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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「神の国が見える人」

2023年10月31日 05時30分48秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書3章の前回の続きです。

ニコデモの話は今回で最後となります。

ニコデモはパリサイ人で、ユダヤ人の指導者でした。

しかし、この人は神は信じていましたが、

イエス・キリストは信じていないという意味では、未信者ですね。

 

あなたは、身近な未信者の人たちと接しているでしょうか。

もちろん、接していると思います。

わたしの近くには未信者の人が見当たらないと

言うクリスチャンは、この日本にはおられないのでは

ないでしょうか。

(何を言おうとしているの)


そうなのです。

その未信者の人と話をしていて、

自分とは話が合わないと思うことがありますか。

世界が違うなーと思ったことがありますか。

わたしはあります。

これは、いろいろ言えると思いますが、ひとつは、

この世の国だけを見ている人と神の国が見えている人の違いです。

 

イエスは宗教指導者でもあったのですが、未信者のニコデモに、

「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」

と言われましたね。

言い換えると、

誰でも御子イエスを信じて、新しく生まれた人は神の国が

見えるのです。

神の国が見えるということをとても特別なこととしている人も

いるかもしれません。

そういうこともあるかもしれません。

とても霊的で信仰のレベルが違う人でなければ、

神の国は見えないのではないか、と思っている時が

わたしにもありました。

 

しかし、主イエスのみ言葉によれば、

新しく生まれた人は誰でも、神の国が見えるのです。

わたしはこのイエスの言葉を信じます。

イエスの言われる言葉を信じる人は、イエスを信じる人です。

この世の国だけに生きている人とは、どこかで違うのです。

見えているものがあるからです。

もちろん、わたしは悪霊が出ていくことやしるしや奇跡を

いつも見ているわけではありません。

しかし、神の国についての理解はもっと広いのです。

 

次のみ言葉はどうでしょうか。

「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、

聖霊における喜びとである」。(ローマ14:17口語訳)

 

神の国は見える形での、飲んだり食べたりという世界ではなく、

神の主権と支配による目に見えない義、平和(平安)、

喜びの世界です。

そして、それらの神の国の恵みは来るべき世においてと

同じように、今のこの時代に味わえるのです。

 

復活された主イエスは40日間、人々に話をされました。

何の話をされたでしょうか。それは神の国についてでした。

(使徒1:3)

多くのクリスチャンたちにいろいろな手紙を書いたパウロは、

最後にどういう生活をしていたでしょうか。

借家に住んでいた晩年のパウロは、訪ねてくる人たちに

何の話をしていたのでしょう。神の国についてでした。

(使徒28:31)

主イエスは何と言われたでしょうか。

「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、

これらのものはすべて、それに加えて与えられます」。

(マタイ6:33)

この主イエスの言葉を信じる人は、イエスを信じる人です。

 

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「永遠のいのちを持つため」

2023年10月27日 05時30分13秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書3章の続きです。

 

3:13 だれも天に上った者はいません。

しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、

人の子も上げられなければなりません。

3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを

持つためです。

 

この15節の一節は、いままでイエスとニコデモが対話してきた

ことのまとめとも言えます。

この15節はなぜ、今までのふたりの会話の「まとめ」と

言えるのでしょうか。

 

この1節こそ、イエスがニコデモに伝えたかった福音だからです。

この福音を伝えるために、イエスはニコデモの言ったこと

に沿って話をしてこられました。

相手を見て、相手の話しに合わせて、福音を語ることの大切さ、

イエスはその模範を示しておられます。

 

「まことに、まことに、あなたに言います。

人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

(3:3)

最初にイエスが言われたこの言葉と、最後の言葉3章15節には

どういう関係があるでしょうか。

 

神の国を見るためには、新しく生まれなければなりません。

そうですね。

この3節の「新しく生まれる」人と、

15節の「永遠のいのちを持つ」人とは

どういう関係があるでしょうか。

 

おわかりですね。

赤ちゃんが生まれるというのは、母親の胎内でいのちを得るので

生まれるのです。

人はいのちを与えられなければ、生まれません。

そうなんです。

わかってきましたね。

イエスは夜の時間に、自分を訪ねて来たニコデモ、

それも聖書のことをよく知っているパリサイ人ニコデモの

言っていることに対して、突然話題を変えて、

ご自分の言いたいことを一方的に言っているのではないですね。

この3章の話を表面的に読んでいると、

そのように思えるような話です。

けれども、イエスはニコデモの言っていることを

しっかり受け止めながらも、その関連の中で、

ご自分の言うべきこと、ニコデモに伝えなければならない福音を

ハッキリ語っておられます。

ですから、15節がこの話しのまとめであり、結論でもあります。

つまり、新しく生まれ、神の国を見ることができるようになる

ためには、どうすればよいかということです。

人の子、つまりイエスを信じる者はどんな人でも、

永遠のいのちを持つのです。

その結果、その人は新しく生まれ、

神の国が見えるようになります。

 

さて、この後、ニコデモはどんな顔をして、

また暗い夜の道を帰って行ったでしょうか。

彼はこの時の、イエスとの話を忘れることができなかった

はずです。

その話の内容を、イエスの言われた言葉を

ずっと思いめぐらしていたに違いありません。

そして、彼もイエスを信じるひとりになったことが

後の聖書の記事からも想像できます。(ヨハネ19章39節参照)

 

この話しから、イエスとはどういう方でしょうか。

わたしたちが聖書のみ言葉を読むときの心構えが

ここから教えられます。

イエスのみ言葉は右から左にさっとわかっていくようには

語られていません。

今はわからなくても、思いめぐらし求めていく人には、

やがて信じられるように導かれるのです。

 

自分のことを振り返ってみると、わたしも最初聖書を読んで

すぐにわかり、信じたということではありません。

やはり、わかったので信じたのではなく、

主イエスがどういう方であるかを信じ、受け入れた後、

聖書の言っていることが、神のことばが少しずつ

わかってきました。

その点ではニコデモと似ている所があると思います。

あなたの場合はどうでしたか。

 

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「イエスとは誰なのか」

2023年10月24日 05時30分19秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ3章からの続きです。

前回は、イエスがニコデモに対して、神の国のことを話題と

しているのは、

「あなたがなさっておられるようなしるしは・・・」と

ニコデモが言ったことに対してであることを見てきました。

 

今回は、もう一つの点です。

イエスは最後の方で、突然、また話題を変えておられます。

これはニコデモの言ったこととは全く関係ない話のように

思えます。

 

3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、

あなたがたは信じません。

それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。

3:13 だれも天に上った者はいません。

しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、

人の子も上げられなければなりません。

 

ここでもイエスはニコデモの言ったことに関係なく、

自分の言いたいことを言っておられるでしょうか。

わたしはそうは思いません。

やはり、ここでもイエスはニコデモの言ったことに

応答して話しておられることに、わたしも気づきました。

どういうことでしょうか。

 

ニコデモは最初に、イエスのことを「神から来られた教師である」

と言っています。

それに対して、ここでイエスは、人の子(ご自分のこと)は

天から下って来た者と言っておられます。

そして、その人の子は、モーセが荒野で蛇を杖の先に

上げたように、上げられなければならないと言われました。

 

これは今のその時のことではなく、

先に起こる十字架のことだということは、

今日のわたしたちにはよくわかります。

しかし、この時のニコデモにとっては何のことか信じられない、

理解できないことだったと思います。


これであなたもわたしもハッキリわかってきましたね。

イエスは決してニコデモが最初に言った言葉とは

無関係な話をしておられるのではないということです。

ニコデモの言った言葉に対して、イエスはシッカリと対応して

霊的な真理を語っておられます。

 

一つは、イエスがなさっておられるしるしについてです。

それは神の国と関係がありました。

もう一つは、イエスが誰であるかについてです。

イエスはこのことをとても大切なこととして語っておられます。

それと関係のある十字架に上げられることについてでした。

 

ここまで、ヨハネ3章1-14節までを見てきました。

15節が、まだ残っています。

これはとても大切な一節です。

このお話しの最後のまとめとして、次回はこの15節を

見ていきましょう。

もう、あなたもこの節について新しい気づきが与えられている

と思います。

 

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「神の国とは」

2023年10月20日 05時30分26秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書3章1-15節のみ言葉に向き合っています。

この箇所、なかなか終わりませんね。

もう一度、振り返って大切な点を二つハッキリさせたい

と思います。

 

まず、イエスはこの話しの中で、最初に神の国が見える、

神の国に入る、という話をされました。

ニコデモは、自分はそんなことを聞いていないと

内心思ったかもしれません。

 

この話しから、もう一度、確認したいことがあります。

まずは、なぜ、イエスはここで急に神の国のことを話されたのか、

ということです。

ニコデニコデモがそれについて何か質問したからではないですね。

 

しかし、イエスが神の国のことを言われたことについて、

想像できることがあります。

それはニコデモが、「神がともにおられなければ、

あなたがなさっているこのようなしるしは、

だれも行うことができません。」と言ったことに対して、

神の国のことが話題となったのです。

 

3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師である

ことを知っています。

神がともにおられなければ、あなたがなさっている

このようなしるしは、だれも行うことができません。」

3:3 イエスは答えられた。

「まことに、まことに、あなたに言います。

人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 

ニコデモが言っている「あなたがなさっているこのようなしるし」

とは、どういうことでしょうか。

癒しや奇跡、悪霊を追い出すことなどですね。

そのしるしとは、神の国の到来を現わすしるしとも言えます。

 

イエスの、ガリラヤでの宣教開始時の第一声は

何だったでしょうか。

覚えておられますか。

 

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

(マルコ1:15)でした。

イエスの到来は神の国の到来です。

イエスが神の国の王だからです。

この「国」という言葉はキングダムですから、

王国と訳す方が近いと思います。

 

ニコデモはイエスのなさっているしるしのことを言っていますが、

イエスは神の国のこと言っておられます。

このふたつのことがつながってきますね。

ですから、この時のニコデモは、しるしは見ていましたが、

神の国が見えていませんでした。

イエスはそのことを指摘しておられるのだとわたしは思います。

 

「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出している

のなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」

(ルカ 11:20新改訳2017)

 

次回は、もう一つの点、「天から下って来た者」

「人の子も上げられなければならない」というところです。

これもニコデモがイエスに言った言葉と

何かの関係があるのでしょうか。

 

次回に続きます。

 

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「対比の意味」

2023年10月17日 05時30分32秒 | ヨハネ福音書より

 

今月の3日にも取り上げていますが、

対比についてもう一度確認します。

ヨハネ福音書3章1-15節の個所を一緒に見ています。

この話の中で、対比されている言葉を挙げてみましょう。

 

神から来た教師-イスラエルの教師(この3章は教師どうしの話です)

新しく生れる-母の胎内から生れる。

霊から生まれる-肉から生まれる。

天から下った者-天に上った者。

見えない霊-思いのままに吹く風  

天上のこと-地上のこと 

人の子が上げられた-蛇が上げられた

 

このくらいでしょうか。

この対比から見えてくるものがありますか。

 

旧約聖書の中にも対比が見られます。

アベルとカインは対比ですね。

ダビデとサウルも、その対比を通してお互いのことが

よくわかってきます。

放蕩息子とその兄は、イエスのたとえ話ですが、

見事な対比によって真理を見せておられます。

 

わたしはバイブルトークの中で、どの個所でも、

人間とはどういう者ですか。イエスとはどういう方ですか、

という質問を入れています。

これも対比によって真理がハッキリするためです。

 

聖書は人間を理想化していません。

人間とはどうしようもない者、救を必要としている者として

聖書には出てきます。

 

それに対比して、イエスとは、神とはどういう方かを見ていくと、

ハッキリしてくることがあります。

人間には問題があります。その答えはイエスです。

答えの方ばかり話して、問題を話さなければ、

その答えは答えとなりません。

人間の問題、どうしょうもない問題をハッキリさせること

によって、人の心に解決を求め、

答えを求める思いが起こされてきます。

 

バイブルトークの質問を作る時も、わたしはこの対比を

意識するようにしています。

 

このヨハネ3章でも、イエスは目に見えるものを通して、

目に見えないものを見せておられます。

そしてまた、目に見えるイエスを通して、

目に見えない神が見えるようになりました。

次回に続きます。

 

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