父親と兄息子の対話から見てきた。
ふたりを比較してみると、放蕩息子である弟息子のことについて見る見方、考え方、判断が全く違っているのだ。
父親は弟息子のことを死んでいたのに、生き返ったと言っている。
どういう意味でこんな言い方をしたのか。
ここに弟息子の存在そのものを大切に思っている父親の価値観が現れている。
物やお金のことに目が向けられていた兄息子にはまったく理解できない話である。
そして、今日も、この兄息子の言い分は多くの人に分かりやすいが、この父親の言っていることはなかなか分かりにくいのである。
ここから聖書の福音を語ることが出来るのではないか。
救われたクリスチャンであれば、自分のあかしをすることも可能である。
つまり、父親から離れて自分勝手な生活をしていた弟息子は父の目から見れば、死んでいたのである。
聖書の他の個所には、「罪の中に死んでいたあなたがた・・・」(コロサイ2:13)とある。
また、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エペソ2:1)
しかし、主イエスを信じる人たちは、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、
――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」
(エペソ2:5、6新共同訳)と言えるのだ。
イエスが放蕩息子のたとえ話をされたのは、誰に対してでしたか。
ここで兄のような人とは誰のことでしょうか。
ルカ15:1‐3
さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、
「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった・・・(口語訳)
とある。
この後、100匹の羊のうち1匹がなくなった話、そしてもう一つ、10枚の銀貨のうち1枚がなくなった女の話があり、
この「放蕩息子」の話と続いている。
ということで、この話は当時の宗教指導者たち、パリサイ人や律法学者たちに対して語られたものである。
ということは、この兄息子とは、ここに出てくる宗教指導者たちのことである。
イエスが罪びとや取税人たちと食事を共にしていることに対して、それを問題にし批判した人たちである。
「この人はなぜ、罪人たちを迎えて食事を一緒にするのか」
つまり、父なる神の心が分からないパリサイ人、律法学者たちであった。
そして、この兄タイプの人たちこそが、実はイエスを十字架に追いやっていった人たちである。
次回に続く。





