goo blog サービス終了のお知らせ 

浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「兄息子とは誰のことか」

2019年09月27日 06時28分18秒 | 聖書の真理発見

 

父親と兄息子の対話から見てきた。

ふたりを比較してみると、放蕩息子である弟息子のことについて見る見方、考え方、判断が全く違っているのだ。

 

父親は弟息子のことを死んでいたのに、生き返ったと言っている。

どういう意味でこんな言い方をしたのか。

ここに弟息子の存在そのものを大切に思っている父親の価値観が現れている。

物やお金のことに目が向けられていた兄息子にはまったく理解できない話である。

そして、今日も、この兄息子の言い分は多くの人に分かりやすいが、この父親の言っていることはなかなか分かりにくいのである。


ここから聖書の福音を語ることが出来るのではないか。

救われたクリスチャンであれば、自分のあかしをすることも可能である。

つまり、父親から離れて自分勝手な生活をしていた弟息子は父の目から見れば、死んでいたのである。

聖書の他の個所には、「罪の中に死んでいたあなたがた・・・」(コロサイ2:13)とある。

また、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エペソ2:1)

しかし、主イエスを信じる人たちは、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、

――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」

(エペソ2:5、6新共同訳)と言えるのだ。

 

イエスが放蕩息子のたとえ話をされたのは、誰に対してでしたか。

ここで兄のような人とは誰のことでしょうか。

 

ルカ15:1‐3

さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。

するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、

「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。

そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった・・・(口語訳)

とある。

 

この後、100匹の羊のうち1匹がなくなった話、そしてもう一つ、10枚の銀貨のうち1枚がなくなった女の話があり、

この「放蕩息子」の話と続いている。

ということで、この話は当時の宗教指導者たち、パリサイ人や律法学者たちに対して語られたものである。

ということは、この兄息子とは、ここに出てくる宗教指導者たちのことである。

イエスが罪びとや取税人たちと食事を共にしていることに対して、それを問題にし批判した人たちである。

「この人はなぜ、罪人たちを迎えて食事を一緒にするのか」

つまり、父なる神の心が分からないパリサイ人、律法学者たちであった。

そして、この兄タイプの人たちこそが、実はイエスを十字架に追いやっていった人たちである。

 

次回に続く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「価値観の対決」

2019年09月24日 06時30分14秒 | 聖書の真理発見

 

ルカ15章25~32節からのお話から学んでいます。

前回は、内容の確認をしてきました。

これからは、このお話からどういうことが教えられるかを見ていきます。

 

・弟息子のことで、ここに「あたりまえである」と言っている父親がいます。そして、その同じ弟息子のことで、「それはおかしい」と思っている兄がいます。

どちらの気持ちの方が分かりやすいですか。

 

そう聞かれれば、父親の言っている方ではなく、兄の言っている方が分かりやすい。

ということは、兄の言っていることの方が身近な現実に近いことを語っているからだ。

それに対して、父親の言っていることは、素晴らしいことではあるが、どちらかと言えば、分かりにくい。

現実には、こんな父親に出会ったこともないからだ。

 

・父親が、帰ってきた弟息子のことで祝宴を開くかどうかを兄息子と相談していれば、兄をこんなに怒らすこともなかったのではないかという意見もあります。

どう思いますか。

 

確かに、兄息子はここで、兄というその立場が無視されて、事が進められている。

父親は、兄もきっと同じように喜んでくれると思っていたからという見方もある。

兄息子の心のうちにあったものが明らかになるために父親は敢えて相談しなかったのではないか、という意見もある。

つまり、兄は真面目な人間であったが、父の心が分らなかった。そのことがハッキリするためである。

もっと言えば、兄のような真面目な働き者にも問題があることがハッキリするためであったという見方もある。

何事もよく話し合えば、分かり合えるはずである、とよく言われる。

この問題で、父と兄息子が時間をかけてしっかりと話し合うなら、お互いに分かり合えて、二人ともが満足出来る結論に達することが出来ただろうか。

ここで父親は、もちろん兄息子の言っていることはある程度理解できるはずである。

しかし、兄息子はいくら話し合っても、父親の言っていること、思っていることを、果たして理解できるだろうか。

事前の話し合いによっては、解決できる問題もあるが、兄息子には自分の人生経験から、強くはっきりした主張があっただけに、

ここでは父親の気持や思いはただ話し合いでは、兄息子には分かってもらえないのではないか。


・父は「この弟は死んでいたのに、生き返った」と言っています。一方、兄息子は「遊女と一緒になって、財産を食いつぶした」男だと言っています。

同じひとりの人に対して、このように見方が違うのはなぜでしょうか。

 

ひとりの人に対しての見方がこんなに大きく違っている。この開きは大きい。

兄息子の価値観は父の価値観と違っていた。物に対する価値観が強かった兄は、なぜ、こんな息子に肥えた子牛をほうるようなことをするのか。

財産を使い果たした息子ではないかと言っている。

物や財産ではなく、弟息子の存在そのものを大切に思っている父親の価値観と兄息子の価値観の対決が起こっている。

だから兄は父の心が理解できなかった。

この見方の違いは大きい。

そして、この対比によってお互いのことがよく分かるのだ。

 

・ここから弟息子が家を出ることを決めた理由が他にもあったと思えますか。


弟息子が家を出る前、兄弟の関係はあまりよくなかったかもしれない。

一生懸命に働く人はそうしない人を批判し、裁きやすい。

その結果、身近な人との関係を駄目にしてしまう。

兄と良い関係だったら、弟は家を出て行っただろうか。

働き者の兄のようにはなりたくないという思い。それも家を出る原因となったかもしれない。

大企業の社員に自殺者が多い、という話を聞いたことがある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「後半の話」

2019年09月20日 05時28分09秒 | 聖書の真理発見

 

人のことを妬んだり、赦せない思いをもったりするのは、どういう時だろうか。

それによってその人との関係が難しくなることもある。

日常生活の些細なことからでも起こりやすい問題である。

 

前回までのお話を覚えておられますか。

お父さんの相続財産を早々ともらって、遠くに旅立ち、その地で財産を散財してしまい、

お腹を空かして、哀れな姿で家に帰って来た息子の話だった。

その息子を、何一つお説教のようなことを言わずに、両手を広げて、喜び迎えてくれたのが父親だった。

そして、息子を歓迎する祝いの場がもうけられた。

「このお父さんは馬鹿だ。こんなことをして息子を甘やかすと、この子はまた同じことを繰り返すことになるのに・・・」と言った人がいる。

そこで、わたしも言った。

「実は、この後、このお父さんのことを馬鹿だと思った人が、この話に出てきますよ」

 

では、前回の続き、ルカ15章25~32節からのお話を見ていこう。

 

ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

僕は言った。

『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

しかし、兄は父親に言った。

『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。

それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上(財産)を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

すると、父親は言った。

『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(新共同訳)

 

文字から離れて、この話の情景を思い浮かべてください。紙芝居にすると、何枚の絵になるでしょうか。

上の文章を見ないで、以下の内容確認の質問に答えてみてください。

これは記憶力のテストではなく、このお話の光景をイメージしていただくためです。

 

・畑から帰って来た兄息子は家に入ろうとしなかったのですが、どうにして家の中で起こっていることが分かったのですか。

 

 ・怒って家に入ろうとしなかったこの兄は、では誰に対して怒っていたのでしょうか。


・兄は家に入ろうとしなかったのですが、その後、お父さんと話をしています。

兄がお父さんを外に呼び出したのですか。

 

・お父さんとの会話の中で、この兄は弟と自分を比べています。どういうことで比べていますか。

 

・普通のお父さんであれば、こういう場面では、兄に対してどういう対応をすると思いますか。


・その兄の態度に対して、この父はどういう対応をしていますか。

兄については2つのことを言っていますが、弟息子のことについては3つのことを言っています。一つでもあげて下さい。

 

次回に続く。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「このお話からの適用」

2019年09月17日 06時34分20秒 | 聖書の真理発見

 

ルカ15章11~24節のお話から学んでいます。

このお話は今のわたしたちにどのように適用されるでしょうか。

 

・放蕩息子はお父さんがまだ生きているうちに財産の分けまいをもらって、遠くに旅立っていきました。

今いる所から逃げ出したいと思ったことがありますか。どういう時でしたか。

 

・弟息子は、自分のやったことで、後悔の念から「もう息子の資格はありません」と言っていますが、何かのことで自分はもう・・・・の資格はないと思ったことはありませんか。

(・・・という中には、父親の資格、母親の資格、クリスチャンの資格などなど)


・お父さんの赦しの愛を身をもって思い知った弟息子でしたが、何かのことで誰かから赦してもらった経験がありますか。

どういう時でしたか。

 

・豚を飼う仕事から我に返って、父のもとへ帰る決断をした息子でしたが、あなたが教会に来ることになった動機は何でしたか。


・主イエスを信じる信仰を持ってから、神の愛とはどういうものかを体験しましたか。

その経験を話してもらってもよいですか。

  

父親に財産の分け前をもらって、「遠い国」へ旅立って行った弟息子。

父のもとから、自分から離れて行ったのだ。

この父親が父なる神であるとするなら、その「遠い国」とは、この世とも言える。弟息子はこの世に魅力を感じ、そこに自分の幸せがあると思ったのだ。

今日も、父のもとにいる神の子とされた人たちで、神の国よりもこの世の国の魅力に心を惹かれていくことがないだろうか。

そこに心を奪われ、多くのものを失ない、自分が神の子とされたアイデンティティも失ってしまうこともあるのだ。

放蕩息子は、財産を使い尽くしたことで、自分が父の息子であることの資格も失ったと思っていた。

しかし、それでどんなに惨めな思いをしたとしても、また、その動機がどうであったとしても、父のもとへ帰って行ったことは正解だったのだ。

 

次回からこの話の後半に入ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「悔い改めとは」

2019年09月13日 14時57分51秒 | 聖書の真理発見

 

ルカ15章11~24節のお話の続きです。

 ・ところで、遠い国へ行って、お金もすべて使い果たした弟息子は父のもとへ帰ってきた。確かに彼は悔い改めたと思うが、

どの時点で悔い改めたのだろうか。

豚を飼っている時、彼は我に返って、父のもとへ帰ろうと決めている。彼はこの時、悔い改めたのだろうか。

しかし、もし、この時、誰かが彼に食べていけるような安定した仕事を与えてくれたとすれば、彼はどうしただろうか。

父の家には食べ物があり余っている雇人がいる。だから、その雇人のひとりにしてもらおう、と彼は思ったのだ。その雇人にしてもらうためにも、

「わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました」と自分のやったことの罪を認めている。

少し悪い見方をすると、彼は雇人として家に入れてもらうために、このように言っているともとれる。

父の方から走り寄ってきて、抱きしめられ、新しい服、指輪、新しい履物をと言われた時、彼の心にはもっと自分の罪を悔い改めることになったの

ではないか。

つまり、父の無条件の赦しの愛に触れた時、結果として自分のやったことが本当に悪かったと自覚したのではないか。

つまり、豚を飼っている時から始まって、この人の悔い改めはプロセスでもある。

ここで気づくことは、聖書が言っている悔い改めとは、ただ、謝ったら赦してもらえるが、

謝らなければ赦されないというレベルのものとはだいぶ違うのだ。

 

・人間とはどういう者か。

弟息子に見る人間とは、先のこと、将来が見えているように思っても実際は見えていない者である。

人はどこか、神から与えられている何かを無駄にしているところがある。

行き詰まった放蕩息子のように、最終的には、自分のことを自分でどうすることも出来ない者である。

自己中心、自分勝手なところがり、自分のやったことで、責任が取れないまま自業自得になることもあるし、そのことで、あとあと後悔することがあ

る。

困難、苦難に直面することで、神に立ち返ることもあるが、その動機は必ずしも純粋とは限らない場合もある。

お金は生活に必要ではあるが、沢山あるからと言って、幸せになるとは限らない。

人を自分の何かのために利用することはあっても、自分を犠牲にしてまで人を助けることはしないのが普通である。

 

・神とはどういう方か。

このお話の父親が神を表すとすれば・・・

自分の間違いを認めて帰って来る人に対して寛容であり、喜びを現す方である。

人が放蕩することも知っておられ、その結果どうなるのかも分かっていても、お金を渡している。しかし、愛の神であったが、放蕩息子を探しに行

くことはしておられない。

本人が自分で気づくまで待っている。

管理教育はしていないし、コントロールもしていない。

息子がこんなことをしたからといって、子育てが悪かったのだと、父親としてのご自分を責めておられない。

弟息子を愛をもって受け入れるには、弟が失った財産の他に、更に多くの犠牲を払わなければならなかった。

新しい服、指輪、履物、肥えた子牛など惜しみない犠牲を払っている。ここに父なる神の価値観がある。この犠牲の愛こそ、

最終的にイエスの十字架に現されたのだ。

 

この話はイエスのたとえ話である。ということは、イエスほど父なる神のことをよく知っておられる人は、他にはいないのだ。

イエス以外のどんな人も、父なる神についてこのように語ることは出来ない。

また、イエスほど、人間のことをよく知っておられる方は、他にいないとも言える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする