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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「二つのタイプ」

2018年02月17日 07時46分57秒 | 聖書の真理発見

 聖書を読んでいて気づくことがあります。

聖書の中には、ふたつのものが対比されて語られていることが多いということです。

放蕩息子とその兄、パリサイ人と取税人、マルタとマリヤ、光と闇、裁きと赦し、などなどです。

これらの対比によって、何かがはっきりしてくるわけです。

 ヘブル10:39
しかし、わたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、
信仰に立って、いのちを得る者である。(口語訳)

 

滅びる者といのちを得る者と二つのタイプの人が対比されています。

人間をこのように分けるのは差別だと言われるかもしれません。

わたしたちは人を差別したくありません。

しかし、神の言葉によれば、滅びる者といのちを得る者と分けられています。

 

この短いみ言葉の中で、もうひとつ、二つの対比があります。

信仰を捨てる者と信仰に立つ者です。

どういう場合に信仰を捨てるのでしょうか。

信仰を捨てる人は、意識的ではなく、何か他のことに心を奪われて、知らないうちに捨ててしまっているのかもしれません。

反対に、信仰に立つ人は自然にそうなるというよりも、意識的にそうしている人です。

 

わたし自身も、何かの場合に、これは信仰を捨てているのか、それとも信仰に立とうとしているのか、と問わなければならないことがあります。

 

直面している問題のために主の前に出て、正直な自分の心や思いを打ち明け、祈って、約束のみ言葉をもらうか、主から語られるみ言葉を受取るか、あるいはすべてを主のみ手にゆだねるかによって、ああ信仰に立って、いのちを得るとはこういうことかと、分からせていただきたいと思っています。

 

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「問われている」

2018年02月14日 07時37分08秒 | 資料紹介

 前回の続きです。

「人生に意味を問うてはいけない。
人生からの問いかけにどう答えるのかが大切なのだ」

ナチスの強制収容所という過酷な境遇を生き抜いたユダヤ人、フランクルのこの言葉をプロボクサーの村田選手を通して知らされました。

この言葉について考え、思いめぐらしているとき、次の聖書の言葉を思い出しました。

「心を尽くして、主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。
すべての道で主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5,6)

人生からの問いに答えるとは、今のわたしの場合、すべての道で主を認めることです。

ですから、いろいろなことが起こる日々の生活の中で、すべての道で、お前は主を認めているのか、それとも主を無視しているのか、と問われていると思います。

何でこんなことが起こるのかというのは、意味を求めているわけです。

それに対して、今起こっているこのことは自分に何を語りかけているのかと問うことは、わたしにとっては主を認めることになります。

言い換えれば、主イエスから問われているのです。

上記の箴言のみ言葉によればです。

主イエスを信じている者としては、村田選手の言葉を借りれば、後者の方がはるかにポジティブな生き方になると思います。
そして、主は道をまっすぐにしてくださいます。

 

あなたの今置かれている状況は、あなたに何を問うていると思いますか。

何でこんなことになったのか、どうしてこんな問題が起こったのか、誰のせいか、誰が悪いのか、などと問うていくではなく、今のあなたの、その問題からあなたは何を問われていると思いますか。

そのことで、主はあなたに何を問うていると思いますか。

 

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「人生からの問いかけ」

2018年02月11日 06時11分25秒 | 資料紹介

 WBC世界ミドル級王者となった村田諒太選手の話の続きです。

村田選手は、昨年の5月の試合で判定負けで敗れたのですが、10月に再試合となりました。その数か月の間、葛藤の中を通る彼の心を支えてくれたのが「夜と霧」の著者である精神科医のフランクルという人の言葉だったと言います。

「人生に意味を問うてはいけない。
人生からの問いかけにどう答えるのかが大切なのだ」

ナチスの強制収容所という過酷な境遇を生き抜いたユダヤ人であっただけに、このフランクルの言葉はとても意味深いですね。

 

わたしは若い時に、人生、何でこんなことがあるのか、と意味を問うてきました。その結果、イエス・キリストに出会って、救われたとも言えます。

それはそれで感謝なのですが、わたしの中には、どこか何のためにこんなことをするのかとか、自分にとってあまり意味のないことはしたくないという思いがありました。

そこには一貫して自分のためにという思いがあります。自分のためになるのかならないのかという思いです。

そういう意味で、わたしは人生に意味を問うていたわけです。

そして、その分だけ、その出来事が自分に問いかけている、その問いかけには応えようとしていなかったことになります。

 けれども、試合で敗北を味わって立ち直った村田選手のような経験はありませんが、高齢者となった今、この人生を振り返ってみると、自分に問いかけていた出来事がいろいろあったように思います。

日々の生活の中で起こってくる些細なことから、突然襲ってきた突発的な出来事までのいろいろなことに対して自分はどう答えるのかが問われていたわけです。そして、何のためにこんな思いをしなければならないのかと、その意味を問う思いよりも、それなりにその問いに応えてきたことも多かったと思います。

ああ、そういうことなのかと、このフランクルの言葉は分かる気がします。

あなたの場合はどうですか。

このことから思い出された聖書のみ言葉を次回に紹介します。

 

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「WBC世界ミドル級王者」

2018年02月08日 06時05分44秒 | 資料紹介

 先日、途中からでしたがNHKドキュメンタリーで見た話です。

この人は、プロボクサーとして昨年の5月に当時のWBC世界チャンピオンと対戦し、負けました。
ところが、それは「疑惑の判定」とも言われ、問題になり、10月に再試合となりました。
その結果、彼は見事、チャンピオンの座を手に入れました。

ご存知の人も多いと思いますが、その人の名は村田諒太。

 

そして、わたしがとても興味深く思ったのは、次のことです。

5月に敗北した後、再試合となる10月までの間、いろいろ葛藤の中を通るのですが、その村田選手を支えたのが、読書家のお父さんだというのです。

そのお父さんが勧めたのが下記の本であり、その中の言葉でした。

フランクル(精神科医)著「夜と霧」

「人生に意味を問うてはいけない。

人生からの問いかけに

どう答えるのかが大切なのだ」

 

わたしはボクシングの試合などあまり見たことはないのですが、NHKのアナウンサーの問いかけに答えていた彼の言葉に驚きました。

 

村田選手:だから、不幸なことがあったりとか、納得のいかないことがあって、何でこうなるんだって人生に対して文句を言ってもしょうがない。

じゃあ、僕が「判定おかしいだろう、俺勝ってたよ」って、思ってもないのに例えばそう言うとするじゃないですか。

それが、人生からの問いかけに対しての最良の答えかというとそうではなくて、人生に対しての最良の答えは何なんだろうと、それを常に探していく。

それって、すごくポジティブな考え方だと思いますし、ある意味では、無駄にポジティブになり過ぎない現実的な考え方でもありますよね。そういう考え方ができるから多分、今落ち着けているっていうところはあると思います。


本からもらったものだったり、父親からもらったものっていうのは、そういうふうなことを少しずつさせてくれているのかなと思いますし、だから改めて、父親が僕の父親でよかったなというふうには思うばかりですね。

 

どう思いますか。

これに対して、わたしがどう思ったかを次回に書かせていただきます。

 

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「なくなっていく人生の現実」

2018年02月05日 06時30分11秒 | 聖書の真理発見

 

もう一つ最後に、「カナの婚礼」のストーリーから教えられることがあります。

これが最後です。

カナの婚礼の場でぶどう酒がなくなったのですが、その理由は定かではありません。

準備していた側に手違いがあったのか。

結婚したふたりの家庭があまり裕福ではなかったのか。

その場に大酒飲みの人がいたのか。

いずれにしても、想定外のことでした。

 

婚礼の場で「ぶどう酒がなくなった」というのですが、人生にはそのような想定外のことが付き物です。

わたしの場合、若いころの体力や記憶力はなくっていっています。

親しくしていた、いろいろな人との人間関係もなくなっています。

増えているのは白髪としわくらいです。

これは想定外ではありませんが、この年齢になってみなければ実感がもてないことです。

寂しいことを言いますね。

しかし、本当のことです。現実です。

年齢の数は増えていっても、いろいろとなくなっていくものを実感しながら、日々私たちは生活しています。

 

しかし、希望があります。

イエスがそのカナの婚礼の場に迎えられていたので、ぶどう酒がなくなったという状況は一変しました。

なくなっていく人生の現実のただ中にあっても、そこに主イエスが迎えられているなら、その人には希望があります。

この「カナの婚礼」のストーリーには、このメッセージも語られていると思いませんか。

あなたはイエスに出会い、イエスを自分の人生の現実に迎えていますか。

 

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