(承前)
本書の構成は、目次を引用すると、次のようになっている。
まず上巻。
(※は旧版にはなく新版に際して追加されたと思われる箇所)
下巻はこうだ。
ご覧のように、検察側立証の途中で終わっている。
私はてっきり、この上下巻で東京裁判の全体像が扱われているものと思っていたので、下巻の目次を見て驚いた。
この点について、著者は下巻の「第五齣 日・米英戦争」の末尾で、次のように説明している。
そして、本書の刊行と今後の執筆予定については、下巻の「跋」で次のように述べている。
そして、さらに「あとがき」で
にもかわらず、続刊が出た様子はない。
「読者諸彦の絶大なる御支援」が足りなかったのだろうか。端的に言うと、売れなかったのだろうか。
占領終了から間もない時期、これほど徹底した東京裁判批判は世にはばかられたのだろうか。
しかし、著者は、新版下巻に附録として収録された「東京裁判の回顧」という文で、次のように述べている。この「東京裁判の回顧」は昭和30年2月に『歴史教育』第3巻第2号に掲載されたものだという。
「今日では私の東京裁判に対する観方が国民の常識とな」っているのなら、続刊を出すことに問題はなかったはずだ。
また、著者は単なる作家やライターではなく、大学教授である。失礼ながら、大学教員が売れない本を出版することはままあるはずである。
國學院大學のサイトの「國學院大學130年史」によると、著者は「100冊を超える編著書を世に送り出している」という。必ずしも出版が困難だったとは思えない。
にもかかわらず、何故続刊は書かれなかったのだうか。
理由の一つは、この上下巻で、著者が意図していたことはおおむね言い尽くしてしまったということがあるだろう。
そしてもう一つは、前回も述べた、東京裁判に対する著者のアンビバレントな心理によるものではないだろうか。
連合国の所業は確かに腹立たしい。しかし、裁判の経過を詳細に検討すると、わが国の軍や指導層の行動をも批判せざるを得なくなってくる。それではもはや「東京裁判をさばく」とは言えなくなってしまう。
それで これ以上続ける意欲を失ってしまったのではないだろうか。
私はそう推測する。
先に引用した、下巻の第五齣の末尾に「書いているうちに私自身が昂奮して言わなくともよいことまで言ってしまった気がする。」とあるのも、単に記述が冗長に過ぎたというだけでなく そうした含意があるのではないだろうか。
著者は、新版下巻の「新版への跋」(昭和52年12月15日付)で、附録として収録された小林俊三「瀧川政次郎著『東京裁判をさばく』の再刊に際して当時を回想する」に関連して、
と述べている。
ということは、この戦争によって学ぶ取る何物かはあったし、日本の反省すべき点、改むべき事はあったと考えているということだろう。
本書について検索してみたが、有意義な書評は見当たらなかった。
櫻井よしこのサイトに掲載されている「認識せよ、東京裁判の日本憎悪」と題する文章(『週刊新潮』の2005年6月16日号に掲載されたという)が、本書を取り上げていた。
例によって、ここには本書の内容の一面しか挙げられていない。
確かに本書からは、櫻井の言うように「東京裁判を法廷で見守り、日本のために戦った先人の無念が、心臓の鼓動を聞くかのように伝わってくる」。
だがそれと同時に、何故わが国はこんな敗け方をしたのか、何故こんな膨大な犠牲をはらうことになったのか、何故こんな愚かな者どもが指導者の地位に就いてしまったのかといった憤りをも私は痛切に感じる。
私が冒頭で述べた筆致の荒さも、そうした憤懣やるかたない思いの現れと考えれば納得がいく。
私は櫻井のように本書が「日本人必読の書」だとは思わない。
だが、近年の安易な東京裁判批判論はもちろん、裁判を体験した清瀬一郎の『秘録 東京裁判』や富士信夫『私の見た東京裁判』などとも異なる、実に特異な書であることは間違いない。
東京裁判やわが国の戦中期の評価に関心のある方には 是非一読を勧めたい。
(了)
本書の構成は、目次を引用すると、次のようになっている。
まず上巻。
(※は旧版にはなく新版に際して追加されたと思われる箇所)
※新版への序
旧序
第一部 東京裁判劇総まくり
舞台と脚本
一 運命の地 市ヶ谷
二 舞台と奈落――日本人使用すべからず――
三 片耳の裁判官――判決を懐にした裁判官――
四 神聖ならざるアンパイアー
五 劇場の看板に偽りあり
六 開幕
七 まず脚本を
八 脚本の主題は「報復」
九 脚本の色調は「人種的偏見」
番附
一 登場俳優
二 花形役者
三 演出の妙と配役の妙
――ウエッブ裁判長とキーナン主席検事――
四 東條・キーナンの一騎打ち
五 検事コミンズ・カー、タヴェナー、ゴルンスキー
――劇中冷戦はじまり――
六 被告重光葵をめぐって
――キーナン検事の悔悟――
七 管轄権の論争と裁判長の忌避
――東京裁判劇の正念場――
八 清瀬博士の冒頭陳述
九 ブレークニー弁護人の凄味とローガン弁護人の諧謔味
――圧殺された原子爆弾論議――
一〇 少数意見への朗読要求
一一 鵜沢弁論 ――〝西洋は世界の尺度〟か――
一二 硬骨漢スミス弁護人
一三 ほんとうのことを言ったカニンガム弁護人
一四 証人の大物溥儀皇帝
一五 東京裁判のモンスター ――証人業 田中隆吉――
一六 証人石原莞爾と影佐禎〔原文では示へんに貞〕昭
解説
一 ~ 二一 〔略〕
第二部 劇後劇・劇外劇早めくり
〔略〕
第三部 東京裁判劇の奥にひそむもの
一 平穏に興行された東京裁判劇
――断罪の瞬間と七戦犯の最後
二 ポツダム宣言受諾と国体護持
三 大森拘禁所における東條閣僚の申合せと日本人弁護人の合議
四 天皇はどうして戦犯を免れたか
五 連合国の天皇戦犯論 ――中ソ二国の執拗なる追求――
六 ウエッブ裁判長はなぜ一時帰国したか
あとがき
※附録
東條元大将の遺言、その他 花山信勝
下巻はこうだ。
第四部 東京裁判劇の進行
幕あき
一 開廷
二 誤訳問題の波瀾
三 大川狂躁曲
序幕の正念場
一 ウエッブ裁判長に対する忌避の申立
二 管轄権をめぐる白熱の論戦
第一幕 検察側攻撃
一 起訴状の提起
二 起訴状の内容
三 キーナン検事の冒頭陳述
四 検事側立証
第一場 一般段階
第二場 満洲段階
第三場 支那段階
第四場 ソ連段階
第五場 太平洋段階
第一齣 対満対華経済侵略
第二齣 一般的戦争準備
第三齣 三国同盟
第四齣 仏印進駐
第五齣 日・米英戦争
跋
あとがき
※附録
東京裁判の回顧 瀧川政次郎
瀧川政次郎著『東京裁判をさばく』の再刊に際して当時を回想する 小林俊三
※新版への跋
ご覧のように、検察側立証の途中で終わっている。
私はてっきり、この上下巻で東京裁判の全体像が扱われているものと思っていたので、下巻の目次を見て驚いた。
この点について、著者は下巻の「第五齣 日・米英戦争」の末尾で、次のように説明している。
日米交渉の部門は、ヴァランタイン証人の退廷によって終りを告げた。次は東京裁判のヤマである真珠湾部門であるが、一巻の書物としての予定枚数も既に尽きた。ヴァランタイン証人の反対尋問によって、この一冊も漸く結論らしきものができた。私の史論も、この反対尋問のシーンで最高潮に達した感がある。この辺でひとまず筆を擱〔お〕いて、この次の巻は東京裁判のヤマ「真珠湾」から書き出すこととしよう。
しかし、ヤマを前にして筆を投げることは「あとは明晩のおたのしみ」という浪花節かたりのようで、著者としては気がひける。第一幕「検察側第一回攻撃」の終りまでは、この巻に収めたいのが、私の希望であり、また計画であった。書いているうちに私自身が昂奮して言わなくともよいことまで言ってしまった気がする。読者諸君に対してまことに申訳がない。責めを塞ぐために、この幕の終りまでの梗概を附録して置く。
第五場第六齣後段の「真珠湾」は、真珠湾攻撃の計画、準備に始まって、真珠湾戦闘効果に終る。〔中略〕戦争の責任を論ずるこの裁判としては、「真珠湾」よりもここに述べた「日米交渉」の方が大切なカンどころであるが、裁判によって引出された史実としては、真珠湾攻撃が最も大きい事件であり、また最も興味のある事件である。裁判よりは戦闘に重点を置いてこの一齣を叙すつもりである。
第五場第七齣は、「カタバル、パレンバン」であって、日・英蘭の戦争の段階である。〔中略〕
次は第六場「残虐行為」の段階であるが、〔中略〕マレー、ビルマ、比島の各地から召喚された証人の語る血腥〔ちなまぐさ〕い証言には、われわれ在廷者は耳を掩〔おお〕うた。東京裁判の中で最も不愉快な一幕である。〔中略〕
第七場は二十五被告〔中略〕の各個人の責任を論ずる段階であって、一月二十一日に始まって同月二十四日に終った。かくして検察側の立証は全部終了し、前後九か月にわたる第一幕は緞帳を下したが、この間開廷一六〇日、延時間六七〇時間、喚問された証人九三名(延一〇三名)、登録された証書二、二八三通、法廷速記録英文一六、〇〇〇頁余に達した。(下巻 p.212-214)
そして、本書の刊行と今後の執筆予定については、下巻の「跋」で次のように述べている。
私は昨年七月本書の一冊を書き上げて、八月一日に発刊した。その後引きつづいて第二冊を書き上げるつもりであつたが、八月二日に意外な事実が身辺におこり、私は毎日新聞社を相手に名誉毀損の訴訟を提起しなければならないことになつた。そのめ約半歳に亙って不愉快な日々を送つたので、終〔つい〕に今日まで筆をとることができなかつた。〔中略〕御愛読を賜つた読者諸君にはまことに申訳がない。〔中略〕
私は本書第一冊のあとがきに「第一冊で東京裁判の開幕から検察団の攻撃の段階までを叙するつもりであつた。その前に全体の概観と、東京裁判に用ゐられた耳馴れない法律用語を説明しておかうと思つて筆を執つたところ、それが長くなつてしまつて、たうとうそれだけで一冊の分量になつてしまつた」と書いたが、この第二冊でも同じやうな誤りを繰り返してしまつた。開幕以前をはぶいて、開幕、序幕、第一幕と書き進んだが、たういう第一幕の八合目あたりで紙がつきてしまつた。しかし、第一幕第五場の「日米交渉」の一齣で、弁護団の大反撃の場面があらはれ、攻防の両面があらかた知られるやうになつた。私はこれを一冊の結論にするつもりでヴァランタイン証人(アメリカ国務省極東義務局長、ハル国務長官顧問)の反対尋問に最も力を注いだ。上巻と併せて読んで下されば更に結構であるが、この一冊だけを取り離して読んで戴いても、東京裁判がどんなものであつたかが、大略知られる。読み物としては、第一冊も第二冊も独立して首尾一貫のものになつてゐるつもりである。第三冊も同じように一冊だけでも独立して読めるやうに書くつもりである。二年半も続いた東京裁判は、事件も多いし、理窟も多い。その背筋だけを新聞記者の筆で簡潔にまとめた朝日新聞社の「東京裁判」ですら全八冊になつてゐるのであるから、これを二冊や三冊でまとめるといふのは、初めから無理な注文である。況やこれに批判の端を加へて「さばく」といふのは、難事中の難事である。私は第一冊のあとがきで、「これから先どうなつてゆくのか、どれほどの分量になるのか、自分でも見当がつかない」と書いたが、第二冊を書き上げてもまだ見当がつかない。亡羊の歎とはまさしくこれを言ふのであろう。(昭和二十八年四月)(下巻 p.215-216)
そして、さらに「あとがき」で
本書は最初上下二巻にするつもりであつたので、第一冊を「上巻」とした。従つて第二冊はこれを「下巻」としなければならないわけであるが、第二冊ではおはりにならなかつたから、下巻とするわけにもゆかぬ。第三冊で終るという見当もつかないから、「中巻」ともつけ難い。しかし、予告は上下二巻であつたのであるから、とりあへずこれを「下巻」とする。第三冊が出来たら、これを「続巻」として出すつもりだ。第四冊は「再続巻」第五冊は「三続巻」だ。そのうちには終りにならう。幾冊になるか知らぬが、できるだけ要点を摘んで行きつくとこまで行き着いてみるつもりである。読者諸彦の絶大なる御支援を切にお願いする。(下巻 p.217)
にもかわらず、続刊が出た様子はない。
「読者諸彦の絶大なる御支援」が足りなかったのだろうか。端的に言うと、売れなかったのだろうか。
占領終了から間もない時期、これほど徹底した東京裁判批判は世にはばかられたのだろうか。
しかし、著者は、新版下巻に附録として収録された「東京裁判の回顧」という文で、次のように述べている。この「東京裁判の回顧」は昭和30年2月に『歴史教育』第3巻第2号に掲載されたものだという。
私は、昭和二十八年八月『東京裁判をさばく』二巻を上梓して、東京裁判が裁判というに値しないほど不正義不合理なるものであることを明らかにし、東京裁判が国民の心理に与えた悪影響を除き去ろうと意図したが、占領政策に毒せられた当時のジャーナリズムは、これを日本一の悪書と罵り、時勢に便乗する批評家達は、一斉に逆コースの烙印を押した。それからまだ二年とは経っていないが、今日では私の東京裁判に対する観方が国民の常識となり、批評家達は国民の間に沛然として起った反米感情に便乗して、私以上にアメリカをこき下ろしている。(p.221)
「今日では私の東京裁判に対する観方が国民の常識とな」っているのなら、続刊を出すことに問題はなかったはずだ。
また、著者は単なる作家やライターではなく、大学教授である。失礼ながら、大学教員が売れない本を出版することはままあるはずである。
國學院大學のサイトの「國學院大學130年史」によると、著者は「100冊を超える編著書を世に送り出している」という。必ずしも出版が困難だったとは思えない。
にもかかわらず、何故続刊は書かれなかったのだうか。
理由の一つは、この上下巻で、著者が意図していたことはおおむね言い尽くしてしまったということがあるだろう。
そしてもう一つは、前回も述べた、東京裁判に対する著者のアンビバレントな心理によるものではないだろうか。
連合国の所業は確かに腹立たしい。しかし、裁判の経過を詳細に検討すると、わが国の軍や指導層の行動をも批判せざるを得なくなってくる。それではもはや「東京裁判をさばく」とは言えなくなってしまう。
それで これ以上続ける意欲を失ってしまったのではないだろうか。
私はそう推測する。
先に引用した、下巻の第五齣の末尾に「書いているうちに私自身が昂奮して言わなくともよいことまで言ってしまった気がする。」とあるのも、単に記述が冗長に過ぎたというだけでなく そうした含意があるのではないだろうか。
著者は、新版下巻の「新版への跋」(昭和52年12月15日付)で、附録として収録された小林俊三「瀧川政次郎著『東京裁判をさばく』の再刊に際して当時を回想する」に関連して、
小林先輩は、この裁判によって日本の法曹が英米刑事訴訟法の優れた点をまのあたり見せつけられ、進駐軍当局の推進によって日本の刑事訴訟法の大改正が実を結んだことを喜んでおられる。進駐軍の行った占領政策は、今思い出しても胸くその悪くなることが大部分であるが、そうした功績もあったことを誨〔おし〕えて下さったことは、有り難いと思う。私もこの戦争によって何物をも学び取らなかった男だと言われたくはない。日本の反省すべき点、改むべき事は別の機会に詳述したいと思っている。(下巻 p.255-256)
と述べている。
ということは、この戦争によって学ぶ取る何物かはあったし、日本の反省すべき点、改むべき事はあったと考えているということだろう。
本書について検索してみたが、有意義な書評は見当たらなかった。
櫻井よしこのサイトに掲載されている「認識せよ、東京裁判の日本憎悪」と題する文章(『週刊新潮』の2005年6月16日号に掲載されたという)が、本書を取り上げていた。
靖国神社問題を論ずるには“A級戦犯”を断罪した東京裁判についてきちんと知る必要がある。そのための重要な資料のひとつが瀧川政次郎氏の『新版東京裁判をさばく』上下巻(創拓社出版)である。
瀧川氏は昭和21年から、東京裁判の終わる昭和23年11月まで、“A級戦犯”海軍大臣嶋田繁太郎の副弁護人として東京市ヶ谷の極東国際軍事裁判所に通った。裁判の進展を自分の目で見、自分の耳で聴いた結果、「この日本国肇(はじま)って以来の最大の屈辱である東京裁判の真相を後昆(こうこん、後世の人々)に伝えることこそ、私に課せられた任務」と考え、昭和27年、米国の占領終了と殆んど同時に書き上げたのが『東京裁判をさばく』だった。私の手元にあるのは昭和53年に刊行された新版である。
瀧川氏は「新版への序」で書いている。「東京裁判の真相は、記録を読んだだけでは掴めない」と。なぜなら、日本を裁いた連合国側の理論の違法性や矛盾を突いた法廷でのやりとりの多くが、当時報道されもせず、また東京裁判の記録からも削除されているからだという。
当時の日本では、GHQによる厳しい言論統制があり、法廷で明らかにされた連合国側の破綻した主張などは全く報道されなかったのだ。国民には、東京裁判は日本を戦争の泥沼にひき込んだ軍人たちとその暴走を許した一部政治家たちの“悪事”を裁くまっ当な裁判だとの見方が、一方的に植えつけられたのだ。
瀧川氏は、日本を弾劾したオーストラリアのウエッブ裁判長は「最初から判決を懐にして法廷に臨んでい」た、と書いた。「私はその場にいて、その光景を目撃している」とも書かれている。
〔中略〕
GHQによる厳しい検閲もあり、メディアは日本一国のみを悪者とする考えに染まり、東京裁判での日本側弁護人の証言は“屁理屈”のように報じられたと瀧川氏は書いている。国民もそのような考え方に染められた。
瀧川氏の『新版東京裁判をさばく』を読むと、東京裁判を法廷で見守り、日本のために戦った先人の無念が、心臓の鼓動を聞くかのように伝わってくる。日本人必読の書だ。だが驚くことに、昭和27年に前書『東京裁判をさばく』が出版されたとき、新聞はこれを「悪書紹介」として批判、出版元の東和社は倒産し、同書が広く読まれることはなかった。
日本はサンフランシスコ講和条約を結び独立を回復した。東京裁判の判決は受け容れたが、日本憎悪から生まれた同裁判の違法性や価値判断まで受け容れたわけではない。私たちは歴史を振りかえり、東京裁判の実態を知ることで、はじめて、日本に対する非難を一身に引き受けて犠牲となった“戦犯”の人々の想いをも知ることが出来る。その上で、彼らとその他全ての戦争犠牲者への鎮魂を、今こそ、忘れてはならないのだ。
例によって、ここには本書の内容の一面しか挙げられていない。
確かに本書からは、櫻井の言うように「東京裁判を法廷で見守り、日本のために戦った先人の無念が、心臓の鼓動を聞くかのように伝わってくる」。
だがそれと同時に、何故わが国はこんな敗け方をしたのか、何故こんな膨大な犠牲をはらうことになったのか、何故こんな愚かな者どもが指導者の地位に就いてしまったのかといった憤りをも私は痛切に感じる。
私が冒頭で述べた筆致の荒さも、そうした憤懣やるかたない思いの現れと考えれば納得がいく。
私は櫻井のように本書が「日本人必読の書」だとは思わない。
だが、近年の安易な東京裁判批判論はもちろん、裁判を体験した清瀬一郎の『秘録 東京裁判』や富士信夫『私の見た東京裁判』などとも異なる、実に特異な書であることは間違いない。
東京裁判やわが国の戦中期の評価に関心のある方には 是非一読を勧めたい。
(了)