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浜崎英一ブログ「聖書との対話」

わたしは今も、70年近く読んできた聖書を心の支え、人生の指針として親しみ、感動を覚えている。

「心をかたくなに」

2024年05月31日 05時30分04秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書9章の続きです。

 

9:13 人々は、もと盲人であったこの人を、

パリサイ人たちのところにつれて行った。

9:14 イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、

安息日であった。

9:15 パリサイ人たちもまた、

「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。

彼は答えた、

「あのかたがわたしの目にどろを塗り、

わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。

9:16 そこで、あるパリサイ人たちが言った、

「その人は神からきた人ではない。

安息日を守っていないのだから」。

しかし、ほかの人々は言った、

「罪のある人が、

どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。

そして彼らの間に分争が生じた。

 

近所の人たちはパリサイ人、

つまり当時の宗教指導者たちのところへ、

その人を連れて行きました。

なぜ、そこへ連れて行ったのでしょうか。


生まれつき目が見えない人が

見えるようになったというのですから、

これはスゴイ神の奇跡なのか、

そうではないのかを

その宗教指導者に判定してもらうためだったと思われます。

 

ということは、近所の人たちで、

彼のことをよく知っている人たちは、

自分たちでそれを判断できなかったということですね。

不思議ですね。

 

この話を聞いたパリサイ人たちの間で紛争が起こりました。

それはどういう紛争だったのでしょうか。

本人の言っていることを、そのまま信じなかった人たちと

信じた人たちの間で論争が起こったのです。

 

信じなかった人たちは、

その人は安息日を守っていないから、罪びとであり、

そういう人が盲人を癒すことなど出来るはずはないと言っています。

今、目が見えている本人を前にして、

この男はうそを言っているのではないか、

もともと見えていたのではないか、と思ったようです。

 

不思議ですね。

生まれつき目が見えなかった人が癒されて、

見えるようになって目の前に立っているのに

それを認められない人たちがいたのです。

これはこの聖書に出てくる、このパリサイ人たちが

特別頑固で物分かりが悪い人だったとも言えますが、

一般的にも言えることではないでしょうか。

 

ここで、人間とはどういう者でしょうか。

自分たちの大事にしてきた信仰上の伝統や決まり事に

反することをする人たちのことを認められない者です。

そしてまた、今、目に見える現実からすべてを判断して、

自分たちの経験や知識を超えたことを言う人のことを

簡単には信じられない者です。

 

「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、

心をかたくなにする者がないように、

きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」

(ヘブル 3:13口語訳)

 

 

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「さらに、イエスとは」

2024年05月28日 05時30分11秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ9:1-12のお話から学んでいます。

 

盲人の目が見えるようになったのは、

もちろん、本人のためです。

目が見えず乞食をしていたこの人は、

見えるようになったその後、喜びに満ちた、

変えられた人生を生きるようになったに違いありません。


しかし、

この奇跡の出来事はただその人のためだけではありませんでした。

この奇跡の出来事を通して、

あるメッセージが発信されています。

聖書が伝えたいと思っている一番のメッセージ、

それはイエスとは誰なのかということです。

 

前々回、そのことを見てきましたが、

もう少し付け加えたいと思います。

 

盲人のいやしの奇跡を通して、

イエスがその前に言われていた言葉が、

本当であったことを証明することになりました。

 

「本人が罪を犯したのでもなく、また、

その両親が犯したのでもありません。

ただ神のみわざが、この人の上に現れるためです。

わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを

昼の間にしなければなりません。

夜が来ます。すると、だれも働けなくなります。

わたしは、この世にいる間は、世の光です」。(ヨハネ9:3―5)

 

イエスは神に遣わされた方であり、世の光です。

これはご自身についてのイエスのあかしでしたが、

盲人の目が見えるようになったその奇跡によって、

そのあかしは本当であることが、ある意味、証明されたのです。

 

光がなければ、暗やみの中では、物は見えません。

世の光であるイエスによって、わたしもあなたも

今まで見えていなかったものが見えるようになりました。

神の愛も、救いについても、聖霊の働きや人の罪深さなどなどについて

見えるようになりました。


もうひとつ「世の光」とは、

イエスのメシア性を表すものです。

イエスは人と全く変わらない人間となられたのですから、

イエスがメシア・キリストであることは

誰でもわかる自明のことではありません。

 

盲人が見えるようになる、

このことは旧約の預言によれば、

イエスがメシヤ・キリストであることのあかしでもあったのです。

 

「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。

わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。

わたしはあなたを民の契約とし、

もろもろの国びとの光として与え、

盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、

暗きに座する者を獄屋から出させる。」(イザヤ42:6~7口語訳)

 

「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」

(ヨハネ1:9口語訳)

「イエスは、また人々に語ってこう言われた、

『わたしは世の光である。

わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、

命の光をもつであろう』」。(ヨハネ8:12口語訳)

 

ですから、このイエスを神の子キリストと信じ受け入れる人は、

どんな人も救われ、命の光をもつ人となります。

ハレルヤ

 

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「とても簡単に」

2024年05月24日 05時30分46秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ9章1-12節のこの話は

さっと読めば、簡単に読み終わる話です。

あまりにも簡単に書かれているからです。

生まれつき盲人であった人が、

瞬時に目が見えるようになったという話、

よーく考えてみると、これはスゴイことですね。

ところが、そのスゴイことが簡単に書かれていて、

まったく大げさに書かれていません。

 

そのような驚くべき奇跡を行われたイエスも、

盲人にひと言、簡単に声をかけているだけです。

目が見えるようになりたかったら、

これくらいのことはしなさい、

これくらいの献金をしなさい、とかは一切ないですね。

 

生まれつき見えない目が見えるようになるのだったら、

盲人は少々難しいことを言われても、努力してやったはずです。

自分に出来ることは何でもしたと思います。

そしてその努力の甲斐があって、

やっと見えない目が見えるようになったという話ならば、

多くの人には分かり易いのではないでしょうか。

 

ところが、この聖書の話では、

池に行って洗いなさいと言われ、

洗いに行くと目が見えるようになったというのです。

それだけです。

イエスによる奇跡とも思えないようなことです。

 

あまりにも簡単過ぎませんか。

そのため、この話は神話か作り話と思われても仕方がありません。

つまり、イエスを信じない人には分かってもらえない話です。

しかし、分かってもらえなくても聖書はそれを伝えているのです。

 

わたしもあなたも神さまのこと、主イエスのことなど

何もわかっていなかった普通の日本人でした。

しかし、何か大変な修行努力をしたおかげで、

長い年月をかけて、今は主イエスのことが分かり、

神の愛が分かってきたというのではないですね。

 

ごく簡単に、霊の目、心の目が開かれ、

それまで見えていなかったものが見えるようになり、

信じられるようになりました。

 

それだけではなく、

自分の過去の失敗や悔いの残ること、

思い出したくないようなこと、自責の念、

そういうことからも解放されました。

つまり

罪を赦され、この人生の終わりの、

その先にも希望が持てる永遠のいのちを与えられました。

 

あなたやわたしが体験しているこの救いの奇跡は、

生まれつきの盲人の目が見えるようになった奇跡と比べると、

どちらの方がスゴイことでしょうか。

 

あなたやわたしの場合も、スゴイ犠牲を払い、

努力に努力を重ねた結果やっと得られた

と言えるものではないために、

人が聞けばとてもわかってもらえないような話です。

 

目に泥が塗られ、何のためにその泥を池で洗うのか、

その意味は何なのか。

盲人はわからないまま、ただイエスの言葉に従っています。

それが信仰ですね。

 

あなたもわたしもイエスの言葉が十分理解でき、

分かったから信じたということではなく、

わからないまま受け取ったのですね。

 

そして最後にもう一つ共通点があります。

あなたもわたしも、この盲人の場合も、

イエスの方が最初に目をとめられたところから

すべてが始まっています。

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、

人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」。(詩篇 8:4 口語訳)

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「イエスはどういう方か」

2024年05月21日 05時30分32秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ9章1-12節のこの話は、

目が見えなくて乞食をしていた人がいやされて、

目が見えるようになったという話です。

確かにそのことが中心の話ですが、

この話を通して表されている

イエスとはどういう方か、ということも、

重要なテーマです。

 

・「わたしをつかわされたかたのわざを・・・」(4節)

とありますから、

イエスは神から遣わされた方です。


・「わたしは、この世にいる間は、世の光である」(5節)

から、イエスは暗いこの世を照らす光です。

 

さらに気づかされることがあります。

「イエスが道をとおっておられるとき、

生れつきの盲人を見られた」(1節)

とありますから、通りすがりで、

イエスが最初にその盲人に目をとめられました。

初対面の人ですが、イエスがその人に目をとめられたところから

この話は始まっています。

 

普通でしたら、初対面の人には「お名前は何と言いますか。

お住まいはどちらですか」などと聞きますね。

もちろん、目の見えないこの人の方も、

イエスの顔も見えていませんから、

その段階ではまったく誰か分かっていません。

 

イエスはこの人の名前も住所も、家族のことも、

そういう個人情報を聞かないままで、

この人のためにスゴイ奇跡をされたのです。

イエスとはどういう方だと思いますか。

 

そう言えば、あなたやわたしの場合も、

こちらがイエスのことを知る前に、

信じる前に、何かを求める前に、

イエスの方がこちらに目をとめておられたのです。

そこからすべてが始まっています。

そう思いませんか。

 

さらに、イエスとはどういう方かについて、

この話にはとても興味深いところがあります。

本人には何の説明をまったくせずに、

盲人の目に泥を塗ったイエスとはどういう方でしょうか。

 

これについてはいろいろな説明があるかもしれませんが、

わたしが個人的な受け取ったことを紹介させてください。

これはあくまでもわたしの個人的な理解ですから、

これが唯一の正解だと思わないでください。

 

まず、その目に塗られた泥は、

池で洗い落さなければならない泥でした。

この泥は、

この人がこれまでずっと人から言われてきた言葉の泥でした。

この人が、目が見えないのは、本人の罪か親の罪かどちらかだろう、

という言葉の泥です。

 

イエスが他にも盲人をいやされた例がいくつかありますが、

目に泥を塗られたのはこの人だけでした。

この人の場合、目が見えるようになる前に、

「遣わされた者」という名前の池で、

この泥を洗い落とす必要がありました。

 

イザヤ 57:20

しかし悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができないで、

その水はついに泥と汚物とを出す。(口語訳)

 

マタイ 15:11

「口にはいるものは人を汚すことはない。

かえって、口から出るものが人を汚すのである」。(口語訳)

 

あなたは人の言葉で嫌な思いをしたり、

傷ついたりしたことはありませんか。

わたしはあります。

その嫌な思いや汚れを洗い落としてくれるのは、

遣わされた者の池、神に遣わされたイエスさまですね。

主イエスのみ言葉です。

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「必要な一歩一歩」

2024年05月17日 05時30分17秒 | ヨハネ福音書より

 

ヨハネ福音書9章1-12節のストーリーの続きです。

これは3回目になります。

さて、「シロアムの池に行って洗いなさい」と

イエスはその盲人に言われましたね。

「そうすれば、見えるようになりますよ」言われましたか。

聖書をよく見てください。

わたしの聖書にはそのように書かれていません。

 

ヨハネ9:3-7

 9:3 イエスは答えられた、

「本人が罪を犯したのでもなく、

また、その両親が犯したのでもない。

ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。

 9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、

昼の間にしなければならない。

夜が来る。すると、だれも働けなくなる。

 9:5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。

 9:6 イエスはそう言って、

地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、

そのどろを盲人の目に塗って言われた、

 9:7 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。

そこで彼は行って洗った。

そして見えるようになって、帰って行った。(口語訳)

 

そうですね。

イエスはただ、「シロアムの池に行って洗いなさい」と

言われただけです。

「そうすれば見えるようになります」とは言っていませんね。

それでも、この盲人は、

イエスの言われたことに対して、

洗いに行かせるのなら、

なんで人の顔に泥を塗るようなことをするのか、

とは思わなかったのです。

 

ところで、どうですか。

目に泥を塗られて、目の見えないこの人が

シロアムの池に向かって歩いて行っている姿を想像できますか。

シロアムの池がどちらの方向なのか、分かっていたのでしょうか。

誰かが連れて行ってくれたのでしょうか。

それとも彼は見えない目で、ひとりで歩いて行ったのでしょうか。

 

いずれにしても、盲人が目に泥を塗られて歩いている姿は、

あまり格好の良いものではありません。

イエスさまは障害者に対して酷いことをさせるとは思いませんか。

かっこも良くないし、これはみじめな姿です。

 

シロアムの池はこちらの方ですか、と

彼は途中で人に聞いたかもしれません。

聞かれた人は、その人の顔を見て、どう思ったでしょうか。

 

忘れないでください。

何度も言いますが、イエスは彼に、

「池に行って洗ったら、見えるようになります」とは言っていません。

彼はただ、顔に塗られた泥を洗い落とすために、

その池に向かっているのです。

「シロアムの池」「シロアムの池」と思いながら・・・。

 

みじめな姿をさらしながら、歩いて行く、

その彼の心には、しかし、なぜか希望があったのです。

それは、目が見えるようになる

というハッキリしたことではないとしても、

イエスが言われた言葉が、彼の心に残っていたからです。

「神のみわざが彼の上に現れるためである」

-そうだ、自分の上に何かが起こるのだ。

「わたしは世の光である」

―そうだ、初対面ではあったが、あの人は「世の光」と言っておられた。

 

目に泥を塗られたままの姿でシロアムの池に向かう盲人の、

その心にこのイエスの言葉が留まっていたのです。

彼はただ結果を求めて、そこに向かっていたのではなく、

イエスの言葉に希望をもって、そこに向かっていたのです。

言い換えると、

イエスの言葉がシロアムの池へと彼を向かわせていたのです。

 

イエスは誰かにこの盲人を助けてあげるようにとは

言っておられません。

人の目にはみじめに思える姿であったとしても、

彼の池に向かう、その一歩一歩は

神のみわざが現れるために必要な一歩一歩でした。

イエスとはどういう方だと思いますか。

 

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