石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

129 花巻市の和讃念仏塔

2017-06-15 06:04:56 | 史跡

去年の秋、遠野の五百羅漢へ行った帰途、花巻温泉に一泊した。

遠野から花巻に着いて、わんこ蕎麦を食べ終わったのが、12時半頃。

温泉宿に直行するには早すぎる。

花巻市内と郊外の温泉郷までの間の寺社巡りで、時間をつぶすことに。

           路傍(北湯口)

実は、こうしたことがあろうかと思い、目的を決めてある。

一つは、宮沢賢治碑。

日本全国には、宮沢賢治にかかわる石碑が47基あるそうだが、そのうち18基が、故郷・花巻市にあると言われている。

       歌碑「巨杉」(延命寺)

記念碑、文学碑、歌碑と種類は異なれど、碑文の内容のまさにその地に立っているのだから、興味深い。

しかし、短時間で、18基全部回れるだろうか。

「花巻市の宮沢賢治碑」と題して、15基だとか、16基だと達成感がなく、ブログにUPする気にもならない。

面白そうだが、リスキーなので、テーマを変更、「和讃念仏塔」に絞ることにした。

何故なら、和讃念仏塔は、岩手県以外でその造立の報告はなく、しかもその大半は花巻市にあるという極めてローカル色の濃い石塔だからです。

  松山寺(台)

これまで確認された花巻市内の和讃念仏塔は151基。

全数をカバーすることなど夢想だにしない数だけに、数基でも引け目を感じなくて済むという利点がある。

 

「和讃念仏塔」は、当然のことながら、念仏塔の一つ。

まずは、念仏塔について。

念仏とは、仏の相好、功徳を思い浮かべながら、その仏の名号を唱えること をいう。

わが国では、浄土教が阿弥陀如来の信仰を広め、「南無阿弥陀仏」を唱えることによって、誰でも極楽浄土を遂げられるという教えが広まった。

やがて、念仏を唱える回数が多ければ多いほど、功徳が大きくなるという考えから、「百万遍念仏」が流行りだす。

 百万遍念仏塔(北湯口・路傍)

そして、誦する念仏回数を増やすには、大勢集まったほうがいいと念仏集団ができるようになる。

これを「念仏講」という。

多数作善の思想は、百万遍が二百万遍になり、三百万遍になってゆく。

講の人数も、当然、増えることになる。

「百万遍念仏」がいかに人数と日時を要するものなのか、このブログNO57「佐渡の百万遍供養塔」で述べているが、それによれば、光明真言を七百万遍達成するのに、35人の講中で、毎日6時間誦して、56日、農閑期の旧正月松の内8日間ぶっ通しでやったとして、7年間かかることになる。

大事業を達成すると人は記念に何かを残したくなる。

「念仏供養塔」は、こうして、造立されることになったのです。

花巻市の念仏塔は、437基。(以下データは、『花巻市文化財調査報告書ー花巻の和讃念仏供養塔』より)

このうち「南無阿弥陀仏」の六字名号塔が最も多くて161基、ついで和讃念仏塔151基、念仏供養塔62基、百万遍供養塔32基、踊念仏塔31基となっている。

ここでやっと肝心の「和讃念仏塔」の説明に入る。

「和讃」とは、仏教歌のことで、仏、菩薩の功徳、経典や祖師、高僧の業績を讃える七五調の唱え歌。

和讃に似たものに「御詠歌」があるが、御詠歌は、仏教の教えを五七五七七の和歌にして在家が歌う曲をいう。

『花巻市文化財調査報告書ー花巻の和讃念仏供養塔』の筆者・嶋二郎氏は、子供のころの思い出として、次のように回顧している。

子供の頃、生家の菩提寺曹洞宗東光寺(花巻市北笹間)へ旧暦七月十六日のお盆の祭りの日にはかならずお参りに行ったものである。この日には、決まって、花笠をかぶり、美しい着物をきた若い娘たちが、太鼓と笛の調子に合わせて踊る踊念仏(大念仏)の一団と巡礼姿の菅笠をかぶり、草鞋、脚絆で踊りもせず鈴の音に合わせて歌うような調子で念仏と和讃を唱える数人の一団(和讃念仏)がお寺の境内に次から次へと洗われて踊ったり、念仏を唱えたりしていたことを想い出す」。

嶋氏の回顧談では、7月16日のお盆の行事として和讃念仏が歌われているが、和讃念仏塔の造塔も7月が247基と圧倒的に多い。

      圓通寺(十二丁目)

2位の8月が11基だから、和讃念仏は、歌うのも造塔もお盆の専有行事だったようだ。

造立年代にも時代の特色が反映している。

天明7年(1783)に花巻市に初めて和讃念仏塔が登場し、その後1810年代(文化7-文政3)の10年間に22基、1820年代(文政4-12)26基と造立されていたものが、1830年代(天保2-11)には9基と激減している。

これは大飢饉の天保飢饉が相次いだ時代で、造立どころではない世情を表している。

その次の10年間、1840年代(天保12-嘉永3)には、42基と急増しているが、これは天保大飢饉の死者の追善供養の造塔であるとみられている。

 

花巻市文化財調査報告書第23集『花巻の和讃念仏供養塔』の筆者・嶋二郎氏によれば、和讃念仏塔に関する文献は皆無とのこと。

つまり和讃念仏の歌詞は一つとして残っていないということになります。

では、和讃とはいかなるものか、手近にある『親鸞和讃集』(岩波文庫)を覗いてみました。

 

讃阿弥陀仏偈和讃 愚禿親鸞作

南無阿弥陀仏(なもわあみだぶち)

一 彌陀成仏のこのかたは
   いまに十劫をへたまへり
   法身の光輪きはもなく
   世の盲冥をてらすなり

二 智慧の光明はかりなし
   有量の諸相ことごとく
   光暁かふらぬものはなし
   真実明に帰命せよ

三 解脱の光輪きはもなし
  光觸かふるものはみな
  有無をはなるとのべたまふ
  平等覚に帰命せよ(以下略)

以下が、私が半日で撮った無和讃念仏塔。ほんのわずかですが・・・

 八幡神社(花巻・上小舟渡) 明治二十年七月十五日 100(縦)×62(横)

圓通寺(花巻・十二丁目)文政十年 81×50

上は、圓通寺墓地にあった「烏八臼」。岩手県にも烏八臼があることを確認。

 八坂神社路傍(湯本・北湯口)明治四十年十月 85×50

熊野神社(湯本・椚ノ目)不明 66×30

松山寺(湯本・台)明治三十九年七月十二日 75

松山寺(湯本・台) 不明 145×50

 

 

 

 

 

 


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