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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「問題を誰のところに」

2025年04月29日 05時30分21秒 | ルカ福音書より

前回の続きです。
質問、覚えていますか。
聖書の個所、わかりましたか。
「探してない。そんな時間ない。」と言われる方、
 はい、その個所を知っているかどうかは、

信仰とはあまり関係ないかもしれません。

前回の聖書個所は、
ルカ10章の後半のところでしたね。

お話の内容をひと言で言えば、
ふたりの姉妹がイエスさまに対して違った態度を
示しているところです。
それがとても印象的なお話ですね。

まず、イエスはこの家にやって来られたのですが、
それはイエスがご自分から訪ねて来られた
のでしたか。
そうではないですね。
姉のマルタが、迎えに行っています。

ベタニアという村でしたが、
イエスはこのふたりの家には
よく来ておられたようです。

 しかし、まだどこに行くのかを決めていない時に、

マルタに「ぜひうちへ来てください」
と招かれたのでしょうか。
それとも何かの連絡をしていて、
そこに行くことが決まっていたので、
マルタは迎えに行ったのでしょうか。

(そんなこと、どちらでもよろしいでしょう。)
なぜ、こんな想像をしているのかというと、
理由があります。
この話の状況をイメージし、
その話の中にしっかり入って行くためです。

さて、その後の話です。
イエスが(多分弟子たちも一緒だった)家に
入って来られた後、
マルタとマリヤの態度が対照的ですね。
ふたりは姉妹なのにその行動が別々です。

 ふたりは一緒に台所に立っていませんでした。

ふたりは一緒にイエスの足元に
座っていませんでしたね。

この光景から、あなたは何を想像しますか。
(そんなこと、いちいち想像する必要あるのですか。)
この話の中に、あなたも入って来てもらうためです。
(また、それか。
聖書の学びにそんなことが必要なのですか。)

わたしはそのことを大切だと思っています。
ひとりひとりが誰かに教えてもらってわかる
というよりも、
大切なことを自分で聖書から聞いていくためです。

多くのクリスチャンは、
聖書は自分で読んでもわからないので、
専門的な勉強をしている人に解説してもらって、
わかるのだと思っていないでしょうか。

 そういう場合もありますが、

すべてそうでしょうか。
神さまは、そのように、
専門的な学びをした人から解説して
もらわなければわからないように、
聖書を書いておられるのでしょうか。
わたしはそうは思いません。

イエスが家に入って来られた後、
マルタは台所で忙しくしていました。
マリヤはイエスの足元に座って、
み言葉を聞いていました。
それで問題が起こったのですね。
台所で忙しくしていた姉のマルタは
「マリヤ、お姉さんはやることが一杯で、困っています。あなたもこちらに来て、助けてちょうだい」
と言いませんでしたね。
彼女はその問題を誰のところにもっていきましたか。
なぜそうしたのでしょうか。
 どう思いますか。
次回に続きます。
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「よく知られているお話し」

2025年04月25日 05時30分35秒 | ルカ福音書より

今回から何回かに分けて、
聖書の中でとてもよく知られているお話を
取り上げます。

 「なーんだ、その話はもう何度も聞いて、よく知っている」と言われるようなところです。


短くて、話としてはよく知っていても、
聖書の中の話は行間を読んで想像していく時、
今まで気づかなかったようなことが示され、
教えられることがあります。
そこがグループでバイブルトークをしていて、
とても面白く、また、
主からの語りかけもあるところです。

今日、
日本の社会で皆さんが辛い思いをしているのは、
物価高の問題、健康の問題などもありますが、
もうひとつは人間関係の問題です。
日曜日の午前中に1回だけ会う人の場合は、
それほど人間関係で問題が起こることはない
と思いますが、
毎日顔を合わせている家族や職場の中では
接近していますので、
関係が難しくなることが多いと思います。
その関係が難しくなると、
出来ることも出来なくなることがあります。

今日のお話は、聖書の中に出てくる、
そういうお話です。
 このお話にわたしたちのヒントや助け

となるようなことが教えられているでしょうか。

イエス一行は旅をしておられ、ある村にはいられた。
その時、

マルタという女性がイエスを自分の家に迎え入れた。
そのマルタにマリヤという妹がいた。
その妹はイエスがお話しをしているのを

主の足もとに座って聞いていた。

しばらくして、マルタは接待のことで心を取り乱し、イエスのところにやって来てこう言った。
「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを

何とも思われないのですか。
妹が私の手伝いをするように言ってやってください。」
イエスは答えて言われた。
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
無くてはならないものは多くはないのです。
いや、一つだけです。
マリヤはそのよい方を選んだのです。
それを彼女から取り去ってはなりません」(口語訳)

では、さっそく質問です。
 この話は、聖書の中のどこにある話でしょうか。
どの福音書の何章に出ている話でしょうか。
最初から少し意地悪な質問でしょうか。
次回に続きます。
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「短い二つの言葉」

2025年04月22日 05時26分33秒 | ルカ福音書より


ルカ福音書7章36~50節からの続きですが、
今回がこのお話の最終回です。
 
7:47 ですから、わたしはあなたに言います。
この人は多くの罪を赦されています。
 彼女は多く愛したのですから。

赦されることの少ない者は、
愛することも少ないのです。」
7:48 そして彼女に、
「あなたの罪は赦されています」と言われた。
7:49 すると、ともに食卓に着いていた人たちは、
自分たちの間で言い始めた。
 「罪を赦すことさえするこの人は、

いったいだれなのか。」
7:50 イエスは彼女に言われた。
 「あなたの信仰があなたを救ったのです。

安心して行きなさい。」(新改訳2017)

パリサイ人シモンのことと、
罪の女と言われているこの女性とを
いつくかの点で比較した後、
イエスは彼女に向かって、言われました。
今まではシモンに向かって言っていたのですが、
この時、はじめてイエスは彼女の方に向かって
声をかけられました。
 何と言われましたか。
「あなたの罪は赦されています」と言われました。
そして、その後、もう一つ言われました。
「あなたの信仰があなたを救ったのです。」
彼女は救われたのですね。
では、質問です。
この罪の女は何をしたので救われたのでしょうか。
 彼女がイエスの足を涙でぬらしたことで、

救われたのでしょうか。
イエスの足に高価な香油を注いだ、
そのことで彼女は救われたのでしょうか。
救われるためには、
そういうこともしなければならないのでしょうか。
もちろん、そうではないですね。
ここでイエスは、「あなたの信仰が」と
言っておられます。
では、この人の信仰とはどういう信仰でしょうか。

普通、信仰とは神を信じることですね。
イエスは、彼女が家に入って来てから
自分に対してしたことのすべてを信仰と見ています。
イエスに対してしたことですね。
彼女はイエスのもとにやって来ました。
そして彼女がしたことのすべてに、
イエスに対しての彼女の思い、
心が表されている、
とイエスは見られたと思います。
もっと言えば、イエスのもとに来ること、
そのイエスに対する心からの思いや気持ちを
表すこと、イエスはそれを信仰と見られました。

彼女はここで、いわゆる信仰告白をしていませんね。
しかし、イエスは
「あなたの信仰があなたを救ったのです」
と言われました。
ここでイエスが彼女に向かって言ったのは、
次の短い二つの言葉だけでした。
「あなたの罪は赦されています」
「あなたの信仰があなたを救ったのです」

イエスによれば、罪が赦されたこの人はまた、
救われたのです。
罪の赦しと救いとは同じようなことですね。

そして、その後、「安心して行きなさい」
と言われました。
英語訳では、Go in peaceです。
ですから、「安心して」とは、
「平安のうちに」とも言えます。
そうですね。
罪が赦されたことがわかる人には
不思議な平安があります。
未信者の人にその言い方は
わかってもらえるでしょうか。

不安なことの多い今の時代です。
別に神学的な説明ではなく、
このような世の中にあって、
自分には平安があるとあかしする人の言葉は、
体験がなくてもわからないことはないと思います。
どう思いますか。
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「未信者の人に聞かれたとすれば」

2025年04月18日 05時30分02秒 | ルカ福音書より

ルカ福音書7章から、前回の話の続きです。

借金の取り消しの話はわかりやすいのですが、
罪の赦しのことは簡単にはわかりにくいです。
自分が赦されなければならない罪を犯している、
とハッキリした自覚がある人には
わかりやすいかもしれません。

また、借金の返済と罪の償いについてはどうですか。
この聖書の話でも、
主イエスは目に見えない罪の赦しと
目にも見える借金の返済のことを
対比しておられます。
目に見えない霊的な真理についての

何かの説明よりも、
見えるものとの対比による話はわかりやすいですね。
 そのたとえ話の後に

イエスはとてもハッキリとしたことを言われました。

7:43 シモンが
「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、
イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
7:44 それから彼女の方を向き、シモンに言われた。
 「この人を見ましたか。

わたしがあなたの家に入って来たとき、
あなたは足を洗う水をくれなかったが、
彼女は涙でわたしの足をぬらし、
自分の髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは口づけしてくれなかったが、
彼女は、わたしが入って来たときから、
わたしの足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたはわたしの頭にオリーブ油を
塗ってくれなかったが、
彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 ですから、わたしはあなたに言います。
この人は多くの罪を赦されています。
彼女は多く愛したのですから。
赦されることの少ない者は、
愛することも少ないのです。」

金貸しについての、あのわかりやすいたとえ話の後、イエスは香油を注いだ女性とパリサイ人シモンのことを比較対比して4つのことを話しています。
 借金の返済のたとえ話では、

直接シモンや彼女のことは出てきませんでしたが、
この後の比較の話はハッキリした、
ふたりについての具体的な比較でした。
比較されている4つの点をあげてみましょう。
  • 足を洗う水をくれなかったシモンと、
    涙で足をぬらした彼女
  • 挨拶の口づけをしてくれなかったシモンと、
    足を口づけしてくれた彼女
  • 頭にオリーブ油を塗ってくれなかったシモン、
    足に香油を塗ってくれた彼女
そして、もう一つ4つの目の比較は何でしょうか。

4.赦されることの少ない者と
多くの罪を赦されている彼女

この比較は、イエスがシモンにも
同じようにしてもらいたかったので、
その要求をしているかのような比較ですが、
イエスのことを知っている人は
そのようにはとらないはずです。

イエスはやはり、
この4番目のことをハッキリさせたかったのですね。
罪のゆるしということです。
罪のゆるし、これは目に見えない霊的な真理です。

あなたは主イエスを信じて、
自分の罪が赦されたことがわかったでしょうか。
わかったと思います。
では、未信者の人に聞かれたとすれば、
どのようにわかったと言いますか。
何をもって、罪が赦されたことがわかった
と言いますか。
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「3人の話」

2025年04月15日 05時30分23秒 | ルカ福音書より

ルカ7章から前回の続きです。
自分の態度に対して批判的、
否定的な思いをもっている人に対して、
こんな風にたとえ話をされるイエスについて、
どう思われますか、
という問いで前回は終わりました。

自分に批判的な思いをもっている人に対して、
わたしはやはり、自分を守るような、
弁解するような言い方で対応するかもしれません。
「いや、わたしはこの人のことをあなたが
見ているようには見ていませんよ」と言えば、
やはり自分を守るような言い方ですね。

イエスの態度に対して、表向きは黙っていましたが、パリサイ人シモンは内心、
批判的な目で見ていました。
その心の中の思いに気づいてイエスは、
このたとえ話をしておられます。
余裕ですね。

7:41 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。
一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
7:42 彼らは返すことができなかったので、
金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。
それでは、二人のうちのどちらが、
金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、
イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。

このたとえ話は、
罪深い女のことではなく、ある金貸しのことでした。
そして、500デナリ借りた人と50デナリ借りた人の話でした。
パリサイ人シモンは、
罪深い女とその態度に黙っているイエス、
その2人のことを問題にしています。
ところが、イエスのたとえ話は、
2人の話ではなく3人の話です。
シモンはもうひとりのことを忘れていますね。
そのもうひとりとは誰のことでしょうか。
そうです。パリサイ人シモン自身のことです。
自分のことは横において、
人のことばかり言っている、
そういう経験はありませんか。
わたしはあります。

しかし、イエスは、
「あなたは自分のことは横において、
人のことばかり問題にしていますね」
とは言っておられません。
たとえ話をして、その後、質問をしておられます。
その質問にシモンは答えました。
そのシモンの答えに対してイエスは
「あなたの判断は正しい」と言われました。
シモンは正しい判断をしました。
イエスはそれをハッキリ認めています。

ここで、あなたやわたしが信じているイエスとは
どういう方だと思いますか。

では、シモンの何が問題だったのでしょうか。
シモンは、自分に関係のない話だと、
正しい判断ができるのです。
しかし、自分に関係のあることについては
正しい判断ができるとは限りません。
もっと言えば、人のことは見えていて
わかりやすいのですが、
自分の問題は見えていないのです。
更にもっと言えば、
シモンは自分の問題も見えていないし、
イエスのことも見えていませんでした。
イエスの金貸しのたとえ話の3人のことは
よくわかっても、自分のこと、イエスのこと、
こちら2人のことが見えていなかったのです。

ところで、
借りた借金が帳消しになるのと罪のゆるしとは
どういう面で共通するところがあるでしょうか。

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