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「だまってトイレをつまらせろ」?――朝日新聞政治部次長の奇妙なコラム

2016-03-06 23:38:57 | マスコミ
 今年2月28日付朝日新聞の4面のコラム「政治断簡」は、高橋純子・政治部次長によるこんな内容だった。

だまってトイレをつまらせろ

 「だまってトイレをつまらせろ」

 このところ、なにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふく食べたい」という魅惑的なタイトルの本に教えられた。

 ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。

 ①代表団を結成し、会社側と交渉する。

 ②闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。

 まあ、この二つは、普通に思いつくだろう。もっとも、労働者の連帯なるものが著しく衰えた現代にあっては、なんだよこの会社、信じらんねーなんてボヤきながらポケットティッシュを持参する派が大勢かもしれない。

 ところが栗原さんによると、船本洲治という1960年代末から70年代初頭にかけて、山谷や釜ケ崎で名をはせた活動家は、第3の道を指し示したという。

 ③新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる。

 チリ紙が置かれていないなら、硬かろうがなんだろうが、そのへんにあるもので拭くしかない。意図せずとも、トイレ、壊れる、自然に。修理費を払うか、チリ紙を置くか、あとは経営者が自分で選べばいいことだ――。

 船本の思想のおおもとは、正直よくわからない。でも私は、「だまってトイレをつまらせろ」から、きらめくなにかを感受してしまった。

 生かされるな、生きろ。

 私たちは自由だ。

     ◇

 念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない。お尻痛いし。掃除大変だし。

 ただ、おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。

 他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌いあげる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない。

 気がつけば、ああ合唱って気持ちいいなあなんつって、声を合わせてしまっているアナタとワタシ。ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる。

     ◇

 「ほかに選択肢はありませんよ――」

 メディア論が専門の石田英敬・東大教授は2013年、安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。

 「この道しかない」

 固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。

 近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?

 はい、もう一回。

 だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。


 私は朝日新聞を購読しているのだが、当日紙面で読んで唖然とした。

 翌日、通勤電車の中でtwitterを見ている時、ふとこのコラムのことを思い出した。
 ツイートを検索してみると、絶賛の声が多くてびっくりした。批判的な声はまるで見当たらない。
 一部をリツイートしておいたので、現物が気になる方はそちらを見ていただきたいが、

《安倍政治の本質を突く暗喩に満ち、政治部記者もこうした切っ先鋭い視点で記事を届けてもらわねばと思う。》

《良コラムと読んだ。やるじゃないか。》

《これ結構良かった。無論トイレをつまらせるのは掃除の人が大変だけど。生かされるな、生きろ。》

《これ面白い。権力側の横暴に対し、善処をお願いするのではなく、その横暴がもたらす結果を突きつけてやれと説いた、ある活動家の思想を紹介。》

《言葉が生きてるよいコラムです》

《いや実に爽快だなあ。心に浮かぶ雲を吹き飛ばすような文章。いまの朝日にこんな感性しかも女性の政治部次長がいるとは思わなんだ。いやもう、惚れちゃいそうww》

《中国の「上に政策あれば下に対策あり」と同じ、民衆によるサボタージュ戦略。》

《こういう記者の比率が増えてくると朝日もガーディアンを目指せる…かもしれない。知らんけど。》

《冨歩さんから聞いた「JAM」に似ている。対案を示す必要はない。別のシステムを自ら構築する必要もない。システムに異物を挟めば、流れは変わる。》

《昨年のインタビュー記事も面白かった。この人の記事をもっと読みたい。》

《これは、政権批判です。私は支持します。》

《軽やかな文章。閉塞感あふれる世の中だけに、なおさら爽快。》

 いや大したものだ。
 私のように唖然とさせられる者は、読者の中では異端なのだろう。

《午年総理に話しても聞く耳持たずなら念仏を唱えずに黙ってトイレを詰まらせた方が良さそうだ!安倍手法はヒトラーだけでなく893にも学んでいるように見える》

 紙を用意しないならトイレをつまらせるという実力行使の方がよほどヤクザの手法ではないかと思うが。

 さて。
 「だまってトイレをつまらせろ」。
 鉄道の駅のトイレって、最近はそうでもないようだが、ひと昔は、当然のようにトイレットペーパーは置いておらず、ポケットティッシュの自動販売機が設置されていた。
 利用者は自分であらかじめティッシュを持参して用を足すか、持っていなければ買って下さい、ということだろう。
 そこで、「チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな」と、新聞紙でふいて流してトイレをつまらせてもいいのだろうか。
 そうすりゃ鉄道会社も紙を用意するようになるだろう?
 ほかの利用者はどうなる。
 修理の費用は誰が負担する。
 そもそもつまることを見越して新聞紙を流せば器物損壊という犯罪になるだろう。
 と、まず思った。

 いや、トイレをつまらせろとは例え話であって、高橋次長も
「念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない」
と言っているではないか、ただ、そうした自由な精神のありようの大切さを示しているのだ。
 ――といった反論が有り得るだろう。

 しかし、他人の迷惑をかえりみない自由なんてものが、そんなに推奨に値するのだろうか。
 船本洲治という活動家を私は知らない。しかし、おそらく彼が言っているのは、あくまで経営者への抵抗としてそうした手段もあるということだろう。
 それを、「何で拭こうがそもそも自由……という精神のありよう」一般の話に広げて、何をどうしたいのだろうか。

 給料が少なくて食費に困っている者が食べ物を万引きして、給料が十分でないなら万引きせざるを得ないんだ、十分な給料をよこせば万引きをやめてやるよ、と犯人が開き直ったとして、そんな言い分を誰が認めるというのか。

 朝日の購読者である私が、朝日新聞のこのコラムとこの記事とこの投書が気に食わん、こんなものを新聞に載せてくれと頼んだ覚えはない、これらの分を新聞代から差し引いてくれ、と主張すれば、ASAはそれを受け入れてくれるのだろうか。

 私はこのコラムを読んで、「あらゆる犯罪は革命的である」という昔の文芸評論家の本のタイトルを思い出した。
 毛沢東が、革命とは、お上品で、穏やかなものではないと述べたことも思い出した。
 「きらめくなにか」「精神のありよう」を賞賛し推奨してゆけば、結局そういう話になるのではないか。

 そして、このトイレをつまらせるという話が、後段の安倍政権批判とどうつながるのか、私にはまるでわからない。
 政権打倒のためには、社会秩序を守るなんてお行儀良さは少々無視してもかまわない。
 そういう話につながるようにしか思えないのだが、それが高橋次長の本意なのだろうか。
 高橋氏個人がどのような政治観や人生観をもとうが、それは氏の自由だ。しかし、それがもし氏の本意なら、それは、大新聞の役職者が紙面で口にするにふさわしいことなのだろうか。

 安倍政権のメッセージが「ほかに選択肢はありません」というものなのかどうか、私は知らない。
 しかし、「この道しかない」と言われるのが嫌だというなら、ほかの道を示せばよい。
 すぐに示すことができないのなら、時間をかけて考えればよい。
 ほかの道を示すことも、それを考えることもなく、為政者に「この道しかない」と言われるのが嫌だからって、それで何故、
「だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。」
となるのか、そしてそれが何故もてはやされるのか、私には全く理解できない。
 それって、代案は出さないけど、嫌なものは嫌なんだという、単なる好悪の表明でしかないのではないか。
 だから何だというのか。そんな記者個人の好き嫌いを知るために、私は新聞を購読しているのではない。

「道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるもの」
 そんなことはない。一人が歩いただけでは道はできない。多くの者が同じルートを歩くことによって、初めて道ができるのだ。
 だから、ここに道があるということが、後に続く者にわからなければ、道はできない。
 国家をどのように運営していくべきか、為政者がそれを明らかにしなければ、国民はその是非を判断することすらできない。
 なのに、高橋次長は、まるで道を示さない政権が良い政権であると考えているかのようだ。

 では、仮に安倍政権が道を示さず、わが国は将来どうなるかわかりませんが、まあどうにかなるでしょう、自分の足で歩いているうちに自ずと道はできるでしょうからと説いて、何ら将来のプランを語らなければ、高橋次長は
「生かされるな、生きろ。私たちは自由だ」
「ぼくらはみんな生きている」
と言って、それに賛同するだろうか。
 絶対にそんなことはない。為政者たる者、国家の進むべき道を示せ、それが政権を託した国民に対する責任ではないかと絶叫するに違いない。
 批判のための批判。くだらないことこの上ない。

 また、
「他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を……朗々と歌いあげる」って、人ごとのように言ってるけど、これってまさに、朝日新聞のようなメディアがこれまでやってきて、今も続けていることじゃないの。
 六〇年安保が通ったら大変だ、七〇年安保が通ったら大変だ、PKO法が通ったら大変だ、イラク特措法が通ったら大変だ、特定秘密保護法が通ったら大変だ、集団的自衛権行為容認は大変だ、安保法制が大変だ、国民の人権が損なわれる、いつか来た道に戻ることになると、さかんに煽り立ててきたじゃないの。

「うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない」
って、まさにそれあなたがやってることじゃないの。

 はい、もう一回。

 だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。


って、シュプレヒコールを笑顔で促しているじゃないの。

 早野透や若宮啓文が去り、星浩がニュースキャスターへの転身でこれまた去ることとなり、朝日の政治記事に少しは変化が見られるかと期待していたのだが、まだまだその種の人材は尽きないようだ。


  


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