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「だまってトイレをつまらせろ」? (追記)

2016-03-13 22:21:08 | ブログ見聞録
 先日の私の記事「「だまってトイレをつまらせろ」?――朝日新聞政治部次長の奇妙なコラム」を、マンマークさんという方が、「市役所職員の生活と意見」というブログの
とにかく朝日を責めたい人。
という記事で、やんわりと批判しておられます。

 私の記事を読まれた方が、それに同意しようが、批判しようが、はたまたくだらないと投げ捨てようが、それは全くその方の自由です。
 ただ、私としては、その批判の内容を読んで、少し申し上げたいことがありました。
 また、誤解しておられる点があるので その点についてもお知らせしたいと思いました。

 マンマークさんのブログの記事にコメントしてもよいのですが、他の場所でもこの方と似たようなことを書いている方がおられたので、そうした方にも伝わる可能性を考慮して、私のブログに新たに記事を書いて、マンマークさんにはトラックバックで伝えることにします(こんなことをするのは久しぶりだなあ)。

 さて、マンマークさんはこう書いています。

「んー? なんだこれは?」というのが最初の感想。
 これは、ここで取り上げられている朝日新聞のコラムじゃなく、このブログ記事を書いた人に対する感想です。
 
 朝日新聞のコラムで紹介されている「トイレをつまらせろ」は、雇用主である企業と被雇用者である労働者との話。
 それに対する反論として、このブログ主が持ち出している駅のトイレの話は、営業者である企業とその顧客との話。
 支配関係の有無という点で、まったく別物の話です。同じ文脈で比較していい話ではありません。

 しかし、このブログ主、そうした違いを理解せず勝手に話を発展させていきます。
 曰く「食費に困っている者が万引きしたら云々」あるいは「朝日新聞の購読者がこの記事が気に食わんと言ったら云々」…、妄想レベルです。
 
 朝日新聞のコラムの後段で安倍首相の話が出てきたのは唐突な印象も受けますが、それも支配関係をキーワードに考えれば、そう的外れな論理展開でもないのかなという気がしますし、少なくとも、このブログ主が示している幾つかの例に比べれば、的確だと思います。


 支配関係の有無という点で全く別物の話をごっちゃにするなとおっしゃっています。

 はて、雇用主と被雇用者は支配・被支配の関係にあるのでしょうか。
 私は、雇用契約を結んだ上での、対等の関係にあるのだと思っていました。
 だから、被雇用者には労働基本権が認められ、雇用者による不当労働行為が禁止されているのではないのでしょうか。
 支配関係って、まるで被雇用者が奴隷みたいですね。

 そして、マンマークさんは、高橋次長のコラムが安倍政権批判に至る点についても、「支配関係をキーワードに考えれば、そう的外れな論理展開でもないのかなという気が」するのだそうです。
 はて、安倍政権と、高橋次長を含む国民とは、支配・被支配の関係にあるのでしょうか。
 私も国民の一人ですが、安倍政権に支配されているなんて感覚はまるでないのですが。
 絶対王政や武家政治や藩閥政府の時代じゃあるまいし、共産党の一党独裁の国でもあるまいし、国民の普通選挙によって成立した国会が選出した首相をトップとする政府と国民が支配・被支配の関係にあるなんて、時代錯誤も甚だしいのではないでしょうか。
 マンマークさんだって、市長と市民が支配・被支配の関係にあるなんておっしゃらないと思うのですが。

 まあ、マンマークさんがそれらを支配・被支配の関係にあると見るのは、別にご自由だと思いますが、だとすれば、私が最初に鉄道のトイレの例を持ち出したのは、果たして「まったく別物の話」なのでしょうか。
 鉄道の利用客には、他の交通機関を選択する余地がない場合が往々にしてあります。私は現在、通勤に□□電車を利用していますが、私の自宅と私の勤務先を電車通勤しようと思えば他の鉄道会社を選択する余地はありません。路線バスもありませんし(あったとしても低速です)、自動車通勤は禁止されています。
 そして、鉄道の運賃は、乗客と鉄道会社が交渉して決めるのではありません。鉄道会社が一方的に決めたものに、乗客は黙って従わざるを得ません。被雇用者の賃金が労使交渉で変えられる余地があるのとは違います。
 そんな鉄道のトイレに紙が設置されていなければ、それは、この高橋次長が挙げている工場の経営者の例と比較して、「そう的外れな論理展開でもないのかな」と私は思うのですが。

 それに、高橋次長は、船本洲治の第3の道「だまってトイレをつまらせろ」から、「きらめくなにかを感受し」、「別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない」としながらも、「おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。」と述べています。
 そして、「他者を従わせたいと欲望する人」に同調することによって「ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる」と警告しています。
 これは、単に支配する側への抵抗というよりは、「他者を従わせ」ようとすること一般への抵抗なのではないでしょうか。
 一般論として、既成の社会秩序に無条件に従うことに対する疑問を提唱しているのではないのでしょうか。
 私はそのように理解して、先のブログの記事を書きました。
 マンマークさんがそうは読み取れないとおっしゃるなら、それはそれで別にかまわないのですが。

 また、仮に支配・被支配の関係にあれば、「トイレをつまらせる」のは果たして許される行為なのでしょうか。
 高橋次長がその前に①②として挙げているように、経営者と交渉するという方法があります。それが普通でしょう。
 実際に③に及べば、経営者がその後トイレをどうするかはさておき、それは犯罪になります。労働者にとっても、決して良い結果は生まないと思うのですが。
 活動家がアジテーションでそういう暴論を述べることは、そりゃああると思います。
 しかし、それを新聞社の役職者が「きらめくなにかを感受し」たと真に受けて、そうした「精神のありようを手放したくはない」とコラムで表明するのは、そしてさらにそれを政権批判とからめるのは、立場的にどうなんでしょうか。

 高橋次長が政権批判にからめて「だまってトイレをつまらせろ」「はい、もう一回」とシュプレヒコールを唱えるのは、平たく言うと、国民には気に入らない政権を転覆させる自由があることを忘れるな、と言いたいのだと私は理解しました。抵抗権とか革命権とかいうやつですね。
 それには私も同意します。
 しかし、清教徒革命や名誉革命やフランス革命やロシア革命といった歴史上の革命は、絶対王政への抵抗として起こったものです。民主制の国で起こったのではありません。
 何故なら、民主制の国では、言うまでもなく、国民が政権を支持しないのなら選挙で政権を交代させることができるからです。ですから、国民が暴力で政権を打倒する必要はありません。
 にもかかわらず、高橋次長は、選挙のことなどまるで考慮している様子はなく、単に安倍政権の姿勢が気に入らないというだけで「だまってトイレをつまらせろ」と説きます。それでは、単に高橋次長の好き嫌いを表明しているだけです。そんなことは、ブログやツイッターならともかく、わざわざ新聞記者がコラムで語るに値しないことだと私には思えました。
 
 それから、私の記事は、単に「トイレをつまらせろ」という文言だけを批判しているのではありません。
 高橋次長は「為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ」と述べていますが、為政者は国民に選択してもらうために自らの信じる道を示すべきですし、高橋次長だって、仮に安倍政権が道を示さなければ、逆にその点を批判するのではないかと説いています。
 それと、「他者を従わせたいと欲望する人」「さあご一緒に!」は高橋次長もまた同じではないかとも説いています。
 マンマークさんは、この二点には触れておられませんが、いったいどうお考えなのでしょうか。

 批判の内容について申し上げたい点は、以上です。
 誤解されている点については、次回述べます。

続く