地蔵菩薩三国霊験記 9/14巻の3/13
三、甲斐の國稲積地蔵の事
本朝いまだ三十三箇國にして五畿七道も定まることあらざりし當時、行基菩薩甲州の地形を見給ひけるに凢そ四岳八峯立圍ひ瑞雲つねに覆て寶形に似たり。凹(なかくぼ)にして富貴の相あらはれ佛法繁昌の霊地此にあり、國中に一の岡あり、篠原山と号す。高五十餘丈(約160mか)東西七里南北十里峯南北に横たはり篠と云小竹しげりて地のはだへをかくし山 . . . 本文を読む
「孔雀経法記」に(康和四年1102壬午九月二十七日)「近日天變あり。件變を消す為に鳥羽北殿に於いて令勤修御。大阿闍梨御室覺行法親王、伴僧廿口のうち、僧綱三口。同く十月十三日結願了。」天皇は堀河天皇、白河上皇の院政。鳥羽離宮は白河上皇の御所。覺行法親王はウキぺデアによれば「永保3年(1083年)に仁和寺に入り、1085年(応徳2年)性信入道親王の下で出家・受戒。性信の没後に仁和寺寺務に就任する。10 . . . 本文を読む
日本紀略・寛平六年894九月「二十七日、大宰府飛驛使言上、新羅賊二百余人打煞、仍って諸国に仰せて軍士警護を停止せしむ」
平安時代も貴族は安逸に流れていたのではなく武備を備えておりしかも強かったのです。
天皇は宇多天皇。是は「寛平の入寇」と呼ばれているものです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3% . . . 本文を読む
[百練抄]「建永元年九月二十六日(土御門院)一代一度の仏舎利使を立てらる」 天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府は源実朝、執権は北条義時。
元久三年四月二十七日(1206年) 改元して建永となる。赤斑瘡を原因とする説(『百錬抄』)と摂政九条良経の急死を原因とする説(『一代要記』)がある。いずれにせよ即位されてすぐに一代一度の仏舎利使(注1)を立てらています。
(注1)一代一度の仏舎利使 . . . 本文を読む
「後二條師通記」(注1)「(寛治七年1093)九月二十六日、庚子、天晴、被修孔雀教法云々、阿闍梨勝覚醍醐座主也。」
(注1)後二条師通記(ごにじょうもろみちき)は、平安時代後期に活躍した藤原師通の記した日記。永保三年(1083年)から康和元年(1099年)まで。原本は一条家に伝来し陽明文庫に。国宝。
天皇は堀河天皇。勝覚・・・父は源俊房。立川流の祖仁寛の兄。醍醐寺座主定賢から灌頂を受け、また義 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 9/14巻の2/13
二、地蔵三昧に通力を得たる事
中比北陸道に蔵好房と云ふ僧あり。元より鈍根にして一文不通なり。人品沙汰の限りたりといへども信心深厚にして地蔵を信じ奉る。終日名号を唱へて怠る時なし。當時の人呼びて地蔵小法師とぞ申しける。他の誉を受けても喜ぶことなく亦毀りを得れども怒ることなく一切以て地蔵修行より外他なし。されば積功累徳して功験益妙を得たり。口に誦する所は偏 . . . 本文を読む
小泉 八雲は1904年(明治37年)9月26日に54歳で亡くなっています。古き良き日本をよく理解して西洋諸国に紹介しました。「日本の面影」では「・・・ここの村の人たちも、私にじつに親切にしてくれた。これほどの親切や好意は想像もできないし、言葉にもできないほどである。それは、ほかの国ではまず味わえないだろうし、日本国内でも、奥地でしか味わえないものである。彼らの素朴な礼儀正しさは、けっしてわざとらし . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 9/14巻の1/13
地蔵菩薩三国霊験記巻九目録
一、源満仲郎等活事
二、地蔵三昧に通力を得たる事
三、甲斐の國稲積地蔵の事
四、白髪黒髪に轉ずる事
五、建長寺地蔵蝦夷嶋遊化の事
六、病苦に易給ふ事
七、讃岐國善度寺の地蔵の事
八、印佛功力害を免る事
九、半作地蔵靈験の事
十、正直に依りて神通を得る事
十一、女人活る事
十二、生身地蔵を拝する事
十三 . . . 本文を読む
今日はお彼岸の最後の日です。ご先祖の霊魂は子孫の所に来られています。ご先祖を喜ばせてまた霊界へ送り返さなければなりません。先祖供養の必要な所以です。われわれは、先祖供養の行法の最後に「・・今日ここに供養する所の(先祖の戒名)の霊位、三業の罪過を消滅して諸仏の御前に生じ見佛聞法し、無生忍を証し普く無尽無余の一切有情界において共に普賢の行願を満足せんことを・・・」と先祖の霊に語りかけます。つまり「この . . . 本文を読む
今日は石門心学の開祖・石田 梅岩の命日です。梅岩は-延享元年9月24日(1744年10月29日))に60歳で逝去しています。京都の商家で丁稚をしながら、儒佛道に通じた小栗了雲に師事し、人の道・商人の道を説くことを思い立ちます。45歳の時、京都の借家で「無料講座」を毎晩開きそれが後年「石門心学」と呼ばれるものになりました。梅岩は「一に泥(なじ)まず、一を捨てず」といって儒教・仏教・道教・神道・国学い . . . 本文を読む
中右記・(嘉保二年1095九月)「二十四日、御悩に依りて、大極殿に千僧観音経御読経を、禁中に大般若書写供養転読等を行はしめ、又諸社諸寺をして、御読経等を、五畿七道諸国をして、丈六観音像書写供養等を行はしめ、御平癒を祈らしむ、是日、上皇、亦、延暦寺に於て、千僧御読経を修せしめ給ふ、尋で、紫宸殿に於て、新写大般若経転読を行はしむ」天皇は堀河天皇。上皇は實父の白河上皇。この時は天皇は回復されたようです。 . . . 本文を読む
続日本紀・天平宝字八年766九月甲戌(二十四日)「(淳仁天皇)勅して曰く、天下諸国、鷹狗及び鶏を養ひて以て田猟することを得ざれ。又諸国御贄の雑宍魚類等を進むること悉く停めよ。」 . . . 本文を読む
地蔵菩薩三国霊験記 8/14巻の13/13
十三、 田に水を入れ信者を助給ふ事
出雲の國八重と云里(島根県松江市)に下男一人侍りき。地蔵菩薩に事(つかへまつ)り現当二世の所願併しながら叶ふと申すえんふん事を聞き傳へて深く頼み奉りけり。彼は田を作る夫なれば夏の程は安く目も閉ることなく田の水口に夜を明かし日を送りける。されども名号は口に絶へることなし。折節旱して田に水をえがたくしてあれ . . . 本文を読む