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領土問題をめぐる議論のウソ(2) 2島返還妥結による米国の沖縄領有は有り得たか

2016-03-21 22:17:55 | 領土問題
 前回の続きだが、BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」中の他のウソを指摘する前に、前回述べたいわゆる「ダレスの恫喝」が果たしてどれほど現実味があった話なのかについて述べたい。

 重光葵外相からダレス米国務長官の発言を聞いた、松本俊一の回想録の箇所を再掲する(太字は引用者による。以下同)。

ところが、ダレス長官は、千島列島をソ連に帰属せしめるということは、サン・フランシスコ条約でも決っていない。したがって日本側がソ連案を受諾する場合は、日本はソ連に対しサン・フランシスコ条約以上のことを認めることとなる次第である。かかる場合は同条約第二十六条が作用して、米国も沖縄の併合を主張しうる地位にたつわけである。ソ連のいい分は全く理不尽であると思考する。特にヤルタ協定を基礎とするソ連の立場は不可解であって、同協定についてはトルーマン前大統領がスターリンに対し明確に言明した通り、同協定に掲げられた事項はそれ自体なんらの決定を構成するものではない。領土に関する事項は、平和条約をまって初めて決定されるものである。ヤルタ協定を決定とみなし、これを基礎として論議すべき筋合いのものではない。必要とあればこの点に関し、さらに米国政府の見解を表明することとしてもさしつかえないという趣旨のことを述べた。
 重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
 このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官が重光外相にこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故にこの段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つというがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に了解に苦しんだ。(松本『日ソ国交回復秘録』朝日新聞出版(朝日選書)、2012、p.125-126)


 サンフランシスコ条約第26条も再掲しておく。

第二十六条 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。


 松本が書いている「このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあった」については、重光・松本の第1次モスクワ交渉に同行した産経新聞の久保田正明が後に著した『クレムリンへの使節』における次の記述が参考になる。

 ダレスの発言は電撃のように重光を打った。ただ発言の内容については全然知らないわけではなかった。この数日前、ワシントンで島公使が国務省に呼ばれ日ソ交渉とサンフランシスコ条約との関係について同じような指摘を受け、このことはロンドンの重光に転送されてはいた。だが、ダレスがこの時期、この席で持ち出してこようとは重光はまったく予期しておらず、まして「沖縄」の名を出してこようとは夢想だにしていなかった。(久保田『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)p.157-158)


 このダレス発言は、間もなく日本で報道され、大きな問題になったようだ。
 重光は日本の立場を説明するため再度ダレスを訪問したが、その時にはダレスの態度はかなり変わっていたという。
 松本はこう書いている。

二十四日に重光外相は、さらにダレス国務長官に会って日本側の立場を縷々説明した。その日は、ダレス長官がアメリカの駐ソ大使ボーレン氏も同席させて、十九日の会談とは余程違った態度で、むしろアメリカ側の領土問題に対する強硬な態度は、日本のソ連に対する立場を強めるためのものであるということを説明したそうである。
 しかし、十九日のダレス長官の発言中の琉球諸島の併合云々のことは外部にもれて、日本の一部の新聞にも掲載された。そのために、日本の世論に相当な動揺を与え、国会においても社会党その他の議員から高碕外務大臣臨時代理等に対して、この点について質問が出て、政府としてもこの問題の収拾には非常に苦慮したのであった。九月七日に至ってダレス長官が、谷駐米大使(正之)に対して、領土問題に関する米国政府の見解を述べた覚書を手交した後の会談で、「この際明らかにしておきたいが、米国の考え方がなんとかして日本の助けになりたいと思っていることを了解して欲しい云々」と述べて、ダレス長官の真意が日本側を支援するにあったことが明確になってきたので、世論も国会の論議も平静をとり戻した。(松本、前掲書、p.126-127)


 久保田はこの間の事情をもっと詳しく書いている。

 ダレス警告は東京の政界を大きくゆるがした。各紙はその後十日以上もこれにかんする記事を連日取りあげ、国会では野党が高碕外相代理を鋭く追及した。鳩山は「そんなことはとても信じられない」とおどろき、政府。与党のスポークスマンは「まだ重光全権から公電がはいらない」の一点張りでくりかえし否定しつづけた。
 国際的にも波紋を呼び、東京発のニュースがアメリカやイギリスに打電された。〔中略〕
 政府が躍起になって否定しても、ダレス発言の真実性は確かなものになっていった。鳩山主流派は困惑の極みに達し、これに対し旧吉田派などの反主流派は反撃に転じ、ソ連に屈服しようとした日本に、米国が頂門の一針を加えたものであるとして鳩山派を攻撃した。社会党などの野党は不当介入であるとアメリカを非難し、世論もまたアメリカの介入を不快視する声が高まってきた。
 こういう騒然たる空気のなかで重光は五日後の二十四日午後、再びダレスを訪れた。〔中略〕外務省首脳の衆知をあつめてサンフランシスコ条約第二十六条にかんする反論をまとめると同時に、ダレスの感情をやわらげるため、ソ連に領土を譲渡するときは関係国の意見を聞いたうえで決めるという趣旨の国際会議案に近い修正案も用意していた。
 〔中略〕しかし、ダレスは前日とは打って変わり別人のようにおだやかに重光を迎え、発言も慎重であった。
「日ソ交渉にたいする問題はなかなか複雑な問題で、米国としても、いろいろな観点から考慮しなければならない。目下ワシントンで検討させているので、私がここで即答することは好ましくない。帰国してよく検討したうえ、米国の回答を東京に送ることにしたい」
 〔中略〕最も心配していた沖縄についてはダレスの口からはついに沖縄のオの字も出なかった。〔中略〕
 一回目と二回目でダレスの態度がまるで変わったのは、大統領選挙を間近にひかえていた米国政府が日本の対米感情の悪化を心配した結果だろうとみられた。沖縄はクナシリ、エトロフと違って日本の潜在主権が認められている。その沖縄を領有する立場にあると米国からいわれたのでは、日本の国民感情としては素直に受け入れるわけにはいかない。対米感情が悪化し、日米関係にヒビが入るおそれもある。それを憂慮する米本国筋から注意があったのか、最初の発言の理論的趣旨は一応つらぬきつつも沖縄云々は口に出さなかったのだろう。
 〔中略〕
 国内ではなおダレス発言の真偽とその真意をめぐって論争がつづいており、政府側は依然として「公電がこない」をくりかえすだけで容易に認めようとしなかった。しかし当の本人のダレスはスエズ会議が終わってワシントンに帰り、二十八日の記者会見で内外の記者団にハッキリ肯定した。ダレスはサンフランシスコ条約第二十六条を説明したあと、
「米国初めサンフランシスコ条約に調印した諸国は、南樺太と千島にたいするソ連の主権を認めるわけにはいかない。また米国は極東における国際平和と安全にたいする脅威が存在するかぎり、沖縄における諸権利を行使しつづける方針である。私は以上のことをロンドンで重光外相にしておいた」
 と再び沖縄の名前を持ちだした

 これがロンドンでのダレス警告の経過であるが、米国が自発的に警告を発したのか、あるいは他に仕掛人がいたのか、いまなお謎と疑問が残されている。(久保田、前掲書、p.159-162)


 ここで久保田は明らかにしていないが、このダレス発言をスクープしたのは久保田自身だそうである。和田春樹『北方領土問題を考える』(岩波書店、1990)によると、久保田にリークしたのは松本だという(p.209)。

 さて、このように、「ダレスの恫喝」は、当時広く報道されて、国会審議でも問題となった事案であった。
 しかし、サ条約第26条を根拠とした米国による沖縄領有などという事態が、現実に有り得たのだろうか。
 私にはすこぶる疑問に思える。

 条文には
「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない」
とあるから、確かにそういう解釈も成り立たないことはない。
 しかし、「この条約の当事国」とは、わが国と米国だけではない。他に44か国が批准している。それらの国々の「利益」はどうするのか。それを抜きにして、何故一足飛びに米国が沖縄を領有するという話になるのか。
 また、沖縄と、国後及び択捉では、面積も地理も異なるが、これを「同一の利益」と言えるのか。
 さらに、久保田も書いているように、サ条約は、沖縄におけるわが国の潜在主権を認めた上で、米国による信託統治を認めている。わが国が同条約で放棄するとしたが帰属が定まっていない国後及び択捉とは異なる。

 「ダレスの恫喝」を受けた直後の重光や外務省の反応を久保田『クレムリンへの使節』はこう描いている。

 宿舎グロウナー・ハウスには重光全権団のほか加瀬国連大使、西駐英大使、西村駐仏大使、武内駐白大使、大江スウェーデン公使らが集まっており、とくに西村駐仏大使はサンフランシスコ条約締結のときの条約局長である。参集した首脳部は額を集めて対策を協議した。〔中略〕
 第二十六条のとくに後半部分が問題となる。西村らの意見はこの部分は賠償や通商などについての規定であって、領土問題には適用できないし、且つサンフランシスコ条約締結時から三年以上を経過しているのでダレスの言い分は筋がとおらないということに一致した。(p.158)


 それが常識的な解釈だろう。

 仮にわが国がソ連の2島返還を受け入れて平和条約を締結し、米国がダレスの言ったとおりサ条約第26条を根拠に沖縄を領有したら、どんな事態が生じただろうか。
 国民の対米感情は著しく悪化したに違いない。悪くすれば、社会党への政権交代が起きたかもしれない。日米安保条約(旧)だってどうなったかわからない。
 それは米国にとって望ましいことではなかっただろうし、だからこそダレスも重光への態度を変えたのだろう。

 また、当時既に国民は2島返還での平和条約締結には否定的だった。「ダレスの恫喝」は4島返還論を後押しするものだった。だからこそ、松本が書いているように、騒動は鎮静化したのだろう。

 それに、ではその後の政権は、「恫喝」を真に受けて、沖縄を米国に領有されることを恐れて、4島返還論に固執せざるを得なかったのだろうか。本当は2島返還で妥結してもいいと考えていたのに、米国の意向だけを考慮して? 政治家や官僚の口からそんな話が語られたとは聞いたことがない。

 そして、米国は沖縄を「恫喝」から16年後の1972年にわが国に返還したのである。
 ならば、もはや米国の沖縄領有の可能性を心配する必要はない。わが国が2島返還による平和条約締結が望ましいと考えるなら、遠慮なくそうすればよい。
 だが、沖縄返還からもう40年以上が経過しているのに、そうした声が主流にならないのは何故なのだろうか。

 政府・自民党によるこれまでの「北方領土」返還の宣伝によって、国民が4島返還でなければ妥結してはならないと思い込まされているからだろうか。そのように主張する人もいる。
 確かに、宣伝の効果というものはあるだろう。しかし、それだけではないのではないか。
 大前氏だけでなく、4島返還論は米国の押しつけであるとか、2島返還で妥結してもよいといった声は、少数ではあるが昔からあるにはあった。にもかかわらず、それが多数の支持を得られないのは何故だろうか。
 それは、4島返還論が、歴史的経緯に照らして十分根拠があるものであることが、広く理解されているからではないだろうか。
 そして、抑留者の返還や漁業問題、国連加盟といった重大問題があった国交回復交渉当時と異なり、それらが日ソ共同宣言により一応解決したこんにち、国後、択捉の2島の返還を放棄してまでロシアと平和条約を締結することにより得られる利益に政治家も大多数の国民も価値を見出せない、ただそれだけのことではないだろうか。

(続く)