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瀧川政次郎『新版 東京裁判をさばく(上下)』(創拓社、1978)を読んで(4) 松岡洋右・近衛文麿批判

2016-03-11 21:53:30 | 大東亜戦争
承前

 下巻の後半、記述は日米交渉へと進む。
 ここでの松岡洋右への批判もまた激越である。

 三国同盟をした松岡は三国同盟を締結することによってアメリカの参戦を防ぎ得るものと考えていた。彼が野村大使の赴任に当って外務大臣として野村に与えた訓令には、「既に日米間直接諒解提携の途なしとせば、英米以外の国と連結協力し、たとへこれを圧迫脅威しても、その対日開戦または欧洲参戦を予防せざるべからず。これ独り皇国自衛のためのみならず、実に人類生存のためなり。」とある。日本とドイツが手を握ればアメリカに脅威を与え得ると考えたのは、彼がナチ・ドイツの実力を買い被り、独ソ開戦のあかつきには数カ月にしてモスコーは陥落するものと誤算していたからであり、脅威を与えることによってアメリカの参戦の意思を圧伏できるものと考えていたのは、アメリカの国力と国民性に対して無理解であったからである。日本はこの結果この阿呆な外交官のためにどれだけ損をしたか知れない。個人として国民を今日の悲境に陥れた責任を最も多く負わなければならない人は、かれ松岡洋右その人であろう。外交畑の反逆児である彼は、軍の急進派に推されて国際連盟に使いして五十三対一の惨敗を蒙り、日本の国際連盟脱退を余儀なくせしめた。度重なる中国軍閥の不法と執拗なる中国の排日行為にジャジャ馬のように満洲で荒れ廻る日本に対しては、世界に同情をもつ国もあったのであるから、彼が謙遜なる態度で列国に訴えれば、日本があれほどの袋叩きに遭うこともなかったであろうに、日本の国粋主義者軍国主義者に迎合せんとした彼は、日本人が溜飲をさげるようなタンカを切って会議に対する各国の代表者を徒に憤激せしめた。日本政府は、日本の立場をよく宣伝せしめるために、彼に相当の機密費を持たせてやったのであるが、彼はそれを外国の新聞記者にはバラ撒かず、日本の新聞記者にバラ撒いて自己を偉大に宣伝させ、凱旋将軍のような顔をして日本に帰ってきた。権謀外交家をもって自ら任じていた彼は、権謀外交の本家本元のリッペントロップにあやつられてナチ外交の驢馬となり、スターリン首相の一■〔■は目へんに分。いっぱん〕に魂を天外に飛ばし、最もあてにならない不戦条約を締結して得々として帰ってきた。数十万の同胞が極寒の地に労役せしめられて帰国の望みも打ち絶えるという有史以来のむごたらしい悲運も、彼の底知れない暗愚と功名心の生んだ結果である。日英の東京会談が東京怪談に終ったのも、彼が「俺が出なければ纏〔まと〕まらぬ」という自負心を満足させるために邪魔立てしたためである。彼の横車のために第二次近衛内閣が総辞職したことは、前に一言したとおりである。私は後世の日本の歴史家が、この男を「昭和の姦物」、「日本の秦檜」として筆誅を加える日のあることを信じて疑わない。(下巻 p.148-150)


 松岡もA級戦犯として起訴されたが、戦時中から結核を病んでおり、開廷の翌月に病死した。

 日米交渉についてのハルの口供書が、日本側は法律や文官の約束を軍部が守らないという表裏的言動をなしていたと指摘していることについて。

 日本には参謀本部と内閣の二つの政府があり、出先官憲には大公使館と武官府との二つがあって、それが互いに相対していたのであるから、日本を一国と見る諸外国が、日本の言動を表裏相反するものと見るのは当然である。表裏背反、朝令暮改で、信を諸外国に失っても致し方がない。木戸内府が「大事を誤るこの輩なり」と憤慨しても、この徒輩を処罰することもできないではどうにもならない。軍が官を圧しているなら、いっそ軍をして一国を支配させてみたらどうだ、軍も国政の責任をとる地位に立ったら、そう無茶もやるまいと考えて、後継の内閣首班に東條を推薦した木戸内府の苦衷も察すべきである。山県有朋が、統帥権を独立せしめたのは、原敬によって薩長藩閥政府が実権を議会、政党に握られてしまったことを残念に思い、せめて陸軍の統帥権だけは自己の手に収めておきたいと考えたからであろうが、その結果は日本を亡ぼすに至った。山県有朋は、維新の元勲としてよりは、軍閥の元老として日本歴史の上に記録せらるべきである。維新の元勲らは、勤王に名を藉〔か〕って倒幕を行ったが、彼らの目ろんだものが薩長藩士の政府を作ることにあったことは、これによっても明らかであろう。薩長は倒幕のためには手段を択〔えら〕ばなかった。彼らはイギリスの力をかりて幕府を倒した。甲鉄艦即ち後の「品川乗り出すあづま艦」がもし榎本武揚の率いる幕府の海軍に帰していたら、薩長の海軍は恐らく、金華山沖の戦で殲滅されていたであう。薩長のためを第一に考え、日本国家のためを第二義的に考えていた彼らは、統帥権を一般行政権から分離せしめることによって、とうとう日本の国を亡ぼしてしまった。敗戦の原因は、維新建国の原理にまで遡って考察しなければならない。私はこの意味で明治維新史の再検討を絶叫する。日本を救ったものは、フランスの援助を拒んで将軍職を辞した徳川慶喜その人である。「勝てば官軍」で、力をもってすれば道理はひっこむという薩長の考えは昭和の軍閥に承け継がれ、武力を中国に用いて自ら亡びたのみならず、二千年の歴史をもつこの国を目茶苦茶にしてしまった。敗戦によって我々は大いに反省せしめられたが、その反省は過去一世紀に遡って明治維新の反省にまで及ばなければ本当ではないと思う。(下巻 p.153-155)


 法廷で朗読された近衛文麿の手記が「第三次近衛内閣総辞職の顛末」の箇所で、東條陸相が対米開戦を主張し、及川海相は総理一任とするので、自分としては交渉に目途ありとする豊田外相の説を採る外はないと述べたところ、陸相は、総理が判断を下すにはまだ早い、今一度考えてもらいたいとして、散会したが、もし陸相説を受け入れて「戦」を決定していれば、海相もこれに反対するわけにいかず、「正に君国の一大事を招来するとこであつた。顧みて実に戦慄を禁ぜざるものがある。」と述べていることについて。

木戸日記には、東條陸相は「首相が裁決を下すのはまだ早い」といって、再考を求めた後、日米交渉においては、
 イ、駐兵問題及び之を中心とする諸政策を変更せざること。
 ロ、支那事変の成果に動揺を与えざること。
をもって外交成功を収め得ることに関し、略〔ほぼ〕統帥部の所望時期までに確信を得ること、右確信の上に外交の妥結方針を進めること、右決心をもって進むをもって、作戦上の諸準備は之を打切ることを提案し、各員これに同意したことが記されている。この重大なる申合せに関する記事が手記に欠けていることは手記が開戦の責任を東條一人に負わしめんとする魂胆によって作られたものであることを語っている。木戸日記によれば、支那事変の効果を無に帰せしめるような妥協はできない、アメリカがあくまでも中国からの全面的撤兵を固執するならば、開戦もまた已むなしという考えになっていたのは、近衛首相を含む会議の全員であったことが知られるが、この申合せの記事を欠く近衛手記の記事によれば、かく考えて開戦已むなしと主張したのは東條陸相ただひとりということになり、東條のみが開戦の責任者であるが如き感を懐かしめる。〔中略〕公は自分が陸相の主張を容れて「戦」に決定を与えなかった功を誇っている。しかし、われわれは、これを公の功績として認め得ない。公自らも「愈々和戦いづれかに決すべき問題に立つに至った。」といっているのであるから、「戦」に決定を与えなかったというだけでは事は済まないのであって、「戦」に不賛成ならば「和」に決定を与えねばならない。近衛公が「和」に決定を与えたというなら、公の功績を認め、公は平和愛好者であったと後世に伝えてよい。しかし、「戦」にも「和」にも決定を与えなかったというのでは、平和主義者ということにはならない。平和主義者というのは、平和を守るためには、死を賭して戦う覚悟のある者をいうのであって、戦を好む者との戦を避ける者は、平和主義者ではない。国家が和戦の関頭に立つ重大なる時期に臨んで、天皇の親任を受けて国務総理の重責にある者が、「戦」にも決定を与えず「和」にも決定を与えなかったということは、曠職〔こうしょく。職務をおろそかにすること〕の甚だしいものであって、上は以て天皇の寄託に対〔こた〕うる能わず、下は以て国民の望みに対うる能わず、その罪万死にあたる処置ではないか。この大罪を犯してその罪を自らさとらず、これを己が功績のように言っているこの男は、どこまで没分別か底が知れない。国家の安危に係わるこの重大な秋〔とき〕にあたって、こんな男が首相の地位にすわっていたのかと思うと、「顧みて実に戦慄を禁ぜざるものがある。」こんな男を国家の重大時期に首相にもったということは、日本国民の最大の不幸であった。国家の盛衰は人に依るのであって、物によるのではない。物さえ豊富にあれば国が興るように考える経済史観は史実に合わない。人類五千年の興亡史を通観してみるに、「人」なくして国興ったためしなく、「人」あって国亡びたためしもない。〔中略〕これほどの没理義者、これほどの無意力者を最枢要の地位に据えて、国が亡びない道理がない。日本国における近衛公の地位が高かっただけに、それだけこの人の国を破綻に導いた責任は重い。(下巻 p.162-164)


 近衛批判はまだ続く。

 風見章氏によって描かれた公の人柄は、そのヒイキ目を差引いても、好意のもてる好人物である。公は華冑の出であるに拘らず、非常に民主的で、人の言うことをよく聴いた。頭脳もまた明敏で、ものの理解も早かった。しかし、公はその理智で判断したものを行う意志力なるものを全然持ち合わせていなかった。あらゆる人間の美徳を備えていても、意志力をもたない人は、鼻の欠けた美人同然である。むかし斉の桓公は、東郊に遊んで郭氏の墟を見て、郭氏はどうしてその国亡んで廃墟となったと管仲に問うた。管仲対〔こた〕えて「郭氏は善を善とし、悪を悪とす」といったので、桓公は「善を善とし、悪を悪とすることは正しいことではないか。それでどうして国が亡んだのだ。」と反問した。このとき管仲が対えていうには、「善を善として行う能はず、悪を悪として去る能はず、これ郭氏の墟となる所以なり。」といったという。近衛公は、まことに善を善として、悪を悪とするの明はあったかも知れぬ。しかし、公は善を善として行い、悪を悪として去るだけの意志力を欠いていた。公には皇室を思う念もあり、軍の悪いこともよくわかっていた。しかし、公は皇運を扶翼し、軍の横暴を抑えるために積極的に行動する意思力をもたなかった。これその総理する日本国を廃墟と化せしめた所以である。公が緩急の時に当って職を曠〔むな〕しうしたのは、不惜身命の覚悟がなかったからであって、無法な軍人におどかされると、公のブレーンが苦心して立てた計画も一瞬にして消え去った。理智明かなる故に、甲の進言を今は嘉納しても、明日乙が更に良策を進言すれば、すぐにそれに乗り替えた。甲はその進言が反故にされたのみならず、その人までも弊履の如く捨て去られたことを知らねばならなかった。故に甲のブレーンは長続きがせず、幾度か人を代えた。最後まで側近にいた者は茶坊主のような人間ばかりで、気骨のある人間は寄りつかなくなってしまった。公が大衆に人気があったのは、大織冠鎌足公の直系というその尊貴なる門閥の故であり、公が三度まで首相の印綬を帯びるに至ったのは、この風船玉のような男なら俺の自由になると考えて軍がこれを利用したからである。長袖〔ちょうしゅう。公卿や僧侶などをあざけっていう語〕がいくさの邪魔にこそなれ、糞の役にも立たないことは、保元の乱以来試験済みであるのに、こんな男に摩訶不思議な神秘力でもあるように考えて、政治的経験も浅いこの若造を総理に戴いた国民にも責任があるが、そうした国民の貴族に対するあこがれから湧いたこの男の人気を利用して、これを軍が弱めようとかかっている一般行政権の首班にもってきた軍が一番わるい。軍を抑えなければならない重大な時機に、軍が利用するのに最も好都合な人物がこんな所にいたとは、何という国民の不幸であろう。この男も、桜かざして今日も遊びつといったような太平の世に生れてきて、菊作りでもやっておれば、開明されたよいお公卿さんであったろうに、神武以来の国家重要事に生れ合わしたのは、たしかに彼自らが嘆ずるが如く「運命の子」である。しかし「運命の子」というのは、われわれが言うことであって、彼自らが言うことではない。彼としては万死以て君民に謝すべきである。それをいい気になって敗戦のあとまでも、開戦の責任は全部東條にあって自分にはないような涼しい顔をしていることが、私には気に喰わない。この時海軍が「総理一任」といっていることは、「戦争はやれない」ということなんだから、公に不惜身命の覚悟があれば、「和」に決定を与えられなかったこともなかろうと思う。
 当日の木戸日記にも「陸相は日米諒解案の成立を見込なしとして重大決意を要望す。但し成立に確信ありとの納得し得る説明を聴くを得ば、勿論戦争を好むものにあらず。」とあるのであって、東條といえども遮二無二戦争にもって行こうといっているわけではない。この時には、陸軍も支那事変の処置に手を焼いて相当弱気になっていたのであって、近衛手記、十月十四日の条には、この日の午後、武藤軍務局長が富田書記官長の所へ来て「どうも総理の肚が決らないのは、海軍の肚が決らないからだと思はれる。で、海軍が本当に戦争を欲しないのならば、陸軍も考へなければならない。しかるに海軍は、陸軍に向つては表面はさういふことは口にしないで、ただ総理一任といふことを言つている。総理の裁断といふことだけでは、陸軍の部内を抑へることは到底できない。しかし海軍がこの際は戦争を欲せずといふことを公式に陸軍の方に言つて来るならば、陸軍としては部下を抑へるにも抑へ易い。何とか海軍の方からさういふ風に言つて来るやうに仕向けて貰へまいか。」と言ったことが見える。公に軍人に殺される覚悟があれば、「和」を裁決すべきであった。公がこの時「和」を裁決しても、日米諒解案は東條の言うとおり結局成立しなかったかも知れぬが、アメリカの東洋に対する野望はもっとハッキリ顕れ、国民の奮起は一層のものがあったと思う。公がこの時「和」を裁決すれば、公は恐らく犬養首相と同じ運命を担ったであろうが、戦争がすんでから荻窪の自邸で毒を仰いで死ぬよりは意義があった。(下巻 p.164-167)


続く


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