goo blog サービス終了のお知らせ 

浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「ふたつの法則」

2017年11月29日 07時49分02秒 | 「神のいのちーシリーズ」

聖書のみ言葉は、そのみ言葉を聞いて、学んで、それを理解できたかどうかで終わりではありません。

最初に少しショッキングなみ言葉です。

 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。

しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。

それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。(ヘブル4:2口語訳)

 

次に、黙想していただきたいみ言葉です。

神のいのちのことを知り、いのちに生きることを願っていますか。

その願いをもっている人のためのみ言葉です。

 ローマ8:2 

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。(口語訳)

 

ここにふたつの法則があります。

いのちの御霊の法則

罪と死の法則

です。

万有引力の法則というのをご存知ですね。

物を持っていて、それを離すと下に落ちます。

日本でもアメリカでも、誰が、いつ、どこでやっても同じことが起こります。

それは法則が働いているからです。

自然界にはいろいろな法則がありますが、目に見えない霊的な世界にも法則があります。

驚くことに、そのどちらも同じ創造主なる神が造られた法則です。

 罪と死の法則も目に見えませんが、人はそれを変更することも、どうすることも出来ません。今日もいろいろな人に、その法則は働いていて、目に見える形でその悲惨な結果を見せています。

いのちの御霊の法則、これも目には見えませんが、その結果を見ることは出来ます。

 下に物を落とす力としての万有引力の法則がありますが、その力に抗してジェット旅客機が高く空を飛ぶのは目に見えない別の法則によるものです。

同じように、罪と死の法則から主イエスを信じるあなたやわたしを解放したのは、目に見えないいのちの御霊の法則によるのです。

この霊的な事実を自分のこととして受取ること、それが信仰です。

 今日のみ言葉を黙想し、そのように受け取ることができますか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「バプテスマによって」

2017年11月26日 07時43分44秒 | 「神のいのちーシリーズ」

聖書のみ言葉を味わい、黙想することの実践をしています。

何のためでしょうか。

それは神のいのちに関係があります。

今日は次のみ言葉です。

 ローマ6:4 

すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。

それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。(口語訳)

 新しいいのちに生きるのです。

新しいとは、生まれた時から持っているいのちとは違うという意味で、新しいいのちです。

素晴らしいですね。

そのいのちに生きるのは誰ですか。

主イエスを信じて、洗礼、バプテスマを受けた人たちです。

どうしてそんなことが出来るのですか。

バプテスマを受けた人は、ただ洗礼によってクリスチャンとなり、教会員となったということだけではありません。

もっと大切な深い意味があります。

その人はキリストと共に死に、葬られたのです。

キリストの十字架によって、目には見えない、その霊的な事実が起こりました。

洗礼を受けた人はその霊的な事実を信仰によって受け取ったのです。

すると、どうなるのですか。

その人は、キリストと共に死んだのです。

死んだのは何のためですか。死ねばすべてが終わりではないのですか。

死んだ、その人が新しいいのちに生きるためです。

死んだ人がどうして新しいいいのちに生きるのですか。

キリストが死から復活されたからです。

それはキリストと共に死んだあなたやわたしがキリストと共によみがえり、新しいいのちに生きるためです。

テレビでも新聞でも報道されない、すごいことが起こったのですね。

洗礼、バプテスマはその霊的な事実を表す象徴的なことなのです。

もう一度、今日のみ言葉を黙想し、自分のものとしませんか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「いのちの光」

2017年11月23日 07時38分46秒 | 「神のいのちーシリーズ」

 今日はひとつのみ言葉を黙想してみませんか。

黙想とはさっと読んでそれで終わりということではありません。

み言葉をよく味わい、かみしめ、吟味することです。

牛が食べたものを何度も胃に戻して、反芻するようにです。

人から言われた言葉がいつまでも頭に残って、何度も何度も思い出されるという経験はありませんか。

その場合は、意識してそうするのではなく、自然にそうなるわけですが、み言葉の黙想は意図的に思いめぐらす時、そこから新しい気づきが与えられます。

人から教えられるものとは違った、あなただけの気づきです。

いのちが働くので、そこから元気をもらえます。

詩篇 56:13 

あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前にわたしを歩ませられたからです。(口語訳)

 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。(新改訳)

 あなたは死からわたしの魂を救い、突き落とされようとしたわたしの足を救い、命の光の中に神の御前を歩かせてくださいます。(新共同訳)

 ここに「わたしの魂」、「わたしの足」と出てきます。

魂は内面の自分です。足は、行動、生活、仕事などのことです。

その「わたし」がいのちの光のうちを歩くことが出来るようになったのです。

いのちの光とは生きる力や元気からくる希望です。

主イエスを信じた人に救いが起こり、その歩みが守られ、導かれていくのは、この「いのちの光」のおかげです。

 このみ言葉を黙想し、何かの気づきを与えられるのは、いのちの光に出会うからです。

わたしはそれを聖霊の働きであり、主からの語りかけだと思っています。

み言葉を黙想すると、すぐに何かの気づきが与えられるとは限りません。

わずかでも何かの気づきや思いが与えられたなら、それをノートに書き出してはっきりさせることも、時には必要です。

実践してみませんか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人の光」

2017年11月20日 07時26分06秒 | 「神のいのちーシリーズ」

 

季節の移り変わり、その速さは年を取るほどに早く感じられます。

あなたはどうですか。

 

ヨハネ1:1-4

初めに言があった。

言は神と共にあった。

言は神であった。

この言は初めに神と共にあった。

すべてのものは、これによってできた。

できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

この言に命があった。

そしてこの命は人の光であった。(口語訳)

 

有名な聖書の箇所ですが、右から左へとさっと理解できるようなところではありません。

 

この言に命があったのです。

神は言葉によって天と地を創造されました。

神が「光あれ」と言われると、光がありました。

この言葉が肉体となって、わたしたちのうちに宿ったのです。

分かりますね。

イエス・キリストのことです。

 

自分のしもべが病気で苦しんでいる時、イエスのもとにやってきた、あのローマ軍の百人隊長は「ただお言葉を下さい。そうすれば、しもべは治ります」と言い切りました。

イエスはその人の信仰を高く評価されました。

その後、遠く離れたところにいる、そのしもべの病気は、イエスの言葉だけで癒されました。

 

言葉に命があり、その命は人の光でした。

光とは何でしょうか。

暗やみに打ち勝つ光です。

治安もよく、経済も発展して豊かな国、日本ですが、もう一方で、悲惨なニュースが毎日のようにテレビで報道されています。

表面的な繁栄の陰で、暗やみの支配が力を増しています。

 

あなたやわたしに希望を与え、救いを与える光が必要な時代です。

暗い顔をしている人にも、明るい希望の光となるような光です。

人の手による色鮮やかなイルミネーションも美しいですが、いのち輝く新緑の若葉、東の空を赤く染める日の出、それは希望の光を感じさせてくれます。

主なる神が創造された自然界には人が作りだせない、いのちがあるからです。

そしてイエス・キリストに現わされたいのちこそ、人の希望の光なのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「主の臨在の実践」

2017年11月17日 07時38分23秒 | 資料紹介

 前回のみ言葉の箇所の少し前のところです。

 使徒行伝2:25-26

ダビデはイエスについてこう言っている、
「わたしは常に目の前に主を見た。
主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。
それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。
わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう」(口語訳)

 わたしは常に目の前に主を見た、と言っています。

この主とはイエスのことだとも言えます。

主イエスをいつも目の前に見ることが出来るのでしょうか。

神を見た者はまだいません。

では、何時も、常に主を見たというのはどういうことでしょうか。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。

見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」(2コリント4:18)

見えないものに目を注ぐことは出来るのですね。

意識においてです。

意識において、目の前に主を見ることは出来ます。

わたしはこのことを何時もではないのですが、よく実践しています。

主の臨在の実践と言われています。

自分の目の前に主を見るのです。

いつでも、どこででも出来ることです。

主が右にいてくださるので、動揺することはなくなります。

霊において平安が与えられます。

今日のみ言葉を覚えて、実践してみませんか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする