朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

松江2

2013-10-26 | 国内各地の風物
小泉八雲記念館を見学しました。



再話小説「怪談」で知られるラフカディオ・ハーンの生涯の資料が展示されていました。たしか国語の教科書にものっていた記憶があります。



アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれ、フランスとイギリスで教育を受けるが、19歳の時に単身で渡米。ニューオリンズでジャーナリストの職を得る。特派員として39歳で来日後、島根県の学校の英語教師になります。その後、熊本で英語教師、帝国大学文科大学(現東京大)、早稲田大学に勤務して、日本文化に関する多くの作品を残しました。

松江には、明治23年(1890)から翌年にかけてわずか1年3ヶ月の滞在でした。この時期に妻となる小泉セツと知り合い、結婚して日本に帰化しています。そんなに短い松江時代でしたが、この地にとってその影響力は計り知れません。



「堀川遊覧船」の小舟が動いていきました。

堀端に「松江歴史館」があります。武家屋敷跡を発掘調査した後、そこに屋敷を再建し博物館としています。



慶長16年(1611)松江城の建設にあたっては、宍道湖につきだしていた尾根の途中を掘削して、城山とそれを囲む堀を新たに大規模な土木工事しています。武士や町民の住居地区も「都市計画」して定めていることがよく分かりました。

江戸時代の松江藩はとても豊かであったようです。



周回バス(ぐるっと松江レイクライン)で月照寺に向かいました。
徳川家康の孫に当たる松江藩初代藩主松平直政公が生母を祀るためのお寺です。その後、歴代藩主の菩提寺となりました。

「月照寺の大亀」で有名だそうで、小泉八雲の随筆にもでてきます。

”松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。
 困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。”(引用:http://furusato.sanin.jp/p/area/matsue/37/)



ホテルの前から眺めた宍道湖。対岸の県立美術館のあたりが「夕日の名所」なのでそちらに向かいました。



だんだんに日が傾いてきて、美術館のガラス壁に反射しています。



「出雲の阿国展」を開催していました。歌舞伎の発祥となった江戸時代のアイドルです。京都四条大橋の袂にはその銅像が立っています。

”慶長八(一六〇三)年、出雲国(島根県)の神子(みこ)を名のるお国が、宮中で「かぶき踊」とよばれる新しい芸能を披露しました。それは既存の芸能の諸要素に異風な「かぶき者」の風俗を組み合わせた踊りで、やがて群衆からの熱烈な支持を得たお国は、一躍“天下一”の芸能者と称えられます。彼女以降も遊女歌舞伎、若衆歌舞伎のアイドルが数多生まれ、お国は歌舞伎の祖・「出雲阿国(いずものおくに)」として偶像視されていきました。”(引用:島根県立美術館web)


(引用:Wikipedia「四条大橋」)

京都四条大橋、歌舞伎座の前にある出雲阿国像。



美術館の外の湖畔には、夕日を待つ人が集まってきました。ここにある兎の像の何番目かを撫でると縁起が良いとのうわさ。



沈み始めると、太陽の動きはとても早い。



対岸の山の端に隠れてしまいました。

出雲旅行(3泊4日)はこれでおしまいです。この旅行を企画し案内してくれた友人ご夫婦に大感謝です。

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