四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

没後40年・有道佐一回顧展を鑑賞する会

2024年08月12日 | アート・文化

12日㈪11日の山の日の振り替えで祝日。

 綾瀬駅前のバーガーキングで遅めの朝食を食べながら、小源太と小一時間あれこれと話。その後、東京駅に向かい、11時54分発の新幹線で京都に戻った。

 先日から南海トラフ地震の警戒で三島駅から安城駅の間はスピードを落とすため、若干、京都駅への到着は遅れた。

 

 京都に戻って、市営バスで京都市京セラ美術館に。15時半から京都あやべ会(村上晨一郎会長)「没後40年・有道佐一回顧展を鑑賞する会」に出席した。

 村上会長の挨拶で開会。約50名の綾部関係者が出席されていた。

 戦後の美術関係者の中で、最も早くから有道佐一画伯の絵を見出しておられた星野画廊の星野桂三オーナーがどうやって有道画伯の絵と出会い、絵についての研究を深められていったか、また有道画伯やその周りの方々との交流等についてお話された。大変興味深いお話だった。

 有道画伯綾部市志賀郷地区の篠田町に生まれて、山家地区の東山町で育ち、18才で鹿子木孟郎画伯に弟子入りした。30才からは鹿子木画伯の助手を務めて鹿子木画塾等での指導をしていたという。

 39才から1年間、鹿子木画伯の援助でフランスのパリで絵を学んだ。その際には著名な彫刻家ジャコメッティに見出され、サロン・デ・チュイルリーの客員に推されて同サロンに絵画の出展を許されたという。

 帰国後中央画壇からの誘いには乗らず、昭和58年に87才で没するまで東山町の実家で故郷山家の風景画を中心に一心に描き続けた。晩年には日本画の作品も多く残している。

 星野オーナーは「有道画伯の絵はパリで描いたものがスタートで、20代から40才頃までの作品が見つかっていない。それが出てくると貴重だ」とおっしゃっておられた。その頃は画家として最初に油が乗ってきた良い時期だそうだが、助手時代でもあり、鹿子木画伯の作品の手伝いや画塾での指導等で忙しく、ご自身の作品は残せなかったのかもしれない。

 有道画伯は細かい点描で絵を描かれるが、これは鹿子木画伯の画風とは異なり、太田喜二郎画伯の影響ではないか?ということだった。太田喜二郎画伯も鹿子木画伯の影響か、何度も山家へ足を運ばれ、奥様は東山町から嫁いでおられるそうだ。「山家」という作品もあり、それは府立鴨沂高校に飾ってあるとのことだった。

 

 星野オーナーに続いて、有道画伯の長男の有道大作さんがお父さんとの思い出やお父さんからお聴きになっている話を語られた。

 私の父有道画伯との思い出を語った。38才で綾部に帰り、市会議員になった頃「新生時報」という「あやべ市民新聞」の前身の地方紙で有道佐一さんを取材したこと、綾部での個展の開催に至った時のエピソードなどだった。

 読売新聞の大西さんという記者囲碁友達で、その大西記者に有道画伯のことを「綾部には凄い画家がおるぞ」と教えてもらったとのことだった。

 

 懇談の時間は早退し、「没後40年・有道佐一回顧展」を鑑賞した。大変大きな会場で、今までに観たことがないくらいのたくさんの絵が出展されていた。

 「幻の画家・有道佐一回顧展」8月18日㈰まで、京都市京セラ美術館で開催されています。ぜひ、お運びください。

 

 夜は久しぶりに綾部に戻った。

 温二郎はオーストラリアでの研修生活を楽しく送っているようだ。毎日、妻のところには電話がかかっていたそうだが、「今日はかかってこない」と言っていた。


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