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瀧川政次郎『新版 東京裁判をさばく(上下)』(創拓社、1978)を読んで(3) 南京大虐殺、仏印進駐

2016-03-10 22:44:48 | 大東亜戦争
承前

 いわゆる南京大虐殺についての、次の記述は興味深い。

 南京虐殺の事実を立証するために検察側が提出した書証、人証は莫大な量に達している。南京事件の主なる証人を列挙すれば、
  南京虐殺事件当時南京大学に在職していた米人医師ロバート・ウィルソン氏
  南京陥落後国際委員の一員として難民救済に当った紅卍会副会長許伝音博士
  南京にあるアメリカ監督派基督教伝道師ジョン・ガスピレー・マギー氏
  南京陥落後司法院にいた南京市の警官伍長徳氏
  南京市民陳福宝氏
  同   尚徳義氏
等である。七月二十九日、証人台に立った徐節俊氏は、昭和十七年五月に行われたビルマ・雲南公路における日本軍の残虐行為について言及した。
 私はこれらの証人が語った残虐行為をここに載録するに堪えない。これらの証人の中には危く日本兵の虐殺の手から逃れた人々も交っているから、彼らは南京占領後に繰りひろげられた地獄図をまざまざと描いている。怨恨と復讐の念とに燃え上っているこれら証人の言に虚偽と誇張のあることは、その反対尋問の速記録を見ただけでもわかる。しかし、彼らの言に多少の誇張があるにしても、南京占領後における日本軍の南京市民に加えた暴行が相当ひどいものであったことは、蔽〔おお〕い難き事実である。当時私は北京に住んでいたが、南京虐殺の噂があまり高いので、昭和十三年の春、津浦線を通って南京に旅行した。南京市街の民家がおおむね焼けているので、私は日本軍の爆撃によって焼かれたものと考え、空爆の威力に驚いていたが、よく訊いてみると、そらの民家は、いずれも南京陥落後、日本兵の放火によって焼かれたものであった。南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半歳を経た当時においてもなお冷めやらず、南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。私を乗せて走る洋車夫が私に語ったところによると、現在南京市内にいる姑娘〔クーニャン。若い未婚の女〕で日本兵の暴行を受けなかった者はひとりもないという。国民政府の首都南京をおとし入れて講和の機を掴〔つか。原文では手へんに國〕もうというのは、随分馬鹿気た考えであった。首都抜かれて国に何の面目があるか。相手が死物狂いになってトコトンまで抗戦するのは知れたことである。国民軍は首都南京の防禦には死力を竭〔つく〕して戦った。激戦のあった南京の城壁は、私が行ったときまでも、日本兵の血で彩られていた。(下巻 p.95-96)


 そして著者はこう続ける。

南京虐殺は、この国民軍の頑強なる抵抗によって沸き立った日本兵の敵愾心にも一因がある。通州事件による中国兵の残虐行為が南京攻囲軍の将兵の間に知れ渡ったことも亦その一因である。しかしその最大の原因は、軍の統率が失われ、軍紀が紊乱したことにある。大元帥陛下をないがしろにした将官たちは、佐官たちにないがしろにせられる。将官たちをないがしろにした佐官たちは、尉官たちにないがしろにせられる。一般行政権を離れて独立した統帥権は、軍を私兵化した。朝鮮越境を敢えてした軍は、軍人の軍であって国民の軍ではなくなってしまっていた。私兵化した軍隊に下剋上の風が行われるのは、必然の成行きである。軍の実権はやがて佐官級に移り、尉官級に移り、果ては下士官級に移って行った。将校の言うことを聴かなくなった下士官級によって統率される兵卒が、暴行、掠奪を行うに至ったのは是非もない次第である。私は南京視察後東京に帰り、私が九大で教授をしていた時の法文学部長であった美濃部達吉先生にお目にかかり、「今日において日本を匡救する途如何」と問うたところ、先生は「林銑十郎大将を処刑しない限りは、日本を匡救する途はない」と言われたが、今にしてその正理なることを痛感する。下剋上の風によって仆れる大廈〔たいか。大きな建物〕は、松井大将の一本の能く支え得るところではない。南京虐殺の責を一身に背負わされて絞首台の露と消えた松井石根大将個人は、むしろ同情に値するものと言えよう。(下巻 p.96-97)


 しかし、著者はさらに次のように、南京大虐殺の責任論について反駁している。

今次の戦争において行われた日本軍の残虐事件が、軍首脳部の諒知と同意とに依って行われたものであるという中国検察官の見解は、復讐に血迷った見解である。向哲濬氏も検察官としての立場においてかく論告したのであって、内心その非なることは自覚していたのかも知れない。軍の首脳者が、部下将兵の残虐行為を制圧し得なかった責任は免れ得ないと思うが、彼らが捕虜を虐殺してもよいというような乱暴な命令を出したというのは、人を誣〔し〕うるのはなはだしいものである。彼らがそれほど猛悪な意思をもっていたとしたならば、俘虜収容所などは設けなかったはずである。中国において軍隊ならざる民衆が多く殺戮を被ったのは、軍隊が便衣を着用し、難民に化けて日本軍を攻撃する卑劣なる戦法をとったからである。便衣隊と難民とをゆっくり区別している暇のない日本軍が、難民を射殺したことは自衛上已むを得ない。難民虐殺の責のみが問われて、便衣隊の交戦法規違反が咎められないことは、正理に反している。故に弁護側は、これらの証人の反対尋問にあたって、便衣隊の活動を鋭く衝いている。(下巻 p.97-98)


 著者は、こう反駁しながらも、「南京占領後における日本軍の南京市民に加えた暴行が相当ひどいものであったこと」は認め、軍紀の乱れがあったことも認めている。この点、よく見る「南京大虐殺」批判論とは一線を画している。これは私には意外だった。

 なお、著者が「南京虐殺の噂があまり高いので」と記しているように、支那事変における日本軍の暴行が相当ひどいものだったという話は、戦中期にも日本人にはある程度伝わっていたものと思われる。細川護貞の『細川日記』の昭和20年9月3日の項には、

 米兵暴行事件、ニ、三あり。我兵が支那にて為せる暴行に較ぶれば、真に九牛の一毛なるも、その事実を知らざる者は、米兵のみを怨み、やがては彼等に危害を加ふるに到るべし。


とあるし、矢内原忠雄は1945年10月に行った講演(『日本精神と平和国家』(岩波新書、1946)に収録)で、

殊に日本精神をやかましく唱えた人々自身、日本精神による教育を重んじ、日本精神の権化であると言われた軍隊や学校の中にも、周章狼狽して幹部が非常な私心を発揮した実例を聞いているのであります。支那やフィリッピンに於いて日本の軍隊が暴行を働いたということを、支那の方はまだ公に暴露せられておりませんけれども、フィリッピンの事に就いてアメリカの方から発表があって、国民が苦い思いをさせられた。日本の軍隊が全体としてそういう行動をしたのではないでしょうし、軍全体の方針としてしたのではないでしょう。それを以て全班を推すことは間違だろうと思いたいのでありますが、併し或る部分に於いてはああいう事実があったのでしょう。


と述べている。悪名高いラジオ番組「真相はかうだ」の開始は1945年12月、東京裁判開廷は1946年5月であるから、そうした宣伝や報道より前から、ある程度は知られた話だったのだろう。

 また、フランスの検察官がフランス語による陳述に固執したことに絡んで飛び出した、「八紘一宇」についての著者の見解も興味深い。

東京裁判では「八紘一宇」という言葉が日本の世界征服の野望を露呈した言葉として問題になったが、この言葉には慥〔たし〕かにそうした意味もある。この言葉は『日本書紀』に見える神武天皇即位の詔にある〔中略〕語から出た言葉である。東京裁判では、検察側がこの言葉をあまり問題にするので、日本人弁護団では「八紘一宇調査委員会」なるものを作り、鵜沢団長親〔みずか〕ら委員長となり、私も委員の一員となってこれが調査研究に当ったが、「八紘一宇」というような言葉を、神武天皇が使われる道理はない。八紘という言葉は、私がここで博学を衒って、こちたき中国の古典を博引して旁証するまでもなく、中国で出来た言葉である。書紀に見える古の言葉は、日本書紀の編纂者太安麻呂もしくはその下に使われていた中国・朝鮮の帰化人の言葉であって神武天皇の御言葉ではない。太安麻呂の編纂した日本書紀は六朝時代の漢文で書かれていて、江戸時代の漢学者斎藤拙堂の如きは、これを六朝文学の一例と見ている。「八紘一宇」なる言葉は、六朝時代の帝王が盛んに用いた文句であって、そこには五胡によって践〔ふ〕み荒らされた中国を統一して、中国人の中国となさんとする意義があらわれている。書紀に見える神武天皇の詔勅はシナ思想であって、日本思想ではない。そこには江南に追い詰められた六朝の天子のひがんだ思想があらわれている。こんな思想が日本精神だと思ったら大間違いである。故に本居宣長は、書紀に見える神武天皇の詔勅などは頭から問題にしなかった。この詔勅を大きく採り上げたのは、本居歿後の弟子と欺称する天下の大山師平田篤胤である。軍の思想を率いた荒木、小磯の思想の系統を辿ってゆくと、平田篤胤に到達する。日本帝国陸軍というレッキとした名称があるのに、これを「皇軍」と呼んでみたり、馬賊あがりの湯玉麟を討伐するいくさを「熱河聖戦」と仰々しくいったのは、荒木貞夫である。〔中略〕東條首相が尊重していた伊勢の神宮皇学館大学長山田孝雄博士も、亦平田篤胤の亜流で、博士には篤胤に関する著作がある。日本人は忘れっぽいから、もう忘れていると思うが、山田博士が日本全土が大空襲に見舞われる一年ほど前に、「日本は神国であるから、アメリカの飛行機は日本を襲い得ない」と堂々とN・H・Kから放送したことは、記録にとどめておいてよい。日本書紀と古事記との区別もわからない軍人どもは、「八紘一宇」を日本精神と考え、三国同盟締結のときには、この文句を国家の公文書に入れもした。また関東軍では、その発する文書にやたらに「八紘一宇」の印を押していたら、これは織田信長の「天下布武」印の真似である。帝国軍人は、織田信長の私兵のようなものに成り下がっていたのである。日本人がこんな大きな間違いを犯すのも、もとはといえば、国語を尊重しないからである。マゴコロはマゴコロであって、真心でも至誠でもない。況〔いわ〕んや仁でもなければ、義でもないのだ。ビールはビールと言わなければ、ビールの味がせんではないか。ビールを麦酒〔バクシュ〕と呼んで、塗りの椀に注いで飲めば、気が抜けてうまくないようなものだ。フランス語問題で一日を費やしたことは、われわれにとっても無駄ではなかった。(下巻 p.132-134)


 このフランスの検察官が冒頭陳述でわが国による侵略と述べた仏印進駐について、著者は、現地陸軍の専断によるものと批判している。

 仏印進駐は、日本の侵略意図の明瞭なるあらわれとして、日米交渉を行き詰らせ、アメリカをして戦争決意を固めさす契機となったものであることは、日米交渉の段で詳述せるとおりである。東京裁判にあらわれた仏印進駐の記録の中で、私が特に読者諸君の注意を惹きたいことは、参謀本部がフランス政府と交渉して平和裡に北部仏印進駐を行うつもりであったのが、南支派遣軍司令官安藤利吉中将、同参謀長佐藤賢了少将の専断によって、それが武力進駐となり、三千の我が将兵の命と八百の仏軍の命とを失わしめたことである。ハノイにあってこの報に接した日本委員会首席西原少将は、「統帥乱れて信を中外に失う」と激烈な非難攻撃の電報を参謀本部に送っている。閑院宮殿下はこの責めを負うて参謀総長の職を去られたのである。木戸内大臣も、同年九月二十六日の日記の中で「大局を弁〔わきまえ〕ざる出先の処置は遺憾なり、大事を誤るはこの輩なり。」と慨嘆している。功名心にかられて猪突する職業軍人ほど始末のわるいものはない。またスターリン元帥は、功名心にかられて軍律を犯した将校の肩に肩章を載せ、胸に勲章を宛て「お前の欲しかったものはこれであろう。今こそこれを授ける。」といって、肩章と勲章の上から五寸釘を打ち込ませてこれを刑殺したというが、日本の将校にもこの刑罰に値する者が頗〔すこぶ〕る多かった。私の親しかった陸軍中将は、「戦わずして敵を屈せしめるのは、兵の上たるものであるが、そういうことをやったのでは部下が承知しない。それで已むを得ず我が軍が苦戦に陥るような作戦を採用する。苦戦の末、やっと某要地を占領したということになれば、甲一級の勲章がもらえる。」と語った。職業軍人の勲章の犠牲になって戦死した兵隊こそ浮ばれまい。「一将功成り万骨枯る」のは已むを得ないが、「一将功を成さんとして万骨を枯らす」不義不道は、天人ともに赦〔ゆる〕さざるところてせある。しかし中央の命令に従わず「大事の誤り」「信を天下に失う」ようなことをやらせた者は誰か。それは勅命を用いずして越境した朝鮮軍司令官林銑十郎その人である。(下巻 p.135-136)


 また林銑十郎が持ち出されている。

 仏印進駐を専断したとされる佐藤賢了(1895-1975)は、前回述べた大島浩や畑俊六と同様、A級戦犯として東京裁判で起訴され、終身禁錮刑の判決を受け、独立後に仮釈放された。近衛内閣時代の帝国議会での国家総動員法審議における「黙れ」事件の主でもある。
 当人は「黙れ」の一言でA級戦犯とされたかのように語ることもあったようだが、このように仏印進駐を実行したほか、戦中期には陸軍省軍務局長も務めた重要人物であり、決して「黙れ」だけの人物ではない。

 もう一人の安藤利吉(1884-1946)は、1944年に第十方面軍司令官兼台湾総督となり、敗戦後戦犯として中華民国に拘束され、上海監獄に収監中に自殺したという。

続く

瀧川政次郎『新版 東京裁判をさばく(上下)』(創拓社、1978)を読んで(2) 統帥権の問題等

2016-03-09 22:11:57 | 大東亜戦争
承前

 下巻に入ると、こうした戦前・戦中期の軍部や指導者層を批判する記述はさらに多くなる。

 大内兵衛、滝川幸辰の両教授が、検察側に有利な証言を行ったことについて。

 満洲事変以来、軍部の執拗なる圧迫と迫害に辛酸を嘗め尽されたこの両氏が、当時は軍の首脳者であった被告に対して不利な証言をされたとて、それを多く非難するには当るまい。青年将校を使嗾〔しそう〕して五・一五事件を起さしめた極右派によって、生命の危険を感ぜしめられ、大学教授の地位から追われて満洲に逃避し、つぶさに憂き艱難を嘗めさせられた私としては、両氏の心情に深く同情できる。当時の軍部の指導者や極右派の思想家、暴力団に対する怨恨の情は、今も私の心から消えてはいない。満洲にいる日本人の民間人を置き去りにして、自分たちだけが特別列車を仕立てたり、軍の飛行機に乗って日本内地に逃げ帰った関東軍の軍人軍属に対しては、今なお憎悪の念に燃えている。しかし、私は満洲事変以来日本が戦った戦争のすべてが侵略戦争であったとは考えられない。「鏖殺〔おうさつ。皆殺しの意〕倭奴」の宣伝ビラを国中に撒きちらし、国民を極端な反日侮日に駆り立て、罪なき居留民の婦女子を辱めた中国人に、日中抗争の責任が全然なかったとは考えられない。不戦条約を蹂躙し、火事泥的に満洲の資材を本国に運び去ったソ連が、日本の侵略を被ったなどとは、私には考え及ばないところである。中立国の義務に違反して敵に軍需物資を送り、日本の玄関先ともいうべきアリューシャン沖で海軍の大演習を行い、揚句のはてはハル・ノートを突附け、真珠湾の奇襲を食って自ら「生き残るための戦争」というアメリカの言い分に十分理があるものとは、私には到底考えられぬ。好戦的、侵略的になった日本の軍人もわるいが、何が彼らをそうせしめたのか。日本人の優越感も唾棄すべきであるが、有色人種に対して賤視感を懐く白人の世界に、独立国民として生きてゆくためには、日本人が明治時代の抑遜した態度をいつまでも持続してゆけない事情もあったと思う。〔中略〕軍教〔軍事教練の略か〕が軍の強制によって行われたことは、厳然たる事実である。また満洲事変以来、数々の戦争が行われたことも事実である。証人として宣誓した以上、真実を語るのは、人間としての義務である。しかし、戦われた戦争が侵略戦争であるか自衛戦争であるかは、各人の意見問題である。大内、滝川の両氏は、これを侵略戦争と見られたかもしれないが、その反対の見解もあり得る。両氏が感情に囚われることなく、その深い観察と広い知見の上からそう判断せられたとあれば、それも致し方がない。しかし、軍閥者流に対する反感から、特にその中の個人に対する私怨から、この結論に到達されたものであれば、私はこれに対して遺憾の意を表せずにはおられない。(p.70-72)


 一見、わが国の立場を正当化しようとしているように見える。
 だが、注意して読むと、ソ連はともかく、中国と米国については、「中国人に、日中抗争の責任が全然なかったとは考えられない」「アメリカの言い分に十分理があるものとは、私には到底考えられぬ」と、「全然」「十分」と留保をつけている。
 ということは、逆に言えば、日中抗争の責任の大部分は日本人にあった、アメリカの言い分にも幾分かの理はあったということになる。
 「好戦的、侵略的になった日本の軍人もわるいが、何が彼らをそうせしめたのか」というのだから、我々も悪かったが、100%我々だけが悪かったのではないだろうという主張である。

 満洲事変当時に奉天の総領事館に勤務していた外交官の森島守人が、関東軍の将校から脅迫を受けたと証言したことについて。

 我々〔森島ら〕はこの事件(柳条溝事件)の調整の努力をするに当つては、平和的手段に訴へるべきである、又自分はこのやうにして満足に解し得ると信ずるといふことを彼に説得しようと試みた。すると板垣大佐は私を叱咤して、総領事の任務は軍の指揮権に干渉するように企図されたかどうか知りたいものだといつた。私は軍の指揮権の干渉に触れる問題は何もない。しかし私はこの事件は、普通の交渉により円満に調整し得るものと確信し、また後者の課程が日本政府の権益の立場より観て望ましいであろうといふことを主張した。話がこの点にきたとき、花谷少佐は怒った様子をして、刀を抜き、軍の指揮権に干渉することを主張するなら、その結果を負ふ覚悟をせよといつた。彼は更に左様に干渉をする者は、誰でも殺してしまふと言つた。花谷少佐のこの感情の爆発は、会話を途絶し、私は詳細に報告を作成するため事務所に帰り、報告を作成した。

 板垣被告の面前でこの口供書が朗読されたことは、板垣被告にとっては癪に触ることでもあり、また悲しいことでもあったであろう。しかし森島領事が板垣大佐や花谷少佐の暴力に屈してスゴスゴと総領事館に引上げたそのかみの無念さは、それ以上であったことを忘れてはならぬ。花谷少佐は、満洲国官吏や満鉄社員から蛇蝎の如く忌み嫌われていた関東軍の将校で、溥儀執政が満州国皇帝となられた後も、公の席上で「溥儀が」「溥儀が」と呼び捨てにしていたほどの乱暴者であるから、このとき森島領事に対してどんな暴言を吐いたかは、充分想像され得る。森島氏が東京裁判の法廷でこんなことを言ったからといって、私は森島氏を非難する気にはなれない。(下巻 p.83-84)


 著者は続いて統帥権の問題についてこう述べる。

 統帥権の問題は、幣原喜重郎男の証言の中でも触れられているが、私は一般行政権と統帥権とが対立したことが敗戦の最大の原因であったと思う。〔中略〕この対立は、国家が平穏無事であるときには表面にあらわれず、何とか胡魔化してゆけるが、日本が戦争に直面するというような場合には胡魔化し切れない。軍縮に伴う失業でウンと痛めつけられた軍人は、政党政治の腐敗につけ込んで必死に一般行政権に反抗し、統帥権の独立をどこまでも主張する。戦争中にはよく「軍・官・民」という言葉が使われたが、同じ日本国民の間に、統帥権に服する軍人、軍属と一般行政権に服する官民とができてくる。大川周明一派の右傾団が暴動を起そうとたくらんだのは、暴動そのものが目的ではなくして、暴動によって戒厳令を布〔し〕くことが目的である。戒厳令が布かれれば、一般行政権の行使は停止せられ、統帥権のみが行使されることになる。犬養首相が奉勅命令を得て満洲で妄動する軍人を押えようとしたのは、一般行政権を統帥権の上に置こうとしたものである。満洲事変の起る頃には、統帥権独立の思想は、軍のすみずみにまで浸み渡っていた。大阪市で起ったゴー・ストップ事件は、一般行政権と統帥権との対立がその末端において発火したものとして注目に値する。たとえ三名でも軍人が隊伍を組んで行進するのは統帥権の発動である。ゴー・ストップの信号で、巡査が交通を整理するのは行政権の作用である。故に軍人はゴー・ストップの信号を無視してもよいというのが、この事件のおこりである。〔中略〕軍が五・一五事件で暴行した青年将校を普通裁判所の裁判に附することを肯ぜず、軍法会議にかけてこれを庇護したことは、軍が一般行政権を打倒したことであって、日本国家の分裂はここに始まったのである。一般行政権を無視することは天皇をないがしろにすることである。天皇をないがしろにすることは、やがて統帥権の根元である大元帥陛下をもないがしろにすることまで発展せざるを得ない。林銑十郎大将が勅許を得ずして朝鮮軍を越境せしめたことは、大元帥陛下をないがしろにしたものであり、畑元帥が大命既に降下せる宇垣内閣に陸軍大臣を送ることを拒んで、これを流産せしめたことは、天皇陛下大元帥陛下をともにないがしろにしたものであって、日本帝国はポツダム宣言の受諾を待たずしてこの時に既に亡んでいるのである。この一般行政権から離れてしまった統帥権が、糸の切れた紙鳶〔たこ〕のようになって満洲で荒れ狂うたのが満洲事変であって、東京裁判でかたきを取られた板垣、花谷両軍人の帝国外交官侮辱事件も、大阪のゴー・ストップ事件に少し毛の生えたものと見てよい。(下巻 p.84-86)


 さらに、後の方ではこんなことも。

 満洲事変以来、軍閥の勢力が政府のあらゆる部門に浸透し、軍の首脳者が天皇に代わって全国民を支配したというタヴェナー検察官の陳述は、事実である。この点に関しては、タヴェナー検察官の陳述には誇張はない。昭和九年三月、熱河討伐の直後、私は北京に旅行して交民巷の日本大使館を訪れたが、大使館附の衛兵が大使の出入に当って敬礼もしない事実を見て驚いた。統帥権の独立はここまで徹底していたのである。昭和十二年八月、私が満洲国総務庁嘱託兼満鉄嘱託として北京に赴いたときには、武官府、特務部、憲兵隊の勢力は大使館を完全に圧倒し、興亜院ができてからも、軍人と話をしなければ、北京で何ひとつすることができなかった。リッペントロップがこの情勢を呑み込んで大島武官と防共協定の交渉をつづけた事情は、私にはよく諒解できる。総力戦ということを強調しながら、軍人は外交専門家の知識経験を外交に用いることをなさず、実業家にその企業意欲と実行力を伸展せしめることをなさず、何もかも軍人の素人考えでやってのけた。それが失敗に終らない道理はない。軍の威力を背負って天皇の任命した駐独大使をないがしろにし、ついにはその地位を簒奪した大島武官が独外相リッペントロップに奔弄せられ、ゴム人形のように踊らせられた情景は、タヴェナー検察官が法廷に提出したドイツ外交部の機密文書に躍如としているが、この凡庸な軍人が外交のかけ引においてリッペントロップの敵でないことは、わかり切った話である。参謀肩章を吊った若い将校が陸士や陸大で教わったヘッポコ経済学やヘッポコ国際法の知識で、戦時産業や戦時外交が旨くゆくなら、誰も苦労はしない。それくらいのことはわかっていなければならないはずであるのに、軍人があらゆる国家の重要なポストを占めなければ承知ができなかったのは、彼らの増長慢と権勢慾に起因もするが、最も大きい原因は、彼らの眼に軍人以外の日本人が日本人に見えなかったことにある。軍縮によって有能な軍人が多数首にされて以来、軍人は国民を敵として戦ってきた。幣原喜重郎男は、軍人がメチャをやり出した原因は、軍人の国民に対する不満にあると言われたが、私は至言であると思う。軍縮以後の軍人は、統帥権に直属しない日本人を「地方民」と呼び、彼らを自分たちと同じ日本人とは思っていなかったのである。(下巻 p.125-126)


 そしてついには。

 大島大使は、日独の軍事同盟に条件を附せよという日本政府の訓令に従わず、自らの主張する無条件軍事同盟案にして聴かれずんば辞任する旨、有田外相に電報したのみならず、自分の辞任は内閣の倒壊を意味すると脅迫している。日独軍事同盟の不成立によって駐独大使を辞任した後も、大島は強引に暗躍をつづけ、ついに畑陸相と気脈を通じて三国同盟に反対する米内内閣を倒壊せしめた。国法を紊〔みだ〕るの罪は、彼が最も重い。国民裁判にかければ、彼こそは極刑に値するであろう。米内内閣を倒した畑俊六は、更に陸軍の元老として宇垣内閣に陸相を送ることを拒み、これを流産せしめた。大命が降下しても畑がウンと言わなければ内閣はできなかったのであるから、畑は天皇以上の者である。私は畑俊六を昭和の弓削道鏡と呼ぶことに躊躇を感じない。道鏡の天位覬覦〔きゆ〕は未遂に終わったが、畑元帥の天位蔑視は既遂である。後世の史家は、必ずや道鏡に加えたと同じ筆誅を畑俊六に対して加えることであろう。(下巻 p.128)


 もはや、東京裁判をさばいているのか 自らA級戦犯をさばいているのかわからなくなるほどの激越な批判である。

 念のため付記しておくが、ここで名指しされている大島浩(1886-1975)と畑俊六(1879-1962)は、どちらもA級戦犯として東京裁判で起訴された人物である。
 ともに終身禁錮刑を宣告され、独立後に仮釈放された。
 「大元帥陛下をないがしろにした」越境将軍林銑十郎は、戦時中の1943年に死去している。

続く

瀧川政次郎『新版 東京裁判をさばく(上下)』(創拓社、1978)を読んで(1)

2016-03-08 23:00:05 | 大東亜戦争
 先日、古書市で見かけて購入した。
 著者の瀧川政次郎(1897-1992)は、法制史学者で、東京裁判で嶋田繁太郎の副弁護人を務めた人物。
 本書の旧版は、占領終了直後の1952年に上巻が出版され、翌年に下巻が出版された。
 この新版は、奥付によると、1978年の1月に上巻が、同年2月に下巻が出版されたとある。
 さらに、2006年には1冊本として慧文社から出版された。これは現在も購入できるようだ。

 本書の存在は、東京裁判関連の論考で時々出てくるので以前から知っていたが、読む機会はなかった。
 東京裁判批判の古典と言えるだろう本書ではどのような主張がなされているのか、興味をもって読んでみた。

 上巻には、まず「新版への序」があり、「旧序」、そして本編へと続いている。
 しかしその主張は、こんにちでもよく見る東京裁判批判のオンパレードという感じで、やや辟易した。
 曰く、
・「文明の裁き」を名乗るが、戦勝国による報復でしかない
・事後法による裁きであり、正当性はない
・欧米の白人による人種偏見の産物である
・わが国の戦争は侵略ではなく自衛戦争であった
・ハル・ノートは最後通牒であり、わが国は米国に開戦に追い込まれた
等々。
 著者は、「新版への序」では、私がまるで評価していない林房雄の「大東亜戦争肯定論」について、「私の太平洋戦争史観と同一」「東京裁判に対する正しい認識」と述べている。

 しかし、考えてみれば、東京裁判で弁護側に立った著者からそうした主張が出てくるのは当たり前で、それがこんにちまで続く東京裁判批判の源流となっているのだろう。

 ただ、その筆致はかなり荒い。
 これが法律家の文章かと思うほど、感情的に書かれている。
 以前、やはり東京裁判で弁護人を務めた清瀬一郎の『秘録 東京裁判』を読んだことがある。同書にも同趣旨の裁判批判があったと思うが、その時にはこんな荒さは感じなかったように記憶している。

 あまり感心しないで読み進めていった。

 ところが、上巻の半ば過ぎに、こんな箇所があるのが目を引いた。米国人弁護人が国家弁護よりも個人弁護に重点を置いたのに対し、日本人弁護人は個人弁護よりも国家弁護に重点を置く者が多かったという点を説明する中での記述である。
(引用文中の〔 〕内は、ルビ、または引用者による説明である。太字は引用者による。以下全て同じ)

初めて市ヶ谷法廷の金網を張った控室で嶋田被告に面会したとき、この提督が、
 瀧川さん、私はわれわれ海軍の者どもが明治以来長い間努力して建設してきた日本の海軍が、他国を侵略するための海軍であったと言われることが心外でたまらないんです。この申し開きをするために私は生き永らえているのです。どうか瀧川さん、日本の海軍のために弁護して下さい。この嶋田一身の弁護などということは、お考えくださらなくて結構です。
と言われたので、大いに感激した。私はそれまでの長い間、大たい教壇生活を送ってきた人間で、弁護士を開業したのは、東京裁判に関係して以来のことである。故に私に弁護士としての自覚などありようはなく、私はただ日本国民の一員としていわれなき検察団の起訴状を撃破してくれようというのが、私の東京裁判に関係した動機であった。私が東京裁判に関係した当時の感情を率直に告白すれば、われわれは東京裁判の被告となった二十五人のうち、殊に軍関係の被告たちに対しては、大して同情をもてなかった。今や連合軍に捕われの身となって、家族に面会するにも弁護人の手を煩わさねばならなくなったこれら被告人たちは、われわれ弁護人に対して至極鄭重であるが、彼らは戦争中いったいわれわれ法律家をどう見ていたか。この人たちは世が世であれば、われわれ法律家を木の端とまでもみなかった人たちではなかったか。自然科学者は、戦力増強に貢献するから、その卵である理工科の学生は生かしておかなければならぬ。何かあれば軍を批判したがる法科経済科のやつどもは、戦争の役に立たぬどころか、国家の蠧賊〔とぞく〕である。そんな徒輩は早く前線へつれていって殺してしまった方がよい、という考えで、学徒動員を行い、われわれの子弟をして『聞けわだつみの声』の哀歌を遺さしめたのは、どこのどやつか。それを思うと、われわれは腹の底まで煮えくりかえる。「責め一身に」と陛下に御迷惑をかけないようにしようという彼らの心底は殊勝である。しかし、それほど陛下の御為を思うなら、なぜ陛下が我が赤子とまで愛重せられるわれわれの子弟を一銭五厘の葉書と同じように取扱ったのか。「軍馬は一頭最低二百円するから、一銭五厘の葉書一枚でいくらでも集まるお前たちより大切だ」と、よくも面と向かってヌケヌケとほざいたな。そんな不届きな将校がおぬしたちの部下の全部であったとは言わぬが、まさかおぬしたちもそんなことは知らぬとは言い切れまい。われわれはそんな不届きな将校でも、同朋だと思えばこそ、弁護に立つのだ。同邦人に対して罪万死に当る人間でも、敵国人によって裁判せられ、処罰されるということは、いわれなきことである。故にわれわれは、その個人の弁護にも懸命の努力を捧げねばならぬ。そうは考えるものの、私としては個人弁護にはどうしても力が入らない。国家弁護に重点を置こうとした弁護士諸君の考えも、大たいこれと同じようなものではなかったか。(上巻 p.104-106)


 著者は、戦前・戦中期のわが国の在り方について、必ずしも肯定しているわけではないのではないか。当時の軍や政府の指導者層について、むしろかなり批判的な人物なのではないかと気がついた。

 上巻の「あとがき」には、こんな記述もあった。

 武力を持たない国が生きてゆく道は、正義を主張する外にはない。私は今日の日本における国家再建の出発点は、東京裁判を正しく批判することであると思ふ。〔中略〕日本人は須〔すべか〕らく占領される以前の日本人の平常心を取戻して、東京裁判を正しく批判すべきである。〔中略〕しかし、われらの精神的原状回復は、慎重になされなければならない。戦争中の尊大、倨傲に逆戻りすることは、正常心への復帰ではない。われわれ日本人は、むかし「何ものをも忘れず、何ものをも学ばなかった」と非難されたフランス革命当時の保守主義者の愚を再びしてはならない。われわれは、東京裁判の苦い経験から幾多の教訓を学びとらなくてはならない。この際戦争中の極端な右傾思想に逆戻りすることは、この戦争に散華した百万の青年を犬死にさすことである。回復すべきものは、正を正とし、義を義とする国民の正常心である。キーナン検事の尻馬に乗って、軍閥者流を罵倒するやうなことは、もういい加減にした方がよい。東京裁判で罰せられたのは、二十五被告にあらずして、日の丸の旗を打ち振って戦つたわれわれ国民全体である。(上巻 p.224-225)


 どうも、冒頭に挙げたような、こんにちよく見る、古典的かつ単純な東京裁判批判だけの本ではないようだ。
 東京裁判批判本としてはかなり特異な主張が見られるので、当ブログで紹介することにした。

続く

「だまってトイレをつまらせろ」?――朝日新聞政治部次長の奇妙なコラム

2016-03-06 23:38:57 | マスコミ
 今年2月28日付朝日新聞の4面のコラム「政治断簡」は、高橋純子・政治部次長によるこんな内容だった。

だまってトイレをつまらせろ

 「だまってトイレをつまらせろ」

 このところ、なにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふく食べたい」という魅惑的なタイトルの本に教えられた。

 ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。

 ①代表団を結成し、会社側と交渉する。

 ②闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。

 まあ、この二つは、普通に思いつくだろう。もっとも、労働者の連帯なるものが著しく衰えた現代にあっては、なんだよこの会社、信じらんねーなんてボヤきながらポケットティッシュを持参する派が大勢かもしれない。

 ところが栗原さんによると、船本洲治という1960年代末から70年代初頭にかけて、山谷や釜ケ崎で名をはせた活動家は、第3の道を指し示したという。

 ③新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる。

 チリ紙が置かれていないなら、硬かろうがなんだろうが、そのへんにあるもので拭くしかない。意図せずとも、トイレ、壊れる、自然に。修理費を払うか、チリ紙を置くか、あとは経営者が自分で選べばいいことだ――。

 船本の思想のおおもとは、正直よくわからない。でも私は、「だまってトイレをつまらせろ」から、きらめくなにかを感受してしまった。

 生かされるな、生きろ。

 私たちは自由だ。

     ◇

 念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない。お尻痛いし。掃除大変だし。

 ただ、おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。

 他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌いあげる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない。

 気がつけば、ああ合唱って気持ちいいなあなんつって、声を合わせてしまっているアナタとワタシ。ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる。

     ◇

 「ほかに選択肢はありませんよ――」

 メディア論が専門の石田英敬・東大教授は2013年、安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。

 「この道しかない」

 固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。

 近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?

 はい、もう一回。

 だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。


 私は朝日新聞を購読しているのだが、当日紙面で読んで唖然とした。

 翌日、通勤電車の中でtwitterを見ている時、ふとこのコラムのことを思い出した。
 ツイートを検索してみると、絶賛の声が多くてびっくりした。批判的な声はまるで見当たらない。
 一部をリツイートしておいたので、現物が気になる方はそちらを見ていただきたいが、

《安倍政治の本質を突く暗喩に満ち、政治部記者もこうした切っ先鋭い視点で記事を届けてもらわねばと思う。》

《良コラムと読んだ。やるじゃないか。》

《これ結構良かった。無論トイレをつまらせるのは掃除の人が大変だけど。生かされるな、生きろ。》

《これ面白い。権力側の横暴に対し、善処をお願いするのではなく、その横暴がもたらす結果を突きつけてやれと説いた、ある活動家の思想を紹介。》

《言葉が生きてるよいコラムです》

《いや実に爽快だなあ。心に浮かぶ雲を吹き飛ばすような文章。いまの朝日にこんな感性しかも女性の政治部次長がいるとは思わなんだ。いやもう、惚れちゃいそうww》

《中国の「上に政策あれば下に対策あり」と同じ、民衆によるサボタージュ戦略。》

《こういう記者の比率が増えてくると朝日もガーディアンを目指せる…かもしれない。知らんけど。》

《冨歩さんから聞いた「JAM」に似ている。対案を示す必要はない。別のシステムを自ら構築する必要もない。システムに異物を挟めば、流れは変わる。》

《昨年のインタビュー記事も面白かった。この人の記事をもっと読みたい。》

《これは、政権批判です。私は支持します。》

《軽やかな文章。閉塞感あふれる世の中だけに、なおさら爽快。》

 いや大したものだ。
 私のように唖然とさせられる者は、読者の中では異端なのだろう。

《午年総理に話しても聞く耳持たずなら念仏を唱えずに黙ってトイレを詰まらせた方が良さそうだ!安倍手法はヒトラーだけでなく893にも学んでいるように見える》

 紙を用意しないならトイレをつまらせるという実力行使の方がよほどヤクザの手法ではないかと思うが。

 さて。
 「だまってトイレをつまらせろ」。
 鉄道の駅のトイレって、最近はそうでもないようだが、ひと昔は、当然のようにトイレットペーパーは置いておらず、ポケットティッシュの自動販売機が設置されていた。
 利用者は自分であらかじめティッシュを持参して用を足すか、持っていなければ買って下さい、ということだろう。
 そこで、「チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな」と、新聞紙でふいて流してトイレをつまらせてもいいのだろうか。
 そうすりゃ鉄道会社も紙を用意するようになるだろう?
 ほかの利用者はどうなる。
 修理の費用は誰が負担する。
 そもそもつまることを見越して新聞紙を流せば器物損壊という犯罪になるだろう。
 と、まず思った。

 いや、トイレをつまらせろとは例え話であって、高橋次長も
「念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない」
と言っているではないか、ただ、そうした自由な精神のありようの大切さを示しているのだ。
 ――といった反論が有り得るだろう。

 しかし、他人の迷惑をかえりみない自由なんてものが、そんなに推奨に値するのだろうか。
 船本洲治という活動家を私は知らない。しかし、おそらく彼が言っているのは、あくまで経営者への抵抗としてそうした手段もあるということだろう。
 それを、「何で拭こうがそもそも自由……という精神のありよう」一般の話に広げて、何をどうしたいのだろうか。

 給料が少なくて食費に困っている者が食べ物を万引きして、給料が十分でないなら万引きせざるを得ないんだ、十分な給料をよこせば万引きをやめてやるよ、と犯人が開き直ったとして、そんな言い分を誰が認めるというのか。

 朝日の購読者である私が、朝日新聞のこのコラムとこの記事とこの投書が気に食わん、こんなものを新聞に載せてくれと頼んだ覚えはない、これらの分を新聞代から差し引いてくれ、と主張すれば、ASAはそれを受け入れてくれるのだろうか。

 私はこのコラムを読んで、「あらゆる犯罪は革命的である」という昔の文芸評論家の本のタイトルを思い出した。
 毛沢東が、革命とは、お上品で、穏やかなものではないと述べたことも思い出した。
 「きらめくなにか」「精神のありよう」を賞賛し推奨してゆけば、結局そういう話になるのではないか。

 そして、このトイレをつまらせるという話が、後段の安倍政権批判とどうつながるのか、私にはまるでわからない。
 政権打倒のためには、社会秩序を守るなんてお行儀良さは少々無視してもかまわない。
 そういう話につながるようにしか思えないのだが、それが高橋次長の本意なのだろうか。
 高橋氏個人がどのような政治観や人生観をもとうが、それは氏の自由だ。しかし、それがもし氏の本意なら、それは、大新聞の役職者が紙面で口にするにふさわしいことなのだろうか。

 安倍政権のメッセージが「ほかに選択肢はありません」というものなのかどうか、私は知らない。
 しかし、「この道しかない」と言われるのが嫌だというなら、ほかの道を示せばよい。
 すぐに示すことができないのなら、時間をかけて考えればよい。
 ほかの道を示すことも、それを考えることもなく、為政者に「この道しかない」と言われるのが嫌だからって、それで何故、
「だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。」
となるのか、そしてそれが何故もてはやされるのか、私には全く理解できない。
 それって、代案は出さないけど、嫌なものは嫌なんだという、単なる好悪の表明でしかないのではないか。
 だから何だというのか。そんな記者個人の好き嫌いを知るために、私は新聞を購読しているのではない。

「道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるもの」
 そんなことはない。一人が歩いただけでは道はできない。多くの者が同じルートを歩くことによって、初めて道ができるのだ。
 だから、ここに道があるということが、後に続く者にわからなければ、道はできない。
 国家をどのように運営していくべきか、為政者がそれを明らかにしなければ、国民はその是非を判断することすらできない。
 なのに、高橋次長は、まるで道を示さない政権が良い政権であると考えているかのようだ。

 では、仮に安倍政権が道を示さず、わが国は将来どうなるかわかりませんが、まあどうにかなるでしょう、自分の足で歩いているうちに自ずと道はできるでしょうからと説いて、何ら将来のプランを語らなければ、高橋次長は
「生かされるな、生きろ。私たちは自由だ」
「ぼくらはみんな生きている」
と言って、それに賛同するだろうか。
 絶対にそんなことはない。為政者たる者、国家の進むべき道を示せ、それが政権を託した国民に対する責任ではないかと絶叫するに違いない。
 批判のための批判。くだらないことこの上ない。

 また、
「他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を……朗々と歌いあげる」って、人ごとのように言ってるけど、これってまさに、朝日新聞のようなメディアがこれまでやってきて、今も続けていることじゃないの。
 六〇年安保が通ったら大変だ、七〇年安保が通ったら大変だ、PKO法が通ったら大変だ、イラク特措法が通ったら大変だ、特定秘密保護法が通ったら大変だ、集団的自衛権行為容認は大変だ、安保法制が大変だ、国民の人権が損なわれる、いつか来た道に戻ることになると、さかんに煽り立ててきたじゃないの。

「うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない」
って、まさにそれあなたがやってることじゃないの。

 はい、もう一回。

 だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。


って、シュプレヒコールを笑顔で促しているじゃないの。

 早野透や若宮啓文が去り、星浩がニュースキャスターへの転身でこれまた去ることとなり、朝日の政治記事に少しは変化が見られるかと期待していたのだが、まだまだその種の人材は尽きないようだ。