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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「人が赦される根拠は」

2018年08月31日 06時45分51秒 | 聖書の真理発見

 なぜ、クリスチャンは自分を責めやすくなり、人を責めやすくなるのでしょうか。

責める人は、自分や人を赦せない、受け入れられない人です。

 

主なる神はわたしたちのことを赦してくださったのですが、しかし、それでも自分のことを赦せないでいる人たちはいませんか。

一般的にまじめな人ほど、自分に厳しく、また人にも厳しくなります。

 

エペソ4:26、27  
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。(新共同訳)

 

怒るのは、相手の言ったこと、したことが赦せないので怒るわけですね。

赦せないので怒る、その怒りを明日に持ち越してはいけません。

なぜですか。理由があります。

悪魔にすきを与えることになるからです。

人を赦せない思いをもち続けることで、悪魔が働きやすい足場を提供することになります。
悪魔、サタンこそ、人を責め訴える元祖だからです。

ヨハネ黙示録12:10 
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。・・・」(新改訳)

 悪魔はどういう風に働くのでしょうか。

人にうそ、偽りを吹き込みます。

それによって人は勝手に何かを思いこみ、それに縛られ、自由がなくなります。

真理は人を自由にしますが、偽りによる思い込みによって人は不安、恐れに縛られていきます。

神があなたやわたしのすべてを赦し、受け入れてくださったのは、なぜでしょうか。

それは神の気まぐれによるのではなく、理由があります。主イエスの十字架の犠牲を見て、あなたやわたしを赦し受け入れてくださったのです。

神があなたやわたしを赦す、その赦しの根拠は、主イエスの十字架の犠牲にあります。ですから、赦す側が大きな犠牲を払っています。そこに憐れみがあり、赦しの愛があります。

ところが、十字架に目を向けないで、自分のやったこと、罪、失敗だけを見ている人は、主の赦しがハッキリしなくなります。

それがハッキリしなくなると、自然のなりゆきで、人を赦すことも難しくなっていきます。

主イエスの十字架に目を向けるとは、信仰の問題です。

その十字架に罪の借金の責任がすべて肩代わりされていると聖書のみ言葉通りに受け取り、「主よ、有難うございます」と感謝する、それが信仰です。

その時、感情や気持ちにこだわる人もいますが、喜びや感動を感じても感じなくても問題ありません。大切なのはその信仰です。

イエスの十字架に表された、あなたを思う神の憐れみと赦しの愛、今、そこに目を向け、心を向けませんか。

 ローマ15:7 
こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。(口語訳)

赦す、赦さないという問題がどのように発展していくかについて、聖書は遠く2000年前からこのような真理を教えてくれています。

この地上において、神が王として支配される天国の領域に入っていくには、王である方の前に出て、借金の清算が求められます。しかし、その王の憐みの心に触れて、赦しを体験します。そしてまた、その人も他の人に対して憐みの心を示すことが求められます。そこに神の国が現わされていくからです。

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「仕返しをする権利」

2018年08月28日 06時41分13秒 | 聖書の真理発見

 クリスチャンとは、主イエスを信じて罪が赦されたことを信じ、受け入れている人たちです。

ところが、自分が赦されたのに、人を赦せないということであれば、その人の生き方が変えられていないことになります。

 今日、人間関係の密接した中で、とても赦せないような言葉で傷ついたり、辛い思いをしている人たちがいます。

自分が被害者であり、傷ついている側であれば、相手の加害者に対して恨みや赦せない思いをもつことは当然のことです。

場合によっては、相手に対して何らかの仕返しをする権利がこちらにあるわけです。

その仕返しも、人によっていろいろです。

巧妙で、分からないようにする仕返しもあります。

自分と同じように相手にも何らかの苦しい思いをさせたいからです。

しかし、神が重要視しておられる価値観である赦しとは、仕返しをするというその当然の権利を放棄することです。

それは自分に死ぬようなものです。

 

話は戻りますが、前回お話しした、莫大な借金が返済不要となったように、罪の借金の帳消しということで、わたしやあなたの罪の借金が取り消しとなるのは、ハッキリした理由があるからです。

聖書の神は意味もなく、気まぐれに赦したり罰したりする方ではありません。聖書は次のように言っています。

 ローマ3:23-25

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(新共同訳)

 主イエスを信じる人は、主イエスの十字架の贖いのおかげで、無償で義とされる、つまり赦され、罪のない者と認められるのです。

ところが、人を赦せない人たちは、主イエスを信じて自分のことが赦されたとは知っていても、それはそれで感謝していても、こちらの仕返しはまた別の問題だとしているわけです。

聖書にはそう書いてあっても、それは理想であって、現実はそういう簡単なものではないと思う人もいます。

人も赦せない、またそんな自分も赦せない、そしてやられたらやり返すという生き方が長年身にしみついているからです。

そして、いつしか心が縛られて、自分らしく自由に生きれなくなっていきます。

もとの話に帰ります。

自分は莫大な負債を免除してもらっていながら、貸した借金の返済を相手に迫った人はその後どうなったでしょうか。

そうです。牢獄に入れられました。

自由を奪われたということです。

「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」

 

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「帳消しの取り消し」

2018年08月25日 06時16分00秒 | 聖書の真理発見

少し前に莫大な負債を、王である主人から赦してもらっていた人が、今度は自分が貸していた借金の返済には厳しい態度に出て、返せないその仲間を牢獄に入れたのです。

この話が人づてに主人の耳に入りました。

どうなったでしょうか。

主人はこの人を呼びよせて、こう言ったのです。

「お前は悪いしもべだ。わたしに嘆願して願ったからこそ、あの負債を全部赦してやったのではないか。わたしが憐れんでやったように、あの仲間を憐れんでやるべきではなかったのか」

 この人は分かっていませんでした。

何をでしょうか。

主人から莫大な負債を赦してもらったこの人は、赦してもらってよかった、よかった、それで終わりでした。

実は、自分も主人と同じような気持ちで、仲間を赦してやる、そういう人になることが期待されていたとは全く分かっていませんでした。

この人は、自分が得をすることはあたり前のように思い、少しでも損をすることは絶対に赦せないという、そういう価値観を持った人のようです。

ですから、主人の方は当然のことと思っていたことを、この人は分かっていませんでした。

つまり、主人の気持ちや価値観のことが全く分かっていませんでした。

 

では、主人はどのような価値観をもっていたのでしょうか。

返済すべき借金のことよりももっと大切することがあるという価値観です。
どういうことでしょうか。

それは人を憐れみ、赦す心です。

そこに神の国を生きる人の価値観があります。

 

莫大な負債を赦されたその人は、この主人の心が分からず、それを無視して、自分の借金を返さない人に対して冷たく厳しい態度を取りました。

ですから、主人は言っています。

「わたしが憐れんでやったように、あの仲間を憐れんでやるべきではなかったか」

仲間のことを思い、憐れむ心、その心を主人は期待していたのです。

結果として、主人は立腹して、負債全部を返してしまうまでこの人を獄吏に引きわたした。

 

ここから教えられることがあります。

クリスチャンとは、主イエスを信じて罪が赦されたことを信じ、受け入れている人たちです。

ところが、その人の生き方がそれによって変えられていないこともあります。

それはなぜでしょうか。

次回に続きます。

 

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「返済を迫る側に」

2018年08月22日 06時58分59秒 | 聖書の真理発見

 王である主人から莫大な借金を帳消しにしてもらった、あのしもべはその後どうなったでしょうか。

 その人に、そのすぐ後こういうことが起こりました。

負債を免除してもらったその人がその場から出て行くと、ちょうど自分が100デナリを貸している仲間に出会ったのです。

 人は誰かに借りがあったり、また一方で誰かに貸しがあったりします。
あなたは誰かに赦してもらわなければならない借りがありますか、あるいは、誰かを赦してあげなければならない貸しがありますか。

自分がお金を貸している仲間に出会ったこの人はすぐに、その借金の返済を力づくで迫りました。

相手はもう少し待ってくれ、必ず返すからと必死に頼むのですが、彼はその頼みを聞き入れず、仲間をひっぱって行き、返済が済むまで牢獄に入れたのです。

 

少し前のことでしたね。莫大な負債を王である主人から赦してもらっていた、その同じ人が、今度は自分が貸していた借金の返済には厳しい態度に出たわけです。

自分が借りていた莫大な借金は返さなくてよくなった人ですよ。それはそれでラッキーな話でしたが、今度は自分が貸したお金のことはまた別の話であって、それはどこまでも返してもらい、少しでも失いたくなかったのですね。

自分が得したことは、それはそれとして、損することは絶対に赦せないのです。

人間とはどういう者だと思いますか。
その姿の一端がここに現わされていませんか。

 

何か少しおかしいですね。しかし、当の本人はそのことになかなか気づきません。

自分が貸したものを返してもらうことは当たり前のことで、正当な権利だと思っています。

しかし、第3者の目から見れば、これは何かおかしいと分かります。

自分が当事者であると、見えなくなっていることが、第3者の他人にはよく分かるということがあります。

そういう経験はありませんか。

 

それで、その人の仲間の何人かがこの様子を見て、これは誰が考えてもおかしいと、非常に心を痛めました。

そして、主人のところへ行き、この話を残らず話したのです。

王である主人はその話を聞いて、どうしたでしょうか。

 

次回に続きます。

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「一転、帳消しに」

2018年08月19日 06時48分44秒 | 聖書の真理発見

聖書の方のお話にかえります。

覚えておられますか。

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。7たびまでですか」とイエスに聞いてきたペテロの質問から始まりました。

それに対してイエスはたとえの話をされました。

1万タラントという莫大な借金をしていた人が、王である主人の前に来て、決算することになりました。

王はこの人に対して、すべてを売り払って返済するようにと厳しいことを言いました。

 その人はひれ伏して哀願しました、

「どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから」

この人は自分の借金の額が分かっていましたし、何としても、それを自分の責任として返済しますからと、必死に頼みました。

 その人の言い分を聞き、その哀願している姿を見て、厳しい主人は一転して、その人をあわれに思い、その人をゆるし、その借金をすべて帳消しにしてやったのです。

こんなことは今、現実にあり得る話でしょうか。

忘れないでください。

「天国は王が僕たちと決算をするようなものだ」とイエスはこの話の最初に言われました。

今の世の中で、全くないという話ではないと思いますが、これは神が王として支配される天の御国の話です。

前にもお話ししましたように、これは死んだ後の天国のことではなく、今この世に生きている人に影響のある天の御国のことです。

これが聖書が主として教えている天国のメッセージです。

 

この地上において、神が王として支配される天国の領域に入っていくには、王である方の前に出て、借金の清算が求められます。

神に対する負債、借金というのは、単なるお金の問題ではありません。

王である神は強欲な借金取りではありませんが、誰もが王である神の前に立たされ、借りを返すのと同じような責任を問われます。そのための決算がなされるのです。

言い換えると、神の前での罪という借金に関する決算です。

 

厳しい態度で返済を迫っていた王である主人が、この時、しもべの莫大な借金を帳消しにしたのはなぜでしょうか。

前にお話しした人の場合と違って、こちらは返済の期限が延期されたのではなく、負債のすべてが帳消しにされたのです。

 神の前での罪の借金の返済は厳しく求められますが、しかし、また一瞬にして帳消しになることがあるのです。

聖書はこれを福音と言います。

当然、返済の責任を問われる神の前ので罪の借金が、イエス・キリストを通して帳消しになります。

理由は、何とイエス・キリストが罪の借金の肩代わりをされたからです。

どういう方法で、それはなされたのでしょうか。

罪のないイエスが十字架に架けられ、償いの犠牲となられたことで、どんな人もこのキリストを通して、神の前での罪の借金は帳消しになるので、これを福音と言います。

 次回に続きます。

 

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