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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「聖書が分かる」

2022年01月28日 05時30分40秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

分かるところはしっかり受け取り、分からないところはそのままにして、

先へ進んでいく。

そのような読み方で、聖書を読むことは間違いではないですよね。

(間違いではなくても、何かスッキリしません)

 

聖書も普通の本と同じように「本」であることに変わりありません。

しかし、目に見えない、神、聖霊、人間の心の問題などを

語っている聖書を、普通の本と同じようには読めないのだということが

分かってきました。

(わたしはです)

 

普通の小説などは、人間の現実を鋭く、深く描いていて、

読者はそれに共感を覚え、感動することがあります。

 

それに比べて、聖書は人間の現実だけではなく、

神の現実をいろいろな表現や、言語で語っています。

(それで何を言いたいの)

 

聖書は聖霊によって書かれたと言っている意味が

少し分かってくる気がします。

ですから、読む側も聖書が分かっていくのは、実は、聖霊によるのです。

人の頭の良さ、賢さは素晴らしいことですが、

それだけで聖書は分からないのです。

(では、聖書の解説や注解書などはいらないのですか)

 

聖書の解説、注解書など、今日は聖書についての情報も

簡単に手に入れることが出来る時代です。

それはそれで必要です、大切です。

そのようにして聖書が分かることも素晴らしいですが、

聖書が分かるというのは、また「別のこと」があります。

(その「別のこと」の方がもっと難しいのではないのですか。

それは誰にでもはできない、もっと高度な聖書の読み方ではないのですか)

 

その「別のこと」を、今、ここでわたしたちは経験しています。

聖書が聖霊によって書かれたのであれば、

神さまは特別な賢い人にしか分からないように書いておられないと、

わたしは信じています。

 

前置き(?)が長くなりましたが、

この辺で、ローマ人への手紙7章に進みます。

自分探しの旅でしたね。

 

主イエスを信じているあなたやわたしは、どういう者でしょうか。

 

・死者の中からよみがえった方のものとなりました。(4節)

(これは1章にもありましたね)

・律法から解放されたわたしたちは、古い文字にはよらないで、新しい御霊によって仕えている者です。

(えっ、スゴイ。どういうこと?)

・肉的な者であり、罪の下にある者です。(14節)

・良いことをしたいという願いがあるのに、実行できない者です。(18節)

・したいと思う善を行わないで、したくない悪を行っている者です。(19節)
(なんだか、話がだいぶ違ってきました。また、暗い話ですね)

 

・からだには異なる律法があって、それが心の律法に挑戦し、

罪の律法のうちにとりこにされている者です。(23節)

(口語訳は、心の法則、罪の法則となっています)

 

・本当にみじめな人間です。(24節)

(えっ、誰のことですか)

 

パウロは自分のことを「惨めな人間」だと言っています。

確かに、彼は過去において、クリスチャンを迫害し、

酷いことをしていました。

今、そのことを振り返って、ひどく反省しているのでしょうか。

(いや、そうではないようです)

 

「私は本当にみじめな人間です」とは過去形ではなく、現在形です。

今の話ですね。

パウロが、そんなことを言うのであれば、

あなたやわたしはどうでしょうか。

昔のことではなく、今現在のことです。

 

神に愛され、義とされ、聖なる者とされていると言っていたのに、

これはまた、どういうことでしょうか。

(せっかく、恵まれていたのに、何か水をかけられたみたいです)

 

しかし、ここで落ち込まないでください。

それは、パウロやあなただけのことではないからです。

長くなりましたので、後は次回に続きます。

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「飛ばし読み」

2022年01月25日 05時32分02秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

ローマ6章からの「自分探し」の続きです。

主イエスを信じているあなたやわたしは、 どういう者でしょうか。

 

・かつては罪の奴隷でしたが、今は義の奴隷となりました。

(17、18節)

(口語訳では、罪の僕、義の僕で、その他の訳はみな、「奴隷」です)

 

・罪から解放されて、神の奴隷となりました。(22節)

(罪の奴隷は嫌ですが、神の奴隷はどうですか)

その行き着くところは永遠のいのちです。(22節)

(罪の奴隷であった時、その行き着く先はどこでしたか)

 

一応、6章はここまでです。

他にも自分が何者なのかを表している箇所があるかもしれません。

それを書き出すのは各自の自由です。

わたしの家内などは、「もっともっとある」とたくさん書き出しています。

 

自分探しをしながら、ローマ人への手紙6章まで来ましたが、

聖書が何か分かってきたように思いませんか。

何人かの人たちは、スゴイこの聖書はスゴイと、言っているのを

聞いています。

 

この同じところを前にも読んでいましたよね。

今回の読み方は少し違っていますが、同じ聖書です。

(今回の読み方は何が違うのでしょうか)

分かるところを拾い上げていく読み方をしています。

面白いですね。

 

(では、自分の気に入ったところだけを読んでいけばよいのですか)

 

あっ、それは少し違います。

自分の思いや今の気持ちに合ったみ言葉だけを拾い集めて、

気に入らないところは飛ばして読むというのではありません。

 

今、わたしたちは聖書の分からないところをいろいろと調べて、

分かろうとしているのではありません。

 

(それでも、分からないところをそのままにして、先へ行くことは

したくないです)

 

その気持ちはよく分かります。

分からないところを分かりたいと思うのは、普通のことです。

ですから、分かるところだけを確認していくというのは、

少し変わった読み方です。

これに抵抗がある人がいても、不思議ではありません。

 

目に見えない霊的な真理が分かっていくのは、分からないところが

ひとつひとつ分かって、そして次へ行くというのではないようです。

少し違います。

 

福音書が分かったから、次に「使徒の働き」、それが理解できると、

次はローマ人への手紙に進んで行くという風に聖書は書かれていません。

 

(ページの順番としてはそうなっています。

聖書には分からないところが沢山あっても、それでもただ読んでいます。

聖書通読は必要ではないのですか)

 

聖書通読も必要ですし、大切です。

そうして読んでいて、これでよいのかと思うことはありませんか。

わたしはあります。

 

今、ここでわたしたちがしていることは、

分からないところは飛ばして、自分とは何者なのかの、

分かるところだけを拾い出しています。


それである人たちはとても恵まれていると言っています。

不思議ですね。

どう思いますか。

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「ですから」

2022年01月21日 05時30分25秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

主イエスを信じているあなたやわたしがどういう者であるか、

ローマ人への手紙から、その自分探しをしています。

ご自分でだいぶ探されたでしょうか。

以下は、これまでに分かったことです。

主イエスを信じているあなたは、

 

召されて(神に呼ばれて)、イエス・キリストのものとなった者(1章)

神に愛され、召された聖徒(聖なる人)(1章)

罪を赦され、義とされた者(3章)

罪をおおわれ、主に罪を認められない者(4章)

十字架を通して、神の愛を知らされた者(5章)

神の怒りから救われる者(5章)

神を喜んでいる者(5章)

神と和解した者(5章)

キリストの死にあずかるバプテスマを受け、

キリストとともに葬られた者(6章)

キリストと共に十字架につけられた者(6章)

死んだ者として、罪から解放されている者(6章)

罪に対して死んだ者(6章)

神に対して生きている者(6章)

新しいいのちに歩むことができる者(6章)

罪の奴隷とならなくてすむ者(6章)

 

そしてローマ6章12節ですが、そこに「ですから」とあります。

この「ですから」が大切なキーワードです。

こうこうですから、こうこうしなさい、と続いています。

主イエスを信じているあなたやわたしがこうこうこういう者である

から、このようにしなさいと言われています。

ここがとても大切です。

 

なぜ大切かと言いますと、多くの場合、

この世の中とは反対だからです。

世の中の普通のこと、常識と思われていることと反対のことが

言われているために、わたしたちはここのところが分かりにくい

のです。

ピンとこないのです。

 

では、世の中と何がどう反対なのでしょうか。

それがハッキリしないと、聖書の言っていることもハッキリしません。

普通、世の中では、その人が何かが出来たことによってその人の評価が

上がります。

 

例えば、オリンピックの場合が分かりやすいですね。

銅メダルより銀メダル、銀メダルよりも金メダルです。

金メダルをとった人の方が、格が上です。

その人の評価が高くなります。

 

あるいはまた、いくら給料をもらっているか、

それによって人の価値評価がされることもあります。

 

つまり、どういうことが出来たか、出来なかったかで、

その人がどういう人であるかの人間としての価値が

判断されるということです。

 

これが普通のこと、当たり前のこととして、

その考えが頭にしっかり入り込んでいる場合、

聖書の言っていることがサッパリ分かりにくいのです。

この両方の考えを並べてみると、今まで見てきた聖書の

人間についての評価との違いがよく分かりますね。

 

あなたはこのような者として神に高く評価されているのですから、

「ですから」このような生き方をしなさい、それができるのです、

と聖書は言っています。

 

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、

からだの欲望に従ってはいけません。

また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。

むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、

また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。

(ローマ6:12,13新改訳2017)

次回に続きます。

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「新しいいのちに歩む者」

2022年01月18日 05時30分13秒 | ローマ人への手紙より「自分を知る」

 

主イエスを信じた者たちはどういう者なのか、

という自分探しをしています。

 

前回の暗い話が先になりましたが、お分かりですね。

やはり、暗い夜があって、日が昇ってくる朝がくるのです。

死があり、墓に葬られることがあっても、

それで終わりではありません。

 

6:2 決してそんなことはありません。

罪に対して死んだ私たちが、

どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。

 

6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。

キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、

その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、

キリストとともに葬られたのです。

それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって

死者の中からよみがえられたように、

私たちも、新しいいのちに歩むためです。

(ローマ6:2-4新改訳2017)

 

あなたは何歳の頃、洗礼、つまりバプテスマを受けましたか。

わたしは17歳の時でした。

着ていた水でぬれたものを家に持って帰り、

物干しさおに干していたのを思い出します。

また、次の日の月曜日に学校に行ったのですが、

友だちの皆が自分のことを振り返って見るのではないか、

などの心配は、全然する必要はなかったことが後で分かりました。

 

バプテスマを受けたからと言って、

何も外見が大きく変わるわけではなく、

内側が変わったということですが、

その変わり方について聖書はとても大げさな言い方をしているように

思いませんか。

ここにも目に見える現実ではなく、

目に見えない霊的な事実が語られています。

 

このバプテスマを受けたあなたやわたしは、

イエス・キリストにつく者となり、その死にあずかる者となり、

共に葬られたのです。

それで終わりではありません。

それには目的がありました。

そうです。

イエスが復活されたように、

わたしたちも「新しいいのち」に生きるためです。

つまり、死ぬことも、葬られることも、

新しい朝を迎えるように、新しいいのちに生きるためのステップ、

段階だったのです。

 

この新しいいのちも目に見えないために、

実感としても感じられないためか、それをもらっていても、

分からないということがあります。

聖書はただ、教えのための宗教書ではありません。

「いのち」のことを教え、説明しているだけではありません。

その「いのち」を得るための道を教えています。

その「いのち」がどういうものであるかを、

イエスを通して見せています。

 

目には見えませんが、命とは不思議なものです。

植物も動物も鳥や魚もすべて命を持っているので、

生きていますが、その命そのものは目には見えません。

しかし、動物の命と植物の命は、その現れによって

全く違うものであることは分かります。

そして、人間の命と神のいのちもまた、その現れによって

全く違うものです。

 

キリストにつくバプテスマを受けた者が

新しいいのちによって生きるようになるのは、

この神のいのちによって生きる者となるということですね。

スゴイことが言われていますが、あまりにもスゴイことなので、

ピンとこない人もいるかもしれません。

次回に続きます。

 

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「事業存続による高まる危機感」

2022年01月15日 14時15分28秒 | 資料紹介

コロナ感染の拡大の中、事業存続による高まる危機感がニュースと

なっています。

わたしたちの教会のあり方も問われている時です。


「グループ バイブルトーク支援」というフェイスブック・ページを

立ち上げました。

これからはじめようとしておられる方、

既にやっておられる方

のために、お役に立てればと思って記事を投稿しています。

お読みいただき、「コメント」や「いいね」を頂ければ、感謝です。

よろしくお願いします。

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