▽白山神社(船堀3-11-3)
沿革は、古文書紛失で一切不明とのこと。
古文書もないが、石造物もない。
あるのは、狛犬と灯籠、それぞれ一対ずつのみ。
神仏分離令以前、白山神社の別当は、西隣の福性寺が担っていた。
▽真言宗豊山派・白王山福性寺(堀船3-10-16)
山門を潜ったすぐ左に3基の石造物。
中央に笠付き地蔵菩薩浮き彫り六面塔。
文政5年(1822)造立です。
両脇には、いずれも地蔵菩薩庚申塔がおわします。
まず右は、天和2年9月吉日のもの。
足元に餓鬼や三猿がいないので、つい庚申塔であることを見逃してしまいやすい。
台石に盃状石がいくつか見られる。
左は、元禄10年2月15日造立の地蔵菩薩を主尊とする庚申塔。
本堂下には、寝釈迦がおわす。
釈迦入滅の時の涅槃像で、タイやスリランカではよく見かけるが、日本では滅多にお目にかかれない。
寝釈迦仏の背後の聖観音像は、説明板によれば、「当地領家水野家の聖観音像」とのこと。
本堂前には、立派な宝篋印塔と青面金剛の庚申塔が見られる。
庚申塔の造立年は、享保3年(1718)12月吉祥日。
寺を出る。
上の写真で位置関係を説明すると、
右が白山神社、真ん中の青い屋根が福性寺の山門、そして左端がこれから寄る地蔵堂です。
堂内には顔の崩れた延命地蔵がいらっしゃる。
門前にも2体。
左は、延命招福地蔵尊。
戦災にあったものか像容は激しく痛んでいる。
像の右に「明和七年(1770)」と刻し、左には「六あミた 左一番道」とある。
右の新しい地蔵は、子育て水子地蔵と標柱に書いてある。
水子と子育てが併願できるというのは、ちょっと厚かましくないか。
▽真言宗豊山派・舟方山地蔵院延命寺(堀船4-10-12)
参道左には、無縁墓標が並んでいる。
本堂前には、観音様が2体。
石仏と
銅製と。
五重塔もある。
参道右にも石造物はあって、
本堂に近い方から、五輪塔、
銅製聖観音、
そして線刻不動明王が並んでいる。
▽舟方神社(堀船4-13-28)
鳥居の脇に「船方神社」と大書した標柱石が立っている。
なぜか真新しい百度石もある。
百度石はよく見かけるが、実際にお百度参りをしている姿は、一度しか見たことがない。
新しいものを作る需要があるのだろうか。
台風15号は、各地に、とりわけ千葉県に大きな被害をもたらした。
境内には、台風の爪痕が残っていた。
境内社の「御嶽神社」。
有名なオオカミの護符、「大口真神(おおくちまがみ)」が張ってある。
比較的新しいもののようで、今でもオイヌ様信仰が続いていることが分かる。
「十二天社」と刻された石碑があるが、これの説明書きがあるので、転載しておく。
船方神社と十二天塚 北区堀船4‐13‐28 船方神社 船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社と よばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承にもとづいて建てられたものです。昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立小輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(荒川=隅田川)に身を投げ、12人の侍女も姫を追って身を投げたという話が江戸六阿弥陀伝承の中にあります。十二天とは、この十二人の侍女を指すと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代に かけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方神社の十二天社としてまつ られたものといえます。なお、この伝承は江戸時代、江戸六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。 平成6年3月 東京都北区教育委員会
水神社の石碑、文字色がブルーなのがいい。