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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「痛めつけられた人たち」

2020年11月27日 05時04分15秒 | 詩篇より

 

詩篇129:1~4

「彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた。」さあイスラエルは言え。

「彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし彼らは私に勝てなかった。

耕す者たちは私の背に鋤をあて長いあぜを作ったが。」

【主】は正しくあられ悪しき者の綱を断ち切られた。(新改訳2017)

 

自分たちを苦しめ、痛めつけてきた人たちがいるのです。

それも若い時から長い間、ずっとです。

 

こういう状況は、今日の若い人たちには、想像できないかもしれません。

今の時代は、外からのそのような外敵によって苦しめられるというよりも、

別の苦しみを経験している人たちが多いようです。

どちらかと言えば、外からではなく、内からです。

身近な人間関係などからです。

もっと言えば、いじめのようなものです。

 

先日、バイブルトークのグループの中で、自分は小学校から中学校にかけて、

ずっといじめられてきたと言っていた人がいます。それも何人もの人たちにです。

その結果、教会に行くことになったのでした。

そして、イエスさまを信じるようになって、そのいじめた人たちをひとりひとり全員を赦したことで、

心が解放されたという兄弟のあかしでした。

 

 この詩篇の著者は、自分たちを長い間苦しめてきた人たちに対して、

自分たちで対応したのではなく、主の正しい裁きにゆだねてきたようです。

しかし、自分たちを苦しめる彼らを主がこういう風にしてくださるようにという願いはしっかり語っています。

伸びないうちに枯れる屋根の草のようにしてください、などと言っています。(6節)

面白い言い方ですね。

結果として、悪しき者の綱は断ち切られたのです。

 

悪しき者が思い通り、勝手なことをしてきたが、

主は必ず義をもって支配される方であるという信仰に立っている人がここにいます。

 

 

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「そうでもないですよ」

2020年11月24日 05時27分18秒 | 詩篇より

 

詩篇128:1,2

いかに幸いなことか、主を畏れ、主の道に歩む人よ。

あなたの手が労して得たものはすべて、あなたの食べ物となる。

あなたはいかに幸いなことか、いかに恵まれていることか。

妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。

食卓を囲む子らは、オリーブの若木。

見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。(新共同訳)

 

幸せとは何でしょうか。どういう状態のことでしょうか。

今日、日本の社会に、自分は幸せなのか、本当の幸せとは何か、

という問いをもっている人たちは結構いるのではないでしょうか。

 

幸せ度で日本は世界の何位になるのでしょうか。

幸せ度が一番高い国がありましたね。どこでしたか。

 

一般に言われている幸せとは、どちらかと言えば、暮らしやすいということですね。

日本は世界のいろいろな国と比べて、どちらかと言えば、経済的には豊かな国と言われていますが、

幸せ度はどうなのでしょうか。

 

わたしたち日本人は、今も貧しい国の人たちに、言えるでしょうか。

「衣食が足りて、経済的に豊かになれば、人は皆幸せになれますよ」と。

今日の日本人も、世界の先進国の人たちもハッキリ言えることがあります。

「そうでもないですよ」と。

 

主を畏れ、主の道に歩む人は幸せであると、今日のみ言葉は言っています。

もう何千年も前の人の言葉ですから、今日は通用しないことであって、

「そうでもないですよ」と言う人はいるでしょうか。

 

本当の幸せを求めている人は、この言葉に耳を傾ける必要があります。

これを政治に求めるのか、経済に求めるのか、お金か、学歴なのか。

もちろん、それらはどうでもよいことではありません。

しかし、人間にとってもっと本質的なところで幸せな人、それは主を畏れ、その道に歩む人だと、

3000年も前の人が言っています。

今日、これまでの自分の人生を振り返ってみて、確かにそのとおりだと思う人は少なくないと思います。

わたしもそのひとりです。

 

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「むなしい」

2020年11月20日 05時05分35秒 | 詩篇より

 

詩篇127:1

主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。

主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。(口語訳)

 

まともによく読んでみると、すごいことが言われています。

普通は、この反対に思っている人の方が多いと思います。

わたしたちが頑張って家を建てるのでなければ、他の何かに頼るのはむなしい。

守るのは、わたしがしっかり守らなければ、神頼みするのはむなしいことだ、と。

人知を尽くして天命を待つ、この言葉も有名です。

ベストを尽くせば、後は心静かに運を天に任せる、ということですね。

人生の教訓として、これらも一理あります。

しかし、それに比べて、この詩篇の言葉はもっとラディカルです。

つまり、ついていけないような言葉です。

しかし、キリスト信仰者にとっては、そう言われればそうだと思える言葉です。

自分のこれまでの人生の歩みを振り返る時、そうだ、この言葉通りだと思えることがいろいろあります。

自分が頑張ったので、こういう結果が出たのだとは言えない、そういうことの方がはるかに多いと思いませんか。

この歳まで(つい先日82歳になりました)生きてこれたこともそうです。

主が生かしてくださるのでなければ、この年まで生きようと頑張るのはむなしいのです。

今も、この歳でいろいろなことができていることもそうです。

主がさせてくださるのでなければ、この歳になっていろいろなことをやろうとしてもむなしいのです。

わたしと比べて、まだまだお若い(であろう)あなたの場合はどうですか。

 

 

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「辛い時と、解放の時」

2020年11月17日 05時39分06秒 | 詩篇より

 

詩篇126:5,6

涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。

種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。(口語訳)

 

なぜ、種をまく人たちが涙を流しているのでしょうか。

過酷な労働のためでしょうか。

奴隷のようにこき使われているからでしょうか。

ところが、その同じ人たちが収穫の時は、束を携え、喜びの声をあげて帰って来るのです。

こんな時に、喜びの声をあげるのは奴隷ではないですね。

では、この人たちはなぜ涙を流しているのでしょうか。

何が悲しいのでしょうか。

これは種まきや収穫の話ではなく、主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られる時の話です。

そうだとすれば、捕囚として捕らえられていった人たちは、種のような大粒の涙を流しながら出て行ったのです。

そして、解放され帰って来る時、その姿は、大収穫の束を携えて帰って来る農夫たちの姿と重なっています。

その時はまだ到来していないとしても、このイメージは感動的ですね。

また、「主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください」(詩126:4)

とありますので、川の流れを見ながら、まだ見ていない回復と繁栄の姿を見ているのです。

辛い辛い過去を後にして、手放しで喜べる解放の時を迎える人たちのことです。

この地上人生において、このような経験をする人たちもいます。

しかし、キリスト信仰者たちは、あなたやわたしは、

大なり小なりこのような解放の喜びを何度も経験しながら、この人生を生きているのではないでしょうか。

わたしも自分の長い人生を振り返りながら、そのことを思い出します。

ちょうど、家内が先日、短い入院でしたが、退院してきました。

解放の時でした。ハレルヤ

 

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「動かされることなく」

2020年11月13日 05時15分37秒 | 詩篇より

 

詩篇125:1,2

主に信頼する者は、動かされることなくて、とこしえにあるシオンの山のようである。

山々がエルサレムを囲んでいるように、主は今からとこしえにその民を囲まれる。(口語訳)

 

エルサレムの町は、京都のように周囲が山に囲まれているような所ですね。

その自然の山の光景を見ながら、主がその民を囲んでいるという目に見えない霊的な真理を見ているのです。

目に見える自然を通して、目に見えない霊的な真理、真実を見る。これは信仰の目ですね。

シオンの山は目に見えます。主に信頼する者が動かされることがないのは信仰的、霊的な心の状態です。

イエス様も同じように、自然を見ていました。

野の花を見なさい、と言われ、そこに目に見えない天の父がどのような方なのかを見せています。

空の鳥を見なさい、と言われ、そこに父なる神がどのような方であるかを語っています。

見えるもののイメージから見えないものを見るという手法です。

聖書の中の多くのストーリーも同じように、目に見える物語のイメージで見えない霊的な真理が語られています。

 

普通、わたしやあなたが頼みとしているものはいろいろあります。

自分が身につけた経験からの知識、自分のそれなりの能力、身近の人の助け、支えてくれる人などなどです。

そういうものを全部含めて、そういうものをすべて超えて、この詩篇では、主に頼る人のことが言われています。

その人は、シオンの山のように動揺しない、揺らぐことのない人です。

主がご自分の民として、その人を囲んでくださるからです。

今だけのことではありません。

永遠に至るまでですから、すごいことですね。

そこまで、あなたやわたしを守ってくれるものが他にあるでしょうか。

では、具体的にはどのようにして主に寄り頼むのでしょうか。

この詩篇はHow Toものではないから、そういうことは書かれていません。

 

 

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