なぜ、クリスチャンは自分を責めやすくなり、人を責めやすくなるのでしょうか。
責める人は、自分や人を赦せない、受け入れられない人です。
主なる神はわたしたちのことを赦してくださったのですが、しかし、それでも自分のことを赦せないでいる人たちはいませんか。
一般的にまじめな人ほど、自分に厳しく、また人にも厳しくなります。
エペソ4:26、27
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。(新共同訳)
怒るのは、相手の言ったこと、したことが赦せないので怒るわけですね。
赦せないので怒る、その怒りを明日に持ち越してはいけません。
なぜですか。理由があります。
悪魔にすきを与えることになるからです。
人を赦せない思いをもち続けることで、悪魔が働きやすい足場を提供することになります。
悪魔、サタンこそ、人を責め訴える元祖だからです。
ヨハネ黙示録12:10
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。・・・」(新改訳)
悪魔はどういう風に働くのでしょうか。
人にうそ、偽りを吹き込みます。
それによって人は勝手に何かを思いこみ、それに縛られ、自由がなくなります。
真理は人を自由にしますが、偽りによる思い込みによって人は不安、恐れに縛られていきます。
神があなたやわたしのすべてを赦し、受け入れてくださったのは、なぜでしょうか。
それは神の気まぐれによるのではなく、理由があります。主イエスの十字架の犠牲を見て、あなたやわたしを赦し受け入れてくださったのです。
神があなたやわたしを赦す、その赦しの根拠は、主イエスの十字架の犠牲にあります。ですから、赦す側が大きな犠牲を払っています。そこに憐れみがあり、赦しの愛があります。
ところが、十字架に目を向けないで、自分のやったこと、罪、失敗だけを見ている人は、主の赦しがハッキリしなくなります。
それがハッキリしなくなると、自然のなりゆきで、人を赦すことも難しくなっていきます。
主イエスの十字架に目を向けるとは、信仰の問題です。
その十字架に罪の借金の責任がすべて肩代わりされていると聖書のみ言葉通りに受け取り、「主よ、有難うございます」と感謝する、それが信仰です。
その時、感情や気持ちにこだわる人もいますが、喜びや感動を感じても感じなくても問題ありません。大切なのはその信仰です。
イエスの十字架に表された、あなたを思う神の憐れみと赦しの愛、今、そこに目を向け、心を向けませんか。
ローマ15:7
こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。(口語訳)
赦す、赦さないという問題がどのように発展していくかについて、聖書は遠く2000年前からこのような真理を教えてくれています。
この地上において、神が王として支配される天国の領域に入っていくには、王である方の前に出て、借金の清算が求められます。しかし、その王の憐みの心に触れて、赦しを体験します。そしてまた、その人も他の人に対して憐みの心を示すことが求められます。そこに神の国が現わされていくからです。





