前回の続きです。
質問、覚えていますか。
聖書の個所、わかりましたか。
「探してない。そんな時間ない。」と言われる方、
はい、その個所を知っているかどうかは、
信仰とはあまり関係ないかもしれません。
聖書の個所、わかりましたか。
「探してない。そんな時間ない。」と言われる方、
はい、その個所を知っているかどうかは、
信仰とはあまり関係ないかもしれません。
前回の聖書個所は、
ルカ10章の後半のところでしたね。
ルカ10章の後半のところでしたね。
お話の内容をひと言で言えば、
ふたりの姉妹がイエスさまに対して違った態度を
示しているところです。
ふたりの姉妹がイエスさまに対して違った態度を
示しているところです。
それがとても印象的なお話ですね。
まず、イエスはこの家にやって来られたのですが、
それはイエスがご自分から訪ねて来られた
のでしたか。
それはイエスがご自分から訪ねて来られた
のでしたか。
そうではないですね。
姉のマルタが、迎えに行っています。
ベタニアという村でしたが、
イエスはこのふたりの家には
よく来ておられたようです。
しかし、まだどこに行くのかを決めていない時に、
マルタに「ぜひうちへ来てください」
と招かれたのでしょうか。
イエスはこのふたりの家には
よく来ておられたようです。
しかし、まだどこに行くのかを決めていない時に、
マルタに「ぜひうちへ来てください」
と招かれたのでしょうか。
それとも何かの連絡をしていて、
そこに行くことが決まっていたので、
マルタは迎えに行ったのでしょうか。
そこに行くことが決まっていたので、
マルタは迎えに行ったのでしょうか。
(そんなこと、どちらでもよろしいでしょう。)
なぜ、こんな想像をしているのかというと、
理由があります。
理由があります。
この話の状況をイメージし、
その話の中にしっかり入って行くためです。
その話の中にしっかり入って行くためです。
さて、その後の話です。
イエスが(多分弟子たちも一緒だった)家に
入って来られた後、
マルタとマリヤの態度が対照的ですね。
ふたりは姉妹なのにその行動が別々です。
ふたりは一緒に台所に立っていませんでした。
ふたりは一緒にイエスの足元に
座っていませんでしたね。
入って来られた後、
マルタとマリヤの態度が対照的ですね。
ふたりは姉妹なのにその行動が別々です。
ふたりは一緒に台所に立っていませんでした。
ふたりは一緒にイエスの足元に
座っていませんでしたね。
この光景から、あなたは何を想像しますか。
(そんなこと、いちいち想像する必要あるのですか。)
この話の中に、あなたも入って来てもらうためです。
(また、それか。
聖書の学びにそんなことが必要なのですか。)
聖書の学びにそんなことが必要なのですか。)
わたしはそのことを大切だと思っています。
ひとりひとりが誰かに教えてもらってわかる
というよりも、
大切なことを自分で聖書から聞いていくためです。
というよりも、
大切なことを自分で聖書から聞いていくためです。
多くのクリスチャンは、
聖書は自分で読んでもわからないので、
専門的な勉強をしている人に解説してもらって、
わかるのだと思っていないでしょうか。
そういう場合もありますが、
すべてそうでしょうか。
聖書は自分で読んでもわからないので、
専門的な勉強をしている人に解説してもらって、
わかるのだと思っていないでしょうか。
そういう場合もありますが、
すべてそうでしょうか。
神さまは、そのように、
専門的な学びをした人から解説して
もらわなければわからないように、
聖書を書いておられるのでしょうか。
わたしはそうは思いません。
専門的な学びをした人から解説して
もらわなければわからないように、
聖書を書いておられるのでしょうか。
わたしはそうは思いません。
イエスが家に入って来られた後、
マルタは台所で忙しくしていました。
マリヤはイエスの足元に座って、
み言葉を聞いていました。
マルタは台所で忙しくしていました。
マリヤはイエスの足元に座って、
み言葉を聞いていました。
それで問題が起こったのですね。
台所で忙しくしていた姉のマルタは
「マリヤ、お姉さんはやることが一杯で、困っています。あなたもこちらに来て、助けてちょうだい」
と言いませんでしたね。
「マリヤ、お姉さんはやることが一杯で、困っています。あなたもこちらに来て、助けてちょうだい」
と言いませんでしたね。
彼女はその問題を誰のところにもっていきましたか。
なぜそうしたのでしょうか。
どう思いますか。
どう思いますか。
次回に続きます。





