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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「いつまで」

2021年04月30日 05時35分10秒 | 詩篇より

 

詩篇13篇に入ります。

150篇ある詩篇の、まだ13篇です。

主のみ言葉に心と思いを向けていく人、その人に主も目を留め、心を向け、

大切に思ってくださると、わたしは信じています。

 

詩篇13:1-3

(指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。)

いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。

いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。

いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。

いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。(新共同訳)

 

ここに「いつまで」という言葉が4回も出てきます。

つまり、こんな状態がいつまで続くのか。

先が見えないのです。

暗いトンネルの中を車で走っていて、向こうに出口が見えないと不安ですね。

お先真っ暗という感じですが、経験ありますか。

わたしの人生を振り返っても、そういう時が何度かあったように思います。

あなたはどうですか。

いつまでこんな状態が続くのかと思ったことはありませんか。

 

この時、ダビデは、主との関係の中で「いつまで」と聞いています。

主が自分のことをいつまで忘れておられるのかと聞いています。

そしてまた、いつまで心に痛みや悲しい思いを持ち続けなければならないのか

と聞いています。

更にまた、人間関係で敵意を持つ人のことで「いつまで」と聞いています。

自分に敵意をもつ人の方がいい顔を見せている、

それは何時までなのですかと聞いています。

 

そうですね。

何か問題が起こる時、それはこの3つのことに関係してきます。

何もしてくれないように思える主なる神のこと、

いつまで痛みや悲しい思いをしなければならないのかという

自分の心の状態のこと、

そして周りにいる自分に良い顔をしてくれない人たちのことです。

 

いつまでこんな状態が続くのかと思える中で、

ダビデはひとり自問自答しているのではありません。

ひとりで心の中であれこれと思い煩っているのではありません。

後半は次回に続きます。

 

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「炉で練り清めた銀」

2021年04月27日 05時44分19秒 | 詩篇より

 

詩篇12:6~9

 12:6 主は言われます。

「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、

彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」

12:7 主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。

 12:8 主よ、あなたはその仰せを守り、

この代からとこしえに至るまでわたしたちを見守ってくださいます。

12:9 主に逆らう者は勝手にふるまいます、

人の子らの中に卑しむべきことがもてはやされるこのとき。(新共同訳)

 

ダビデは舌によって力を振るっている人たちを裁いてください、

と祈っているのですが、主はここで別のことを言っておられます。

主の裁きは、まず、苦しい思いをしている人、虐げられている人たち、

呻いている貧しい人たちの救いに向けられる、と言われるのです。

これは主の裁きのもう一つの面ですね。

 

主なる神とはどのような方なのか。

それは、その語られるみ言葉から分かります。

主の言葉に不純なものはない、つまりうそ、偽り、まどかし、

ハッタリのようなものはないのです。

それは、炉で7回も練り清めた銀のように清いみ言葉です。

銀は当時の通貨貨幣でした。今日の金と同様に価値ある銀でした。

 

そのような清い主の言葉に対して、二心をもって語る言葉、

なめらかな舌で語る人間の言葉が対比されていることに気づきますね。

わたしたちは自分の言った言葉をすぐに忘れてしまうことがありますが、

主なる神はご自身の言ったみ言葉を忘れずに守られる方です。

その主はまた、わたしたちのことも見守ってくださる方です。

 

このような主に寄り頼もうとせず、どこか目に見える人に期待し、

頼ろうとするところがわたしにもあります。

イスラエルの民もそうでした。

だから、意識的に主のみ言葉に耳を傾けなければなりません。

 

12篇の最後の9節にも現実の人間世界のことが語られています。

人々の間に、「卑しむべきこと」がもてはやされる時があります。

今日も、日本の社会で、そういうことに気づくことはありませんか。

ストレス解消のためなら、そういうこともよいのではないか、

という意見もあります。

主に逆らう者たちの勝手な振る舞いですが、

それに影響される人たちも少なくありません。

どう思いますか。

 

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「過激な祈り」

2021年04月23日 05時38分17秒 | 詩篇より

 

詩篇12篇にはいります。

9節までですが、ここも2つに分けています。

 

詩篇12:1~5

(指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。)

主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え、

人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。

人は友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心をもって話します。

主よ、すべて滅ぼしてください、滑らかな唇と威張って語る舌を。

彼らは言います。

「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」

(新共同訳)

 

「主の慈しみに生きる人」とはまた、「信仰のある人」です。

自分の周りからそういう人たちがいなくなったのです。

それまでは大勢いたようです。

このような時、ダビデはどういう思いをしたのでしょうか。

自分と同じような信仰のある人が周りに増えていってほしいはずです。

反対に、あの人も、この人も主から離れて、信仰を捨てていったのです。

こんな時、主の慈しみに生きる人にとっては、何とも悲しく、

自分の信仰も試される思いではないでしょうか。

信仰のある人たちはいなくなったと言っていますが、

それはこの「友に向かって偽りを言っている人」のことではないのかと想像します。

「二心をもって話す」とは、わたしたちの言い方では、

「本音と建て前を使い分ける」ことも、それに入るのでしょうか。

 

「なめらかな唇」をもって話す人を知っていますか。

歯切れよく、説得力もある話には誰もが心ひかれます。

たとえ嘘を言っていても、その歯切れのよい話しぶりからは、

そうは思いたくないので、信じてしまうわけです。

 

この後、ダビデは過激なことを言っています。

ここでも彼は「なめらかな唇と威張って語る舌」をもつ人たちのことを、

ただ心の中で批判し、裁いているのではありません。

その人たちのことをそのまま、主に訴え、主の裁きを求めて祈っています。

 

ダビデの時代は、テレビやツイッターなどはなかったのですが、

それでも「舌をもって力を振るおう」とする人たちがいたのです。

人に影響を与えるのは舌の力であることは、今の時代でも同じです。

言論の自由が保障されている国では、自分のために自由に発言することは

許されています。

人に指図されるのではなく、自分の思いを自由に言えるのであって、

人からあれこれ言われる筋はないのでしょう。

つまり、「わたしたちには主人などはいない」というわけです。

 

そのような人たちのことを、ダビデは主が滅ぼしてくださることを

求めています。

これは信仰の人ダビデとしては、やや過激な祈りでしょうか。

次回、後半に続きます。

 

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「そのまぶたは」

2021年04月20日 05時32分21秒 | 詩篇より

 

詩篇11篇の後半です。

 

詩篇11:4-7

主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。

御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。

主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み

逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。

主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に

向けてくださる。(新共同訳)


人には、主はおられないように思える中で、主はおられます。

目に見えない聖なる宮におられるのです。

主は天に御座を置かれます。

天にある主の御座は王座であり、またそれは裁きの座でもあります。

その裁きの御座から、主は人の子らを見渡し、調べられます。

「そのまぶたは人の子らを調べる」とあります。

主の目のまぶたのことです。

目がまばたきをする時、まぶたが動きます。

地上にいる人の子らを調べておられる、その様子が細かい表現で

語られており、主のみ顔の表情がイメージされるほどですね。

主が調べられる人の子らの中には、主に従う人(義とされた人)、

不法を愛する人(暴虐を好む者)、主に逆らう人(悪しき者)、

心のまっすぐな人(直ぐな人、直き人)などがいます。

その人たちに対して見えない主の裁きと救いの御業とが現されます。

ここでは2種類の人たちが出てきます。

言い換えれば、神に義とされた人とそうではない人です。

普通一般に人は、良い人、悪い人、普通の人と3種類に分けられる

こともあります。

しかし、この詩篇では、主の目は2種類に分けて見ておられるようです。

 

悪しき者に対する厳しい裁きに対して、義とされた者、心のまっすぐな人に

対しては恵みのわざをもって対応されます。

一方には主の憎しみと怒り、もう一方には主の恵みによる救いです。

 

この主なる神のご性質は、イエス・キリストの十字架に表されています。

主イエスは、罪ある者として神の怒りの裁きを受けられ、

もう一方において、信じる者にとっては神の小羊として罪の贖いとも

なられたのです。

イエスの十字架に裁きと救いの両面があるのは、

主なる神に怒りの裁きと恵みによる救いの両面があるからです。

 

次回は、12篇に進みます。

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「避難所」

2021年04月16日 05時20分38秒 | 詩篇より

 

11篇は7節までの短いところですが、2回に分けています。

詩篇11:1~3

11:1 (指揮者によって。ダビデの詩。)

主を、わたしは避けどころとしている。

どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか、

「鳥のように山へ逃れよ。

11:2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、

闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。

11:3 世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか」と。

(新共同訳)

 

わたしは主を避け所、避難所としている、とひと言、簡潔に言っているダビデ。

問題も何もない時にではなく、苦しみ、困難に直面している中で、

このようにひと言ハッキリ言える人は多くないと思います。

また、問題や苦悩の中にいる時、いろいろと助言やアドバイスをしてくれる

人もいます。

「鳥のように山に逃れよ」というのは、困難な現実に直面し、

そのことから判断し、反応するのであって、そのような人間的なアドバイスも

必要な場合があります。

 

しかし、主を避難所としている人から見ると、それは問題の解決にならず、

恐れや不安はさらに増幅してくることもあります。

「世の秩序が覆っているのに・・・」は、他の訳では、「拠り所が壊されたら」

「基が取りこわされるなら」となっています。

足もと、立っている所が壊されているのに、神に従う人(神に義とされた人)に

何ができるのかという問いかけです。

言い換えれば、目に見える現実がこんな酷いことになっているのに、

信仰、信仰と言っている人たちに何ができるのか、という問いです。

主を避難所としている人たちは、他の人からは分かってもらえない、

そういう経験を通されます。

 

それでもダビデは、その人たちの言葉以上に見えない主に目を向けています。

主なる神は見えない、感じられない、いないのではないかと思えるような状況

で、ダビデはその主についての信仰の告白をしています。

その4節以下は次回に続きます。

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