人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

世界の人類学者75.ゴードン・タウンゼンド・ボウルズ(Gordon Townsend BOWLES)[1904-1991]

2013年10月05日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Gordontownsendbowles

ゴードン・タウンゼンド・ボウルズ(Gordon Townsend BOWLES)[1904-1991][ジョン・サイモン・グッゲンハイム財団のアーカイヴより改変して引用]

 ゴードン・タウンゼンド・ボウルズは、1904年6月25日に、日本の東京で生まれました。父親は日本で宣教師をしており、母親はフレンド女学校[現普連土学園中学校・高等学校]で英語を教えていたそうです。東京の自宅には、当時、アイヌ研究を精力的に行っていたシカゴ大学のフレデリック・スター(Frederick STARR)[1858-1933]や宣教師のジョン・バチェラー(John BATCHELOR)[1854-1944]が頻繁に訪れたそうです。やがて、ボウルズに大きな転機が訪れました。1913年、ジョン・バチェラーのすすめで、北海道のアイヌの村に約2ヶ月滞在したのです。この頃から、将来、アイヌを研究したいと漠然と考えるようになったそうです。ボウルズ、9歳の時のことでした。

 1921年、ボウルズは母国へ戻り、アーラム・カレッジ(Earlham College)に入学し、動物学を専攻して1925年に卒業しました。卒業後、再び日本に戻ると、1925年から1926年にかけて、旧制第一高等学校で英語を教えます。1926年には東京帝国大学理学部人類学教室研究生となり、松村 瞭[1880-1936]に教えを請いました。その時、松村 瞭から、「東アジアの方は、島の方よりも大陸、特に、インドや中国を研究したらどうか」というアドヴァイスを受けます。1927年には再び渡米し、ペンシルヴァニア大学で人類学の研究を続けました。このペンシルヴァニア大学では、文化人類学者のフランク・スペック(Frank Speck)[1881-1950]から学びましたが、やがて、スペックに文化人類学ではなく自然人類学を学びたいと相談すると、2週間後には、ハーヴァード大学大学院から奨学金を提供するという手紙が届いたそうです。スペックが、ボウルズのために手配したのでしょう。1928年、ボウルズはハーヴァード大学大学院に入学し、アーネスト・フートン(Earnest HOOTON)[1887-1954]の元で研究を始めました。

 1930年から1932年、ボウルズは中国の四川省に滞在して研究を行います。中国に行く前には、日本で松村 瞭を訪ね、「先生の言うとおりに中国に行きます。」という報告をしたそうです。この間、1931年9月18日に起きた満州事変の際は、スパイに間違えられたという苦労もしました。また、1932年1月から3月に起きた第一次上海事変の影響で3ヶ月間、北京に滞在します。ここでは、ペキン原人の発掘現場を見学したり、当時、北京に滞在していたダヴィッドソン・ブラック(Davidson BLACK)[1884-1934]やピエール・テイヤール・ド・シャルダン(Pierre Teilhard de CHARDIN)[1881-1955]とも交流しました。その後、インドネシアのジャワでジャワ原人の発掘現場を見学したり、インド・エジプト・イギリスを回って武者修行を行います。1932年に、アメリカへ帰国後、1935年にハーヴァード大学から博士号を取得しました。

 1936年にボウルズはアフガニスタンで研究する機会を得ましたが、結局頓挫し、パキスタンで120の民族を調査します。その後、ビルマ(現ミャンマー)や中国の雲南地方の調査を行いますが、日中戦争の勃発により、母国に帰国し母校のハーヴァード大学で研究を継続しました。1938年、ボウルズはハワイ大学の助教授に就任し、ビショップ博物館の研究員も兼ね、ポリネシア人骨が多数出土したモカプ遺跡の調査にも関わります。ところが、1941年12月8日(現地時間で同年12月7日)に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、ボウルズの人生も狂いました。アメリカ政府の依頼で、日系移民の研究を行うことになり、ワシントンDCに異動して政府で働くことになります。

 戦後の1945年9月、ボウルズは対日教育使節団の一員として日本を訪問します。その後、1947年に辞職し母校でグッゲンハイム・フェローとして1年間滞在します。そして、母校のハーヴァード大学で教鞭をとる事になりましたが、ワシントンDCに戻るよう命令があり、1948年から1951年にかけて、さらに国際交流を担当しました。

  1951年に、ボウルズはもう一つの母国とも言える日本の東京大学で文化人類学担当の教授に就任します。その頃のボウルズの専門は自然人類学で、文化人類学は専門では無いと断ったそうですがどうしてもという要請で受けたそうです。但し、本郷の理学部で自然人類学を、駒場の教養学部で文化人類学を教えました。ボウルズがアメリカに帰国する際には、杉浦健一[1905-1954]を推薦し杉浦健一は初代の教授に就任しますが、すぐに病に罹ったため、当時、東洋文化研究所にいた石田英一郎[1903-1968]と泉 靖一[1915-1970]を説得して兼任とすることに成功します。その後も要請で日本に留まり、国際基督教大学でも教鞭をとり、新潟県や長野県の調査を行いました。

 1958年に、ボウルズはアメリカに帰国途中、ハワイ大学で夏学期のみ教鞭をとると、コロンビア大学で教鞭をとります。1960年には、シラキュース大学に移籍し、1972年まで教鞭をとりました。1991年11月、ボウルズはアメリカで死去します。日本でアメリカ人として生まれ、戦争に翻弄されながら、2つの母国を行き来し、日本での恩師・松村 瞭の薦め通り、アジアの大陸を研究した波乱万丈の人生と言えるでしょう。特に、日本の文化人類学にとっては大恩人として長く記憶にとどめられるべきでしょう。

*ゴードン・ボウルズに関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • Frank Spencer(1997)「Bowles, Gordon T(ownsend)t(1904-1991)」『History of Physical Anthropology Volume1』(Frank Spencer ed.), pp.205-206
  • Gordon T. Bowles(1976)「ボールズ博士聞き書き」『季刊人類学』、第7巻第4号、pp.214-234

最新の画像もっと見る