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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「永遠を思う思い」

2022年12月30日 05時30分32秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

今年2022年の最後の投稿となりました。

1年が終わり、また新しい年を迎えようとしています。

時の流れ、時間の経過していく中に、あなたもわたしもこの人生を

生きています。

そして、その流れをさかのぼり、過去に帰って行くことは二度と

できません。

また、願っても願わなくても、明日に向かって前に進んで

行かなければなりません。

 

子どもの頃は、早く大きくなりたいと思っていました。

「早く、こいこいお正月」のように、まだかまだかという感じ

でした。

 

しかし、今、80代も半ば近くとなったこの時、

早く来てほしくないという思いです。

早く過ぎ去っていく時の流れを実感する年末年始です。

 

「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、

久しくとどまりたるためしなし。」

これは聖書のみ言葉ではありませんが、

鎌倉時代に鴨長明という人が書いた「方丈記」からの

有名な一節です。

 

過ぎ去った過去にUターンは許されず、明日からの日々は

未知の領域で、今日という日を生きていくという

あなたやわたしです。

 

しかし、思うことがあります。

このように、はかなく過ぎていく時間の流れに生きているからこそ、

人は心のどこかに時間を超えた不変で永遠の何かを求める

のではないでしょうか。

 

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。

それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで

見きわめることはできない。」(伝道の書3:11口語訳)

 

そうです。永遠を思う思いです。

 

このブログにいつも目を通してくださる皆さんがおられて

(お顔の分からない方も多くおられると思いますが)、

私もまた、この記事の発信を続けていくことが出来ています。

いつまで続けられるか分かりませんが、

主のあわれみによって続けさせていただけるだけ続けていきたい

と思っています。

主にあって良いお年をお迎えください。

 

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「神のいのちに」

2022年12月27日 05時30分24秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

今年もわずかとなりました。

毎回、このみ言葉の黙想メールを読んで頂き感謝しています。

続けて、ローマ人への手紙からイエス・キリストとはどういう方か

を見て、そのみ言葉から祈っていくことを続けていきます。

 

「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が

不義に定められたのと同様に、

一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、

いのちを与えられます。

すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が

罪人とされたのと同様に、

一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。」(5: 18-19)

 

祈り

「父なる神さま、わたしがイエスさまを信じたことによって、

どんなに大きな恵みを頂いているかを覚えて感謝します。

 

わたしがすべての罪を赦され、義とされた者としてあなたの前に

立てるのは、イエスさまの十字架の犠牲という義の行為のおかげ

あり、父なる神さまへの従順のおかげです。

 

また、それだけではなく、いのちを与えられていることを

感謝します。

そのいのちは目に見えませんが、愛や喜びや平安として表わされる

あなたのいのちです。また、あなたとの交わりや関係をもてる

永遠のいのちです。

 

主よ、わたしの肉体の命には限界がありますが、

どうぞこのいのちに生き、このいのちがどのようなものであるか、

更にわたしの目を開いてください。」

 

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「この上もなく喜んだ」

2022年12月23日 05時30分54秒 | クリスマス・ストーリー

 

「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。

すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、

彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、

その上にとどまった。

その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

(マタイ2:9,10新改訳2017)

 

東方の博士たちは、特別な星を見てユダヤ人の王が生まれた

ことを知り、はるばる長旅をして、ユダヤの首都エルサレムに

やって来ました。

そして、そのあたりにいる人たちに誰彼となく、

「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにおられますか。

わたしたちはその方を拝みに来ました。」と聞いて回ったようです。

 

その話が人々の間にうわさとして広がったのか、

当時のヘロデ王の耳にも入ったことで、王は

「これは聞き捨てならない話だ」と不安に思い、

祭司長、律法学者たちに「キリストはどこに生まれるのか」と聞き、

それはユダヤのベツレヘムという町であることを知りました。

 

そこで、人に分からないように密かに博士たちを呼び寄せ、

その町の名を教え、

「見つかったら教えてくれ。後で拝みに行くから」と言いました。

もちろん、ヘロデ王は東方の博士たちに親切心からそうした

のではないこと、また自分も拝みに行くと言ったのは嘘であった

ことが後の記事からも分かります。

そうであったとしても、博士たちに町の名前を教えてくれたのは

ヘロデ王であったことは間違いありません。

 

町の名前を教えてくれた王の魂胆が何であったかを知らないまま、

博士たちが「ベツレヘムと言っても広い町だ、どのあたりだろうか」

と思いながら、そちらに向かうと、あの星がまた現れ、

何と彼らを幼子のいる所まで導いたのです。

そして、その星があるところで止まった時、

長い旅を続けてきた博士たちは、「ここなのだ」とこの上もなく

喜びました。

 

彼らのこの喜びはいったいどこから来たのでしょうか。

 

最近グループで、このお話の個所を一緒に学んだ時、

ここで一番教えられることは何ですか、という質問に答えて、

何人もの人たちがこの博士たちが喜んだ、

その喜びを自分たちも経験していると答えてくれました。

 

そうですね。その同じ喜びを主イエスを信じている人たちも味わい、

経験しているのですね。

その喜びとはどういう喜びでしょうか。

他の喜びとは何がどう違うのでしょうか。

 

その喜びとは、主イエスと出会ったという喜びです。

誰かと再会した時の喜びと似ているかもしれません。

説明しても分かってもらいにくい喜びですが、

わたしたちクリスチャンは説明出来なくても、

この喜びをクリスマス・ストーリーと合わせて、

あかしすることは出来ます。


「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、

あなたがたに伝える。

きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。

このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2:10-11口語訳)

 

 

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「居場所がなかった」

2022年12月20日 05時30分45秒 | クリスマス・ストーリー

 

今年も、クリスマスのシーズンに入っています。

年を取ると、時間の過ぎていくのがますます早く感じられます。

アッ、また同じようなことを言いました。

 

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、

男子の初子を産んだ。

それで、布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。

宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

(ルカ2:6.7新改訳2017)

 

何度も何度も読んできた個所ですが、今年、クリスマス・ストーリー

の中から、わたしにはこの個所が新しく語られているように

思います。

 

わたしたち夫婦は今年、11年ほど住んでいた大阪の枚方市から

滋賀県の草津に引っ越しをしました。高齢引っ越しでした。

新しく住む場所を見つけるために、いろいろとネットで調べ、

また、その場所に足を運んだ結果、やっと決まった所でした。

今は、この老後の居場所を与えられたことをとても感謝しています。

 

ところで、イエスさまの出産の時、マリヤとヨセフの両親は

その居場所がなかなか見つからなかったようです。

やっと見つかったのが家畜小屋でした。

最初のクリスマスとも言える、この光景は劇でも有名なところ

ですが、しかし、よくよく想像してみると、これはとても

さびしい光景です。

 

先日の牧師たちのバイブルトークの時、ひとりの方が、若い頃、

皆がクリスマスを楽しんでいる時、ひとりさびしくカップラーメンを

食べていたという話をされました。

わたしはその時、あっ、そうだ、第1回目のクリスマスも

とてもさびしいクリスマスだったのだと思いました。

 

今も昔も多くの人たちは楽しいクリスマスを求めています。

しかし、神の子、イエス・キリストは飼葉桶という

さびしいところに、この地上人生をスタートされました。

何故でしょうか。

ここに何か意味があるのでしょうか。

 

幼子イエスは、さびしい思いをしている人たちの、

その立場に身を置かれたのです。

貧しい人たち、人に無視されている人たち、

自分の居場所がない人たち、そういう人たちの立場に身を置かれ、

そういう人たちに何かのメッセージを発信しておられるように

思います。

 

「イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある

が、人の子には枕するところもありません。』」

(マタイ8:20新改訳2017)

 

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「死の支配、いのちの支配」

2022年12月16日 05時30分15秒 | ローマ人への手紙より「キリストを知る」

 

続けて、ローマ人への手紙からイエス・キリストとはどういう方かを見て、

そのみ言葉から祈ることを学んでいます。

 

・「しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。

もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、

一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、

多くの人に満ちあふれるのです。」(5:15)

 

祈り

「父なる神さま、アダムの罪によって、その結果多くの人に死が

入ってきました。

これは誰もが経験している厳粛な事実です。

今も、ひとりの人のひどい言動によって、その結果、

多くの人に悪影響を及ぼすという、そのようなことが起こっています。


それに対して、ひとりの人イエスさまの恵みによる賜物は

多くの人に満ちあふれるばかりとなりました。

わたしもその恵みの賜物にあずかっています。

この賜物、罪の赦しの救いはあなたの恵みとあわれみ以外のものでは

ありません。

あなたの恵みを覚えて、感謝します。」

 

・「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、

なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、

一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配する

ようになるのです。」(5:17)

 

祈り

「父なる神さま、このみ言葉から死の支配といのちの支配とがある

ことを教えられます。

確かに、人間はすべて死の支配に対して無力です。

どんな人も死の支配から逃れることはできません。

しかし、このみ言葉によれば、その死の支配をはるかに上回る

イエスさまのいのちによって支配するようになる、

そういう者とされていることを感謝します。

それはわたしが主イエスを信じて、そのつながり、その主との関係によって

恵みと義の賜物を受けているからです。

あふれるばかりにです。

ハレルヤ、主よ、感謝します。」

 

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