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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「怒る人、憐れみ深い人」

2023年08月29日 05時30分15秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書2章の後半に進みます。

婚礼の場で水がぶどう酒に変わるという「しるし」を行い、

ご自身がどういう者であるかを現わされたイエスの、

その後の話しです。

 

次の話しではイエスとはどういう方でしょうか。

 

2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、

イエスはエルサレムに上られた。

2:14 そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、

座って両替をしている者たちを見て、

2:15 細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、

両替人の金を散らして、その台を倒し、

2:16 鳩を売っている者たちに言われた。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を

商売の家にしてはならない。」

2:17 弟子たちは、

「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを

思い起こした。

 

2:18 すると、ユダヤ人たちがイエスに対して言った。

「こんなことをするからには、どんなしるしを

見せてくれるのか。」

2:19 イエスは彼らに答えられた。

「この神殿を壊してみなさい。

わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」

2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。

「この神殿は建てるのに四十六年かかった。

あなたはそれを三日でよみがえらせるのか。」

2:21 しかし、イエスはご自分のからだという神殿について

語られたのであった。

 

2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、

弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、

聖書とイエスが言われたことばを信じた。(新改訳2017)

 

愛と憐れみ、いつくしみに満ちた方、イエスがここでは

とても怖い感じです。別人のようです。

 

多くの場合、人はどちらかです。

愛と憐れみの心のある人は怒ったりしません。

また、よく怒りやすい人は愛と憐れみの心を持ち合わせていない

のが普通です。

ところが、イエスの場合はそうではありません。

 

イエスは裁く権威をもっておられる方です。

人がここでイエスがやっているのと同じようなことをすれば、

どうなるでしょうか。

 

しかし、イエスは一方で憐れみ深い方でした。

もちろん、昔は憐れみ深い方だったが、

今は怒りぽい人に変わったというのではありませんね。

 

「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、

倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。」

(マタイ9:36口語訳)

 

ここでイエスのやっておられることは、

感情的になり怒りに任せて、動物をむちで追い出し、

両替人の台をひっくり返したのでしょうか。

よくこの記事を注意して読んでみるとそうではないことが

分かります。

どの場面で分かりますか。

 

まず、イエスは宮にやって来られ、宮の中で、

牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを

見られました。(2:14)

その後、そこらにあった縄を手にして手当たり次第、

怒りの行動に出たのではないかと、

以前のわたしは、そのようにこの箇所を読んでいたと思います。

そうではないですね。

どこで分かりますか。

 

イエスはどこかから細縄を探してきて、

それでむちを作っておられます。(2:15)

細縄でむちを作っておられるのですから、

これは少し時間がかかります。

そのイエスの姿が思い浮かびますか。

 

感情的にカッカしていれば、

こんな冷静なことはできないはずです。

 

ここでもう一つ、イエスが感情的になって怒りに任せて

何かをしているのではないというのが

見えてくるところがあります。

お気づきですね。

そうです。

鳩のことです。

 

イエスは、羊も牛もみな宮から追い出し、

両替人の金を散らして、その台を倒しました。

そして、鳩を売っている人の鳩もそのかごから

追い出していますか。

そうではありません。

 

「鳩を売っている者たちに言われた。

『それをここから持って行け。

わたしの父の家を商売の家にしてはならない。』」(2:16)

 

次回に続きます。

 

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「何のために聖書を学ぶのか」

2023年08月25日 03時30分57秒 | ヨハネ福音書より

 

ぶどう酒でなくても、無くなっていくものは

わたしたちの人生です。

 

イエスをこの婚礼の場に迎えていた花婿たちがいました。

イエスの言われることに不平も言わず、

ただ従った人たちがいました。

水がぶどう酒に変わるという奇跡は、この人たちを通して、

イエスによってなされたしるしでした。

そのしるしが指し示しているのは

イエスとはどういう方なのかでした。

 

この話しからイエスとはどういう方でしょうか。

(なぜ、改めてそんなことを聞くのですか。

もう十分わかっていることではないのですか。)

 

「イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることがない」

とみ言葉にあります。

今も変わらないイエスさまです。

今、わたしたちが信じているイエスとはどういう方なのか。

それはわたしたちにとって、とても大切な意味をもっています。

 

今日、わたしやあなたが信じているイエスとは、

この福音書に出てくる方ですね。

(もちろんそうです。同じ方です。)

そうであれば、

このイエスを2000年以上前の歴史上の人物とだけ

見ている人たちと、

わたしたちの見方とはだいぶ違ってきます。

 

わたしは自分の両親の写真を見ることができます。

その写真を見ながら、両親の昔の思い出を話すこともできます。

しかし、その二人とも今はこの地上にはいません。

 

わたしたちの場合、聖書に出てくるイエスという方を

写真のように見ているのですが、それは、

今はもうこの世にいない人として見ているのではありません。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」

と言われる方だからです。

 

目には見えませんが、

今も生きて信じる者たちと共におられる方として

イエスを信じている人にとっては、

聖書の中に出てくるイエスを単なる昔の写真を見ているのとは

全く違うのです。

(何を言いたいの)

 

そうなのです。

今も生きておられるイエスを知っている人たちは、

聖書の中に出てくるイエスのことを知れば知るほど、

もっとイエスのことを身近に覚えることができます。

もっと言えば、そのイエスと出会うことができます。

わたしは最近そのように思うようになりました。

 

聖書の中に出てくるザアカイや盲人バルテマイが

イエスと出会っていますが、

その話を通してわたしも改めてイエスと出会うのです。

言い換えると、今日も聖霊によってイエスと出会う時、

いのちを得るのです。

知識を得るだけではありません。いのちです。

 

このことを教えているのは、何度も引用しているあの個所ですね。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、

聖書を調べています。

その聖書は、わたしについて証ししているものです。

それなのに、あなたがたは、

いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

(ヨハネ5:39、40 新改訳2017)

 

このいのちとは、神のいのちであり、

主イエスが福音書の中で生きて見せておられるいのちです。

目に見えない神は、わたしたち人間にイエスを通して、

このいのちを与え、

ご自身がどういう方であるかを見せようとしておられます。

 

エデンの園にあった、「善悪を知る木」ともう一つの木、

それは「いのちの木」でした。

人間を造られる前に、主なる神はすでにこの「いのちの木」を

用意しておられました。

この続きはまた、どこかでしたいと思っています。

 

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「あかし人」

2023年08月22日 05時30分27秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書2章のお話しからの4つ目の問いかけです。

この話しは未信者向きの話でしょうか。

 

水がぶどう酒に変わるという奇跡は、

普通の未信者の方にはなかなか信じてもらえないので、

この箇所はやはり未信者にはまだ無理な話ではないのか

と思いますか。

 

ザアカイの話しや放蕩息子の話しの方が、

まだわかってもらいやすいとわたしも思っていました。

けれども最近はこの話しは未信者や初心者の人にも

わかってもらえる話しだと思うようになりました。

 

その理由についてです。

1.まず、婚礼の席でぶどう酒が無くなるということは、

今日では考えられないことですが、話をもっと広げると、

わたしたちの人生とは無くなっていくことが多い人生だ

と思いませんか。

 

最近は「持続可能」という言葉がよく使われますが、

わたしたちのこの人生はいつまでも持続可能ではありません。

青春や若さも無くなっていきます。

わたしも遠い昔にその経験をしています。

気持ちはいつまでも若いつもりでも、体力も無くなっていきます。

ほぼ毎朝、わたしはウオーキングなるもの(自分ではそう思ってい

る。散歩ではないと。)を続けていますが、

そこで体力の限界を嫌でも自覚させられるようになってきました。

年を取ると、あなたもきっとその時が来ますよ。

(もう来ている!)

決していつまでも続かない持続不可能な人生を

わたしたちは生きています。

ぶどう酒は無くなっていきます。

 

2.無くなっていくこの人生において、

わたしは主イエスと出会い、新しいいのちを与えられました。

言い換えると、新しく生まれたのです。

わたしにとっては、これは水がぶどう酒に変わる

という奇跡以上のことです。

そうです。

わたしの場合、イエスを知らない人生は味も香りもないような

人生でしたが、イエスに出会った後、

味と香りのある人生へと変えられました。

これは他の人との比較ではありません。

以前のわたしとの比較によって言えることです。

 

3.この3つ目が大切だと思っています。

カナの婚礼の話しに帰りますが、

もしこの場にイエスが迎えられていなければ、

この話しはどうなっていたでしょうか。


ぶどう酒が無くなってきて、その場がシラケて、

ぽつぽつと帰っていく人も出てきたかもしれません。

その結果、当の花婿、花嫁は恥をかくことになった

かもしれません。

しかし、彼らがイエスをその場に招いていたことで、

恥をかくどころか皆に喜ばれる結果となりました。

 

わたしも自分の人生にイエスを招いていなければ、

今現在の、この人生はなかったと思います。

あなたの場合はどうですか。

 

ここでわたしはこの水がぶどう酒に変わったという奇跡を

わかりやすく説明して、未信者の人にもわかってもらおうと

思っていません。

そうではなく、先に信じることができた自分のあかしをする

ことを通して、

このお話がどういう意味を持っているのかを知っていただける

と思っています。

そういう意味では、

この話は初心者にもとても分かりやすい話だと言えます。

 

説明ではなく、あかしです。

わたしたちは霊的な真理を説明する人として召されたのではなく、

キリストのあかしをする人として召されたのです。

「あなたはその方のために、すべての人に対して、

見聞きしたことを証しする証人となるのです。」

(使徒22:15新改訳2017)

 

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「イエスを信じた」

2023年08月18日 05時30分32秒 | ヨハネ福音書より

 

前回からの続きです。

ヨハネ福音書2章11節

「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、

ご自分の栄光を現された。

それで、弟子たちはイエスを信じた。」

 

この11節からの3つ目のポイントです。

一つ目は「しるし」とは何か。

二つ目は「栄光」とは何か。

そして、三つ目は、弟子たちがイエスを信じたというのは

どういうことでしょうか。

一般の人たちのことではなく、弟子たちのことですよ。

イエスに従って来ていた弟子たちは、

もうすでにイエスを信じていたのではないのでしょうか。

なぜ、ここでイエスを信じたと言われるのでしょうか。

それまでの弟子たちはイエスを信じていなかったけれど、

ただ後について来ていただけなのでしょうか。

 

その頃の弟子たちはイエスを信頼してイエスの後に

ついてきました。

イエスとのそのような関係をもっていました。

その意味ではイエスを信じてついて来ていたのです。

ところが、このぶどう酒の奇跡、しるしを通して、

彼ら弟子たちは改めてイエスを信じたのです。

どのように、ですか。

 

父なる神のひとり子としてのイエスの栄光があらわされた

のですから、弟子たちはここでイエスを単なる信頼できる預言者、

教師という以上に神のひとり子としてのイエスを信じたのです。

 

わたしも高校時代にこの信仰をもって長い年月が経っていますが、

今でも改めてイエスに出会ったように思える時があります。

自分の今まで知らなかったイエスに出会った感じで、

改めてイエスさまを信じる思いになることがあります。

イエスを信じるとは、

イエスさまとの個人的な関係をもつことですが、

同時にまた、その時々にイエスを改めて信じる

ということがあります。

 

あなたも同じような経験をしておられると思います。

次回は、4つ目の問いかけです。

この話しは未信者向きの話しでしょうか。

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「栄光とは何か」

2023年08月15日 05時30分44秒 | ヨハネ福音書より

 

前回の続きです。

ヨハネ福音書2章11節

「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、

ご自分の栄光を現された。

それで、弟子たちはイエスを信じた。」

 

前回は、

1.「しるし」とはどういう意味かを見てきました。

 

今日は二つ目のところです。

2.栄光とは何か。

カナの婚礼の場で水がぶどう酒に変わったのですが、

イエスはこれを最初のしるしとしてご自身の栄光を現わされた

とありますが、これはどういうことでしょうか。

 

「栄光」という言葉の日本語の意味を調べてみると、

「輝かしい誉れ」「大きな名誉」というような意味です。

優勝したチームが勝利の栄光を勝ち取ったなどと言います。

では、聖書ではこの言葉はどのように使われているのでしょうか。

 

ルカ 2:9

すると、主の使いが彼らのところに来て、

主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

(新改訳2017)

 

ここでの栄光は文字通り、輝く光を表しています。

主なる神の栄光の光ですね。

 

次の個所の「栄光」はどうでしょうか。

ヨハ ネ8:54

イエスは答えられた。

「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、

わたしの栄光は空しい。

わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。

この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。

(新改訳2017)

この栄光は、「大いなる誉れ」の意味とも言えます。

 

次の個所はどうでしょうか。

ヨハネ 1:14

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちはこの方の栄光を見た。

父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。

この方は恵みとまことに満ちておられた。(新改訳2017)

 

この箇所に見る「栄光」とは、輝く光でもなく、

大いなる誉れの意味でもありません。

父なる神のひとり子としての栄光です。

ヨハネ2章11節の栄光はこの意味にとれます。

「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、

ご自分の栄光を現された。」

 

水がぶどう酒に変わったという驚くべき奇跡によって、

実はイエスが父なる神のひとり子としての栄光を

現わされたのです。

 

ですから、婚礼の席で水がぶどう酒に変わった、この奇跡は

どこまでも「しるし」であって、

それはイエスがどういう方であるかという目に見えない事実を

指し示しているのです。

 

福音書の中で、しるしや奇跡という言葉が出てくるとき、

このことを覚えていると、また聖書の意味するところが

さらに深くわかってくると思います。

 

次回は、3つ目のポイントに行きます。

もう、ご自分で3つ目の意味はおわかりですね。

 

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