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領土問題をめぐる議論のウソ(3) 2島返還で妥結寸前だったというウソ

2016-03-23 08:30:44 | 領土問題
承前

 BLOGOSの記事「大前研一「日本人が知らない日本の歴史」について、話をしよう【前編】」という記事に含まれるウソの指摘を続ける。

 前々回も挙げた大前氏の記事の一部を再掲する(太字は引用者による。以下同じ)。

1951年のサンフランシスコ講和条約において、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。これを翻して、「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」との立場を日本政府が取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年のことだ。サンフランシスコ講和条約にソ連はサインをしていない。したがって日ソの国交正常化は日ソ共同宣言によってなされるが、このとき平和条約を締結した後に歯舞、色丹の二島を日本に引き渡す二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ

しかしアメリカがこれに難色を示す。東西冷戦が過熱する状況下で、領土交渉が進展して日ソ関係が修復することをアメリカは警戒したからだ。1956年8月に日本の重光葵外相とダレス米国務長官がロンドンで会談した際、ダレスは沖縄返還の条件として、ソ連に対して北方四島の一括返還を求めるよう重光に迫った。

当然、当時の状況下で四島一括返還の要求をソ連が受け入れるわけもない。結局、平和条約は結ばれず、同年10月に署名された日ソ共同宣言(12月発効)では領土問題は積み残された。


 ここに言う、「二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ」とはどういう事態を指すのだろうか。
 日本政府が、歯舞、色丹の返還のみで平和条約を締結すると公式に示したことはない。

 ただ、交渉に当たった全権が、2島返還での妥結を日本政府に請訓したことは二度あった。
 その一つは、前々回紹介した、第1次モスクワ交渉での重光外相によるものだ。
 前々回述べたとおり、重光は、元々日ソ国交回復には消極的で、モスクワでも当初は強硬論を唱えたが、ソ連が2島「引き渡し」以上の妥協の姿勢を見せないと、一変して2島案を呑んでの交渉妥結をするしかない、しかも自分は全てを任されているから日本政府への請訓の必要もないと全権団に言い出した。しかし松本俊一の反対にあい、しぶしぶ請訓を行った。請訓を受けた鳩山政権の閣僚、党3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相はソ連案を拒否するよう重光に返電した。
 鳩山首相は明確に拒否しているのだから、これを「二島返還論で両国は妥結寸前まで交渉が進んだ」と見るのは当たらない。

 もう一つは、第1次モスクワ交渉の前年、1955年6~8月に、ロンドンで、松本俊一・衆議院議員(元外務次官)とソ連のヤコブ・マリク駐英大使(元駐日大使)との間で行われた第1次ロンドン交渉でのことだ。
 領土問題について、松本は当初、第二次世界大戦でソ連に奪取されたわが国の領土である歯舞諸島、色丹島、千島列島(国後、択捉はその一部)及び南樺太の全面返還を主張した。マリクもまた当初これを全面的に拒否した。しかし交渉が進む中でマリクは、千島列島及び南樺太はサンフランシスコ平和条約で日本も放棄しているとしながらも、歯舞と色丹の引き渡しの可能性を松本に示唆した。
 松本は政府に請訓したが、政府は、国後と択捉は日本固有の領土であって、サンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれていないとし、また千島列島(国後、択捉を除く)と南樺太の帰属は、サンフランシスコ条約締結国とソ連の共同協議により決定すべきと指示した。松本はこれに従った平和条約案をマリクに呈示したが、マリクは拒否し、交渉は決裂した。

 実は、松本は交渉に臨むに当たって、その根本方針である「訓令第一六号」を受けていた。そこでは、領土については、歯舞、色丹の返還が最低条件とされていたことを、当時産経新聞の記者であった久保田正明が後に『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)で明らかにした。
 したがって、松本としては、マリクに歯舞と色丹の引き渡しの可能性を示唆されて、交渉は妥結したも同然と考えたようだ。
 だが、請訓を受けた重光外相は、これをすぐには鳩山首相に知らせず、外務省の幹部を集めて、上記のとおり、国後と択捉は日本固有の領土であって、サ条約で放棄した千島列島に含まれない、また千島列島(国後、択捉を除く)と南樺太の帰属はサ条約締結国とソ連の共同協議により決定すべきとの新方針を決定し、松本に指示した。
 重光はその上で外遊に発ち、久保田によると、鳩山には外務省顧問の谷正之が事後報告に訪れ、情報を持たない鳩山は同意するしかなかったという。

 以前にも述べたように、日ソ国交回復交渉は外務省の頭越しに鳩山首相が進めたものであって、重光は交渉に消極的であり、外務省もおおむね同様だったという。
 また、鳩山の回顧録によると、重光は交渉経過の詳細を鳩山に見せていなかったのだという。
 したがって、重光及び外務省が独断で2島返還による妥結を葬ったことになる。

 ただし、「訓令第一六号」は政府の最終的方針ではなく、あくまで交渉開始時における方針だった。久保田が引用している訓令の文中には

先方の態度いかんによっては各問題の相関関係を勘案のうえ、当方の態度を決定する必要あるので、随時事情を詳細に具して請訓されたい。(p.33)


とある。
 これに従って松本は請訓し、外務省は国後、国後をも要求するという「当方の態度を決定」したのだろう。
 仮に、重光が鳩山に報告して「当方の態度を決定」することとなった場合、果たしてすんなり2島返還で妥結ができたのだろうか。
 私はそうとは限らないと思う。
 当時まだ自民党は結成されておらず、鳩山の日本民主党は少数与党であった。第2党である自由党は対米重視で日ソ交渉に消極的であり、日本民主党内でも重光は交渉に消極的で対ソ強硬派であった。世論調査でも旧領土の全て、あるいは旧領土のうち南樺太を除いた千島、歯舞、色丹の返還を望む声が大多数だった。
 ただ、仮に重光が速やかに鳩山に報告し、鳩山政権が方針を検討した場合、2島返還で妥結した可能性はあったとは言えるだろう。
 久保田は次のように書いている。

 ソ連の重大提案にたいして、まず外務省としての態度を決め、鳩山には事後報告の形で、しかも自分が行かずに、出発後に谷を代理として差し向けたのは、おそらく重光の作戦であったろう。松本の機密電がきてから重光の出発まで時日は充分あったはずである。〔中略〕何よりもまず鳩山に会いにいき、政府としていかにすべきか、肚をわって相談するのが当然第一になすべきことである。そのうえで渡米してダレスの考えも聞き、岸、河野とも相談し、帰国後、政府与党で慎重に協議したうえ、右するか左するか政治的決断を下すのが、政治決断の順序というものであろう。このときハボマイ、シコタンの線で妥協するのがよかったのか、さらにクナシリ、エトロフを要求して交渉を継続したほうが正しかったのかは、後世の審判に待つほかはない。しかし重光のやり方は異常であり、故意に日ソ交渉を遅らせるため、手順を逆にしたとみるほかはない。(久保田『クレムリンの使節』p.82)


 私もそのとおりだと思う。

 しかし、現実には重光外相は鳩山首相を差し置いて明確に2島返還での妥結を拒否しているのだから、これもまた「両国は妥結寸前まで交渉が進んだ」と表現するのはやはり妥当ではないだろう。

続く)