石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

90 三吉朋十『武蔵野の地蔵尊』たちは今(文京区編)

2014-11-01 05:52:10 | 地蔵菩薩

パソコンが故障した。

買って1年も経っていない。

写真を外部メディアに保存できないまま、修理に出したので、予定していた「守屋貞治の石仏かけ巡り見仏記(後編)」はあきらめざるを得なくなった。

さあ、困った。

急きょ変更しうるネタはないだろうか。

書棚を眺めていて目についたのが『武蔵野の地蔵尊』3冊。

三吉朋十氏が50年の歳月をかけ採訪した武蔵野一帯の地蔵尊一千体の記録労作。

3冊目の刊行は、1975年、三吉氏93歳のことだった。

40年前、93歳だった人の著書にしては写真は多いが、それでも掲載地蔵の三分の一くらいか。

全部の写真を撮ってみてはどうだろうか。

石仏だから自然消滅はしないだろうが、40年の年月のなかで、環境が変わり、場所が移動したり、一部が破損したりしているものもあるだろう、そんな近況を付け加えるのも、有意義なことのように思える。

思いもしない由来と名前の、いろんな地蔵に会えるのも楽しみだ。

思い立ったが吉日、『武蔵野の地蔵尊(都内編)』を手に地下鉄に飛び乗った。

まずは、文京区の地蔵からです。

三田線「白山駅」で下車、白山通りの坂道を下り、最初の信号を左に入る。

100mほど進むと、そこが円乗寺。

(*文中、青色文字は『武蔵野の地蔵尊』の記述)
(*石仏でない木彫地蔵は、除外)
(*このパソコンは、借り物)

 

◇お七地蔵/円乗寺(文京区白山1)

「寺は太平洋戦争で全焼したあとは、復興容易ならず、仮堂のままである。その後に寺の入口の路傍に地蔵堂を立て、石彫の地蔵と一幅の地蔵尊掛軸とをかけて、お七の供養をしている」(都内版P88、以下同じ)

小ぶりながらも本堂は復旧している。

入口の地蔵堂の前は「南無八百屋於七地蔵」の朱色の幟が林立して、けばけばしい。

 

この於七地蔵を拝んで立ち去る参拝者がいるようだが、境内にはお七の墓がある。

本堂前、参道左の3基の石塔の中央が、それ。

 原型がまるで分らないほど破損している。

芸妓などが削って、墓石の粉を持ち帰ったためという。

 

 

右の石碑は、お七を演じて好評を博した歌舞伎役者岩井半四郎が寛政年間(1789-1801)に建てたもの。

西鶴の『好色五人女』や歌舞伎で、お七物語は広がりを見せたが、同時に異説も生まれた。

その最たるものは、吉三伝説。

もともと吉三は、お七と恋人左門の仲介者だった。

話の本筋は以下の通り。

天和元年(1681)、本郷追分の八百屋が火事になり、一家は菩提寺の円乗寺に避難する。時にお七、16歳。お七は、寺に身を寄せていた旗本小堀左門と懇ろになり、翌春再建された家に戻るも左門のことが忘れられない。二人の仲を取り持ったのが、吉三。葬式の死装束を寺から引き取る湯棺買いを商いとしていた。「家さえ焼ければ、また円乗寺に行ける」と吉三にそそのかされたお七は自宅に放火、捕らわれて、火あぶりの刑に処せられた。

異説では、吉三郎は寺小姓で、お七の恋人になっている。

目黒行人坂の大円寺の吉三の浮彫は、この異説に基づくもの。

 

 大円寺

上は、大円寺境内に立つ西運(吉三)像。お七の死後、僧になった吉三こと西運は、お七の菩提を弔う念仏堂を建立するため、目黒行人坂から浅草観音までの往復十里(約40km)を念仏を唱え日参し続け、27年5ヶ月かけて念願の念仏堂を建立したと伝えられている。これはその日参する姿。

 

円乗寺を出て左へ、坂を上る。

坂の名前は「お七坂」。

坂を上って白山通りを左折すると大円寺の巨大な標柱が見えてくる。

側面に「ほうろく地蔵尊」の文字。

朱色の山門の背後のビルは、都立向丘高校です。

◇ほうろく地蔵/大円寺(文京区向丘1)

「山門のうちに西面して丸彫り、円頂、立高1.05mの珠杖をもった”焙烙地蔵”という名の石仏を安置し、いつも頭上にほうろくをのせてある。脳を病み、あるいは首から上に病のある人がほうろくに祈願の目的を墨書して、これを尊頭にのせて祈願するとなおるという」(P96)

祈願者は今も絶えないようだ。

目算するところ約500枚もの焙烙(ほうろく)が重ねてある。

いずれにも脳の病が墨書されている。

焙烙は1枚、2000円。

寺では、病名と奉納者名を書いて、祈祷の上、尊頭にのせるという。

平成の世の中、焙烙を知らない世代の方が多くなった。

老婆心ながら説明すれば、焙烙とは「物を煎るための素焼の土鍋」。

では、その焙烙が、なぜ、お地蔵さんの頭にのっているのか。

これには、深遠なわけがあるのです。

中国の殷の時代、焙烙の刑という残虐無比な刑罰があった。

炎の上に油を塗った銅板をおき、罪人を歩かせるというもの。

熱いから飛び跳ねる、その姿が焙烙ではじけるゴマなどに似て、焙烙の刑と称された。

生きたまま焼かれる刑は、日本では、火あぶりの刑。

火あぶりの刑といえば、すぐに思い出されるのは、お七。

お七を供養したい仏心があっても、火付け人お七の供養地蔵とわかっては、公儀に穏便に済むわけがない。

お七地蔵とわからないカムフラージュが、このほうろく地蔵にはなされたというわけ。

「ほうろく地蔵はお七の身代わり地蔵」という言い伝えが、今もなお、生き続けているのです。

地蔵堂の前には、庚申塔が3基ある。

この庚申塔もお七に関連があるといえなくもありません。

庚申塔がかつてあった場所は、本郷追分。

本郷追分には、お七が放火した自宅の八百屋がありました。

 

白山通りから住宅地を右左折しながら本郷通りへ。

本郷通りに面して「親鸞研究センター」がある。

 

目的の正行寺はその隣だが、浄土宗寺院です。

◇咳止め唐辛子地蔵/正行寺(文京区向丘1)

太平洋戦争に罹災し、今なお仮堂のままである」と昭和47年刊の『武蔵野の地蔵尊(都内編)』には書いてあるが、昭和59年、本堂は再建され、面目を一新した。

「境内には東面して一宇の仮堂があり」、三吉老が目にしたのは下の写真の光景だったはず。

誰にも顧みられない、わびしさにお堂は包まれていました

今回、2年半ぶりに訪れたら、お堂も新しくなり、境内の雰囲気も明るくなっている。

堂内に坐するのは、怖そうな眼をした男。

「唐辛子地蔵」と云うのだそうだが、とても地蔵には見えない。

覚宝院という名の、耳の不自由な修験者だと山中笑の記録にはあると三吉老はいう。(*山中笑は民俗学者、筆名共古)

覚宝院の石像あり、咳の願掛けに霊験ありと信仰する者多し。願う者は口上にてはせず、書面にしたため堂内に納め置くこととす」。

口上ではなく、書面にするのは、覚宝院が「ツ〇ボ」だったからだが、書面ならハガキでもよかろうと願いをハガキに書いて郵送する横着者が出始めた。

住所がなく「追分覚宝院様」や「たうがらし地蔵様」の宛名だけのハガキもあったらしい。

それでも届くのは、明治七ふしぎの一つと山中笑は言ったという。

ハガキの内容は、例えば、以下の如し。

「セキデナンギイタシコマリオリ三日カンノウチニオナオシ下サレ度候ナオリシタイオレイニ来リマス
                明治三十三年一月六日生 浅草西鳥越八番地 小池松義」

なお、「とうがらし地蔵」の由来については、次のような記述がある。

「この石仏(覚宝院)は唐辛子を好まるとて小さき徳利へ唐辛子2,3本をさして供ずる者あり」。

古いお堂の時は、石仏の前に唐辛子が確かに供えられていた。

が、新しい堂内には唐辛子はどこにも見られない。

唐辛子を供えることくらい容易だろう。

是非、復活してほしいと寺の関係者にお願いしたい。

 

本郷通りを渡って、浄心寺へ。

この界隈は寺町だから、やたら寺が多い。

大円寺、正行寺と浄心寺の位置関係が分かる地図を載せておく。

 

 

 ◇雷よけ地蔵/浄心寺(文京区向丘2)

「大正のはじめころ、大雷雨があった。浄心寺の墓地に落雷し、立木が裂け、石仏が崩れた。2基の石地蔵の1基は砕けたが、ほかの1基は無事だった。人々はこれを雷除け地蔵と呼んだ。落ちない地蔵尊ということで、受験生に人気となり、一時は大勢が参詣した」( p94)

雷よけ地蔵を探して、広い墓地を歩きまわるが、見当たらない。

 

墓地を清掃している老人に訊いてみた

「雷よけ地蔵」という名前を耳にしたことがないと言う。

でも寺が管理している墓域に1基だけお地蔵さんがあるというので行ってみた。

墓地の北隅に、無縫塔、阿弥陀如来と並んで丸彫りの地蔵がおわす。

寺が管理しているだけあって、供花が新しい。

これが「雷よけ地蔵」だろう、間違いないように私には思える。

寺を出て、バスを待つ間、ふと大きなお地蔵さんが立っているのが目に入った。

台石に「春日のお局さんの御愛祈のお地蔵さん」とある。

どういう謂れがあるのか、証拠となる文書はあるのか、寺に電話で問い合わせてみたが、「ただ言い伝えです」と素っ気ない。

もともとこの寺にあったものか、他所から持ち込まれたものか、それすらも分からないらしい。

 

◇豆腐地蔵/喜運寺(文京区白山2)

          喜連寺(文京区白山2)

喜運寺の本堂には、豆腐地蔵尊という木彫りの秘仏が、門前にはお前立と称する石彫地蔵があったが、太平洋戦争で崩壊してしまった」。 

三吉老は昭和47年刊行の『武蔵野の地蔵尊』で、こう書いているが、昭和53年、寺が建てた豆腐地蔵由来碑では、「豆腐地蔵は石仏で、震災、戦災を免れて本堂にあるが、秘仏なので非公開である」と説明されている。

  豆腐地蔵由来碑

となると、本堂前の「延命豆腐地蔵尊」は、お前立ということか。

「都内には豆腐地蔵のある寺は、ここ喜運寺のほか、杉並区の長延寺と長竜寺の3か寺にあるが、その由来は大体同じ」らしい。

『武蔵野の地蔵尊(都内編』での由来は、長文なので、大幅に縮小して載せておく

「小坊主が豆腐を買いに来た日の売り上げには、木の葉が混じっていた。てっきりキツネの仕業と睨んだ豆腐屋の吉兵衛は、坊主の後をつけ、豆腐切り包丁で肩を切りつけた。ギャッという叫び声とともに坊主の姿は消え、後に血のついた石片が転がっていた。血のしたたりをたどってたどり着いたのは、喜運寺。堂の中のお地蔵さんの肩から下が欠けていた。
 "キツネだとばかり思い込んで、とんでもないことをした。お許しください"と吉兵衛は、毎日、お地蔵さんに豆腐をお供えした。この話が江戸中で評判となり、寺の門前に開業した地蔵屋という屋号の豆腐屋は大繁盛した」。(p90)

 

◇甘酒地蔵/日輪寺(文京区小日向1)

まず、写真を見てほしい。

          甘酒地蔵

これが地蔵尊に見えるだろうか。

「甘酒地蔵がお地蔵ならば、蝶々トンボも鳥のうち・・・」と呟いてしまいそうだ。

訳を知るとこれは和服を着た特定の婦人像だと分かる。

それならば、「〇〇像」といえばいいのに、地蔵とするところに、庶民の地蔵信仰の幅の広さと奥深さがあるように思う。

甘酒地蔵の由来は、もちろん、『武蔵野の地蔵尊』に載っているが、今回は矢田挿雲『江戸から東京へ 第五巻』からの引用。

「本堂に向かって、左方にある、一老婆の坐せる石像が、音に響ける甘酒地蔵である。生前は与力某の妻であったが、血族が死に絶えて孤独となり、自分も重い喘息に悩まされていた。咳に苦しむ人を治してあげたいと念じ、余財を甘酒に代え、自宅の門前で接待を始めた。ばあさんの死後、婆さんの家のツゲの木に甘酒のビンをつるして祈願すれば、咳の病は治るという噂が広まり、誰からともなく、婆さんを甘酒地蔵というようになった。日露戦争の頃、日輪寺の住職が石像を刻し、境内においた。爾来、信仰ますます盛んで、痰持、咳持、百日咳が不思議に治り、御礼の甘酒や白酒の寄進が相次いでいる」。

 

◇縛られ地蔵/林泉寺(文京区小日向3)

寺は、拓殖大学の向かい側の台地にある。

境内への石段の踊り場に、縄でぐるぐる巻きにされた石仏がある。

通称、縛られ地蔵尊。

縛られ地蔵としては、葛飾区の南蔵院にあるのが有名で、ここ林泉寺にもあることはあまり知られていない。縁起は双方ともに同じようであって、どれが大岡政談に伝えられる地蔵であるかは疑問である。p107

確かに、傍らの文京区教育委の説明でも、巷間伝えられる大岡政談をあげ、南蔵院にも同じ縛られ地蔵と逸話があるとして、どちらが正統かは言及していない。

 

◇歯痛地蔵/源覚寺(文京区小石川2)

 源覚寺と聞いてピンと来ない人も、コンニャク閻魔と云えば分かる、眼病と厄除けに霊験あらたかなエンマさまの寺。

しかし、三吉老はエンマさまには目もくれない。

「戦災でつんぼ歯痛地蔵堂も焼けてしまった。地蔵尊は壊れなかったが濡れ仏のまま境内の元の場所に寂しく立っており、近所に歯医者があるためか、祈願に来る人もめったにいない。
焼け残った石地蔵は、一つは船底型に円頂の地蔵尊を浮き彫りし、他の1基は丸彫りで立高60センチばかり、歯痛に利益があった。つんぼであるから願い事は一切紙片に書いて柱に釘打ちをしておき、痛みがなおったら釘をぬいてあげる」 (P92)

焼け残ったという歯痛地蔵を探すが見つからない。

狭い境内だから見落とすはずはない、おかしいなと思いながら庫裏のベルを押す。

出てきたご婦人は、「塩地蔵がそうです」とそっけない。

せめて「塩地蔵がそうですよ」と言ってくれればいいのに。

塩地蔵はお堂のなかに確かに2基あるが、頭が塩でコーティングされていて、地蔵なのかどうかも分からない。

「塩地蔵」の説明板にも「歯痛に効く」とは書いてない。

「歯痛に効能あり」と付け加えてはどうか。

「塩地蔵 歯痛地蔵」で検索したら、日本歯科医師会のブログhttps://www.jda.or.jp/park/knowledge/index12_9.html「歯の神様」として取り上げられていた。

「昔は、歯磨き剤の代わりに塩が用いられており、現在でも殺菌や消炎にも効用があると言われています」とその効能は、歯科医師会のお墨付き。

このブログでもNO24,25で「東京とその近郊の塩地蔵図鑑(1)(2)」として塩地蔵を巡った。

その経験では、歯痛よりイボとりに効能ありとする塩地蔵の方が多かった記憶がある。

 

〇三吉朋十『武蔵野の地蔵尊(都内編)』(昭和47年 有峰書店)

〇矢田挿雲『江戸から東京へ 第五巻』(昭和28年 再建社)

〇山本傅『東京の縁日風土記』(昭和57年 堅省堂)

〇長澤利明『東京の民間信仰』(平成元年 三祢井書店)

〇長澤利明『江戸東京の庶民信仰』(平成8年 三祢井書店)

〇岸乃青柳『東京のお寺・神社謎とき散歩』(平成10年 廣済堂出版)

〇小石川仏教会『小石川の寺院 上巻』(平成14年 西田書店)

〇鈴木一夫『江戸・もうひとつの風景 大江戸寺社繁盛記』(1998年 読売新聞社)