第二十一番 矢の堂 要光山觀音寺。御堂三間四面南向。
本尊聖觀音 立像御長一尺五寸五分(46㎝) 行基菩薩御作
御堂を矢の堂と云。抑この要光山は元八幡宮の社地也。行基爰に到て、此地を開闢せるとぞ。其由縁い と貴し。行基諸國を廻り來て此山に登る。其日既に晩てければ、此の社のあたり成一樹の陰に息給ひ、 すでに丑みつばかりに成ぬ。斯て神歌の扉開音して、此あたり日の如くに光り、須曳有あ . . . 本文を読む
第二十番 岩の上。御堂四間四面東向。
本尊聖觀音 立像御長二尺二寸(83㎝) 聖徳太子御作
當寺は人皇七十二代白河院(11世紀)の詔に依て建立有し霊場也。然るに應仁の頃(15世紀)より當郡も里人皆離散し神社には朝清めする祝子も無、佛閣に香花を供する法師も住せず、棟折壁穿ぬれど修理する人しなければ、果 は白浪の住家になりて、御帳以下荘巌悉く奪去てうたてしきさま多かりしき中に、此御 . . . 本文を読む
第十九番 飛淵山龍石寺。御堂六間南向)。
本尊千手觀音 座像御長一尺一寸(33㎝) 弘法大師御作
此地や、當郡無双の霊境、龍宮涌出の盤石と云傳る巌石有。院内廿歩許が程は更に塵土の穢を踏ず、誠に空寂清浄の地也。されば弘仁年中の頃、弘法大師を禁中に召れ、天皇の御悩を祈らせ給ふ。大師則楊柳觀音を彫刻して、此度の本尊として祈り奉らんと思ひ給ひ、霊木を得まく欲し給ふ時に、大師の室中に 天 . . . 本文を読む
「高野春秋」「(天長九年832)十月十八日、如意后、高祖を六甲山に招請し説戒導師と為し薙髪して僧尼と成る。是勅許を得る也。」
密教辞典に「如意尼・・803~835承和二年三月二十日。神呪寺開基。丹後与謝の人。10歳で京に来て如意輪観音の霊場を訪い、六角堂に住み822弘仁十三年、皇太子大友親王(淳和)の寵を得、翌年即位とともに妃となる。その年、天皇と共に大師より如意輪法を受け823 . . . 本文を読む
今日は大師が六甲山麓にある神呪寺をお開きになり、真名井御前を得度して如意尼とされた日です。ウキぺデア等に依れば「大師は、天長7年(830年)に六甲山頂の巨大な桜の木を淳和天皇第四妃真名井御前妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作りこの如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に神呪寺本堂は落慶した。同日、淳和天皇第四妃真名井御前は、大師より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。」とあ . . . 本文を読む
承和二年835十月十八日實恵等が嵯峨上皇の「海上人を哭する」詩に答えて「恩勅の詩篇を謝する表」を奉じた日。(大師年表等)「門弟實恵等上表し恩勅の詩篇を謝す」「草上の僧實恵等聞く、徳廣きときは則ち物懐かざるなく、仁廣きときは則ち恩こうむらざるは無し。信なる哉、斯の言、今日七日、伏して御製の手札先師を哭するの詩を奉ず。宸章高臨、下土を照曜す。生死栄龍永く無窮に伝ふ。非幸非幸。伏して惟んみれば太上皇帝陛 . . . 本文を読む
「高野春秋・斉衡三年856」に「十月十八日戊子、曰、眞濟を僧正に、眞雅を大僧都に任ず。眞濟抗表して僧正を辞退す。是師位越階の旨を以てなり。天皇(文徳)感激す。」
この後すぐ十月二十七日に「高祖を大僧正に追贈す。濟公の僧正は元の如く也」(高野春秋)となります。 . . . 本文を読む
第十八番 神門寺 。御堂六間四面西向。
本尊聖觀音 立像御長二尺七寸五分(83㎝) 安阿彌作
當寺は徃古神社にてありしと古老の云傳ふ。其の地に榊有、枝分れて左右より空に至て結び、恰楼門の如し、是に依て神門の號有。年經て其社は跡もなく成ぬれど、其境清くげにも神の在すべき處なり。中頃處の長、里人を集、此地に再び神を祭るべしとて、先御湯をまいらせ神楽を奏しけるに、巫女の袖に移り給ひ、 . . . 本文を読む
第十七番 はやし寺と號す 定林寺 。御堂三間四面南向。
本尊十一面觀音 立像御長一尺六寸(約40㎝)
當寺開闢の來由は、徃昔壬生の良門とて東國に双なき英雄有、其性剛強にして慈心なく、殺害せらるゝ者 多く、國民にも家臣にも事に觸、時にのぞんでは情なきふるまいのみありければ、家臣林太郎定元と云者頻に諌てやまず、良門甚怒て定元を放逐し、其領する處の財産を没収す。忠言耳に逆ふ習ひ今に . . . 本文を読む
第十七番 はやし寺と號す 定林寺 。御堂三間四面南向。
本尊十一面觀音 立像御長一尺六寸(約40㎝)
當寺開闢の來由は、徃昔壬生の良門とて東國に双なき英雄有、其性剛強にして慈心なく、殺害せらるゝ者 多く、國民にも家臣にも事に觸、時にのぞんでは情なきふるまいのみありければ、家臣林太郎定元と云者頻に諌てやまず、良門甚怒て定元を放逐し、其領する處の財産を没収す。忠言耳に逆ふ習ひ今に . . . 本文を読む
第十六番 無量山西光寺。御堂三間四面南向。
本尊聖觀音 立像御長九寸(約27cm) 行基菩薩御作
此尊は徃古他郡に有しが、佛の告に依て此地に移給しとぞ。其年暦を知ず。中頃諸州兵亂に依て所とし て陵夷せざるなく、寺塔發壊せずと云處なかりしかば、住侶もなく、此寺も無人の境と成しが、漸く逆浪静りて後、近きあたりの祝子(はふりこ・神職)此堂を守りけるとぞ。其後亦白衣(俗人)舎の守護する . . . 本文を読む
聖武天皇は天平15年10月15日(743年11月5日)、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発せられました。続日本記には「天平十五年冬十月辛巳、詔して曰く、『「朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志兼済に存して勤めて人物を撫す。率土の浜、已に仁恕に霑(うるお)うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に洽(あまね)からず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。粤( . . . 本文を読む