不平の気持ちに変わっていきました。なぜ、マルタの心はそんな風に簡単に変わってしまったのでしょうか。

 

・マルタはイエスに「妹がわたしだけに接待をさせているのを何とも思われないのですか」と言っていますが、何か気になるようなこの言葉についてどう思いますか。

 

・なぜ、マルタはイエスに頼まずに、自分で直接、妹に手伝いを頼むことをしなかったのでしょうか。姉と妹の親しい関係なのですから。

 

・イエスの足もとに座っていた妹のマリヤは、イエスに言っている姉の言葉が聞こえていたでしょうか。聞こえていたとすれば、どう思ったでしょうか。

これも想像です。正しい答えを決めつけることは出来ません。

 

・姉の言葉が聞こえていても、マリヤはすぐに立って台所の方へ行こうとしていません。マリヤはなぜ、それほどにイエスの話を聞きたかったのでしょうか。

 

・もし、イエスがマルタの言うことを聞いてあげ、妹のところへ行って、「あなたもお姉さんの手伝いをしてあげなさい」と言ったとすると、どう思いますか。

 

・イエスはなぜ、「マルタ、マルタ」と二度名前を呼ばれたのでしょうか。この時、イエスはどんな顔をしておられたでしょうか。想像できますか。

 

・マルタとマリヤは姉妹でしたが、性格的にどう違うと思いますか。違う点を挙げてみてください。

 

・そもそも問題の発端は姉と妹の関係に問題があったようです。二人の関係が遠慮のない関係で、お互いに思いやる関係であったとすれば、この話はどういうことになっていたでしょうか。

 

・人間関係の問題に直面して、マルタは妹の態度を変えたかったのですが、マリヤは何を変えたかったのでしょうか。

 

・「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。無くてはならないものは多くはないのです。いや、一つだけです。マリヤはそのよい方を選んだのです」とイエスは言われました。ところで、姉マルタはイエスのみ言葉を聞いたでしょうか。

 

・その後、マルタはどうしたでしょうか。

 

・イエス一行が帰って行った後、マルタとマリヤのふたりはどんな話をしたと思いますか。

 

・この話から人間とはどういうものでしょうか。

 

・この話からイエスとはどういう方でしょうか。

 

ご自分なりに、質問についての意見を書き出してみて下さい。

あるいは、どなたかと話し合ってみてください。

きっと、何かの気づきか新しい発見があると思います。

 

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「姉と妹の話」 

2018年04月26日 07時28分25秒 | 聖書の真理発見

人間関係の難しさを職場や学校で経験している人は多いと思います。いろいろなところでむずかしいですが、しかし、やはり特に家族の中では接近していますので、関係が難しくなることが多いと思います。

家族の中で関係が難しくなると、出来ることも出来なくなることがあります。

これから学ぼうとしている聖書のお話はそういうお話です。

ここにわたしたちのヒントや助けとなるようなことが教えられているでしょうか。

 

イエス一行は旅をしておられ、ある村にはいられた。
その時、マルタという女性がイエスを自分の家に迎え入れた。
そのマルタにマリヤという妹がいた。
その妹はイエスがお話しをしているのを主の足もとに座って聞いていた。
しばらくして、マルタは接待のことで心を取り乱し、イエスのところにやって来てこう言った。
「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを何とも思われないのですか。妹が私の手伝いをするように言ってやってください。」
イエスは答えて言われた。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。無くてはならないものは多くはないのです。いや、一つだけです。マリヤはそのよい方を選んだのです。それを彼女から取り去ってはなりません」(ルカ10:38~42口語訳)

 

今、活字や文字を離れて、このお話の情景を思い浮かべてください。紙芝居にすると、何枚の絵になるでしょうか。

 

まず、お話の内容確認していきましょう。

・ここに二人の姉妹が出てきます。イエスを自分の家に迎え入れたのは姉の方でしたか、妹の方でしたか。

 

・その姉の名前はマルタと言いましたが、妹の名前はマリヤと言いました。

イエスが家に入って来られた後、その姉と妹の態度は対照的でした。

姉のマルタは接待のために台所で忙しくしていました。一方の妹のマリヤは何をしていましたか。

 

・接待のことで忙しくしていた姉のマルタは、突然イエスのところにやって来ました。そして、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを何とも思われないのですか」と言いましたが、その後、彼女はイエスに何かを頼んでいます。どういうことでしたか。

 

・姉のマルタはイエスの所にやってきたのですが、他に方法はなかったでしょうか。あるとすれば、どういうことが考えられますか。

 

・そのマルタに対して、イエスは「マルタ、マルタ・・・」と名前を2度呼ばれました。そして、無くてならないものは多くない、と言われました。
いくつあると言われましたか。

 

このお話にどのような真理が隠されているでしょうか。

一緒にその真理を発見していきましょう。

次回に続きます。

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「兄息子とは」

2018年04月23日 10時48分54秒 | 聖書の真理発見

 イエスのたとえ話の中でも有名な「放蕩息子」の、この話は誰に対して話されたものでしたか。

ルカによる福音書15章の最初のところを見るとハッキリわかります。

  「さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。

するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、

『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った。

 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、」(ルカ15:1~3 口語訳)

  

イエスのことをつぶやいて批判していた当時の宗教家、パリサイ人や律法学者たちに対して話されたものでした。

このことを聞いて、イエスは3つの譬えの話をされた。
いなくなった1匹の羊の話
無くした銀貨の話
放蕩息子とその兄の話

 

ということは、この話に出てくる放蕩息子の兄とは、実は、この宗教家たちのことであることが分かります。

では、放蕩息子は誰のことでしょうか。

そうですね。

イエスが一緒に食事をしていた取税人や罪びとと言われる人たちということでしょうか。

 さて、今日の日本社会では、弟息子のタイプと兄息子のタイプとでは、どちらのタイプの人たちが多いでしょうか。

 あなたはどちらのタイプですか。

わたしは典型的な兄タイプの人間でした。

それなりに努力して、結果を出して、自分が評価されるという価値観にしっかりと生きていた人間でした。

どこか自分に厳しくある分、また人にも厳しく、人を責め裁きやすいところがありました。

そのためか、人間関係ではあまりうまくいかないところがありました。


弟タイプの人間は、物やお金への欲望が強く、自己中心、自分勝手なところがあり、失敗を繰り返し、自分はどうしょうもない人間であることを自他ともに認めている人です。

 一方で兄タイプの人間は、責任感が強いのはよいのですが、もう一方で、人を責め裁く心、嫉妬心があるため、人を赦せないという傾向があります。
父なる神の赦しの心が分らないのです。

自分の努力次第でどうにもなるものと思っているところがあります。

 あなたの場合、教会に行くようになったことや、洗礼を受けることにした動機は純粋なものでしたか。

 日本のある大企業の社員に自殺者が多い、と精神科のクリスチャン看護士の方が言っていたという話を聞いたことがあります。

どう思いますか。

 最後に、このたとえ話をされたイエスとはどういう方だと思いますか。

この放蕩息子の話をされた人であり、この話の作者です。

イエスは父なる神がどのような方であるかをよく知っておられる方とも言えます。
また、人間とはどういうものであるかをよく知っておられる方ですね。
イエスの目には、人間は自分で自分を救えないものであると見えています。

イエスの目には、人間は神に愛されているものでもあるのです。
イエスことがわかる人は、父なる神のことがわかるようになります。
イエスのことがわかるようになる人は、人間とはどういうものであるかの見方が変わってきます。

 

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「父の心が分からない人」

2018年04月19日 06時48分25秒 | 聖書の真理発見

 前回の放蕩息子の話の続きです。

 「バカなお父さんだ。息子をこんなに甘えやかせれば、また同じことをやらかすだろう」

と、ある未信者の人が言いました。

放蕩息子の父のことですが、このお父さんのことをどう思いますか。

 

父は弟息子のことを死んでいたのに、生き返った、と言って喜んでいます。どういう意味でこんな言い方をしたのでしょうか。

 

エペソ2:1、5 コロサイ2:13 を参照

 

弟は結果を出さなかっただけではなく、財産を無駄にして、無一文で帰ってきたのです。この弟のことは一般的には、どのように評価されるのでしょうか。

価値のない、役に立たない存在で、本当に困った人間だと思われます。

つまり存在価値が普通よりもずっと低いのです。

しかし、この父の目からは違います。

死んでいたのに、生き返ったと言っていますから、父はこの息子の存在そのものを喜んでいます。

ここが分かるようで、分かりにくいところです。

父の目には、この息子が何をしたか、何をしなかったかよりも、その存在そのものが大きな価値をもっているようなのです。

もちろん、これは普通の親子関係についても当てはまらない話ではありません。

しかし、イエスがこのたとえ話をされたのは、この「父」が誰であると言おうとしておられるのでしょうか。

イエスは、神の愛とは無条件の愛なのです、と神学的な説明をされませんでした。

惨めな姿で帰ってきた弟息子にしっかりと向き合い、大喜びで対応している父の姿をストーリーを通して、誰にも分かるように話しておられます。

これは難しい教理的な話ではありません。

誰でも分かる話ですが、しかし、誰でも理解できるとは限らない父なる神についての話です。

聖書を読んで分かることですが、イエスほど父なる神のことについて詳しい方はいません。

 

お話に帰りますが、身近にいながら、兄息子はこの父の心、気持ちがまったく分からなかったのです。

父の様子を目の当たりに見ながら、分からなかったのです。

ということはどういうことでしょうか。

いろいろ聞かされても、父なる神のことがまったく分からない人がいるということです。

さて、イエスがこの放蕩息子のたとえ話をされたのは、誰に対してでしたか。ここで兄のような人とは誰のことでしょうか。

ルカ15:1~3を参照にしてください。

 

次回に続きます。

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「結果を出してこそ」

2018年04月16日 07時36分25秒 | 聖書の真理発見

 放蕩息子のお兄さんとお父さんの価値観の違いについてみてきました。

ここから想像して、弟息子が家を出ることを決めた理由が他にもあったのではないかと思えてきます。

結果を出してこそ、人間の値打ちと価値とが決まるのだと、そう信じ込んでいた兄息子でした。こんなお兄さんと一緒に生活をしていた弟の方はどんな気持ちだったでしょうか。

いつも兄から働きの結果を求められ、比較されていたかもしれません。

そのために、兄と弟の関係はあまりよくなかったのではないかと想像出来ます。同じ親から生まれた兄弟なのにです。

 

一生懸命努力して頑張る、これは今の日本人の素晴らしいところだとも言われていますし、確かにそういう面もあります。

ところがです。

問題が起こります。

どういう問題ですか。

人との人間関係の問題です。

仕事仕事で結果を出さなければならないことで、人との関係の方は軽視されていきます。人との信頼の関係が難しくなっていきます。

仕事仕事で働き志向ですから、職場だけではなく、家族の人間関係も軽視されていきます。

夫婦の関係や親子の関係という家庭の基本的なものにひびが入ってきます。

その犠牲となるのが、子どもたちです。

学校にも問題があるのかもしれませんが、親や家族の問題を学校教育だけで解決することは出来ません。

日本の社会は今、いろいろなところで、一生懸命働いて結果を出すという、この働き志向の価値観のための「つけ」を払わされています。夫婦の関係や親子の関係を犠牲にしてきた「つけ」です。

 

特に悪いこともしていないし、ずっと真面目に働き続けてきた放蕩息子の兄、その兄と一緒にいたくないという思いもあって、弟息子は家を出ました。皮肉なことですね。これはわたしの勝手な想像ですが、どう思われますか。

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