観自在菩薩冥應集、連體。巻3/6・23/29
廿三摂州神呪寺の縁起如意尼の事。(元亨釋書にあり)
如意尼は淳和天皇の第四の妃なり。本丹後の州余佐郡の人なり。居所定まりなく常に山水の間に遊び十歳にして京に来て常に如意輪観音の霊場に詣し玉ふ。衆人絡繹(らくえき、絶え間なく続く)たれども終に妃の面を見たる者なし。弘仁十三年(822年)帝東宮に在せしに春の初め霊夢を得て華使を頂法寺へ遣はし玉ひて妃を尋ね得たり。即ち迎て妃とし玉ふに容儀端正にして婦徳柔軟なり。帝又なきものにおぼしめして寵愛他に殊なり。妃天性慈悲深くして肉味を食せず。物を施す事を好み沐浴し玉はざれども體に垢なく天香自然にして衣服を薫ずる事を用ひず。常に如意輪の真言を念誦し玉ふ。帝も亦大師に随って如意輪の法(一巻不空訳。大師、円仁、慧運、円珍請来。金胎合軌。十八道立。)を授かり玉ひて尊像に対して行法し玉ふ。或る時一七日を期して如意輪供を修し玉ひ、願くは観音の真身を拝み奉らんと祈誓し玉ふに第六日の夜の夢に天の童子来たりて白して言はく、陛下如意輪観音の真身を拝みたく思召さば第四の妃即ち是如意輪菩薩なりと。帝覚めて大に驚き益々恭敬尊重し玉ふ。或る時妃一七日如意輪供を修して第七日の夜持誦して暫く目を閉じ玉ふに空中に妙音聲あって告げて曰く、摂州に寶山あり、如意摩尼峯と号す。昔神功皇后新羅を征して還って如意珠及び金甲冑弓箭等を埋め玉ふが故に武庫山といふ。汝なんぞ彼の嶺に住せざるやと。妃目を開いて見玉ふに端正の天女白龍に乗じ白雲に駕して西南に向かって飛び去る。妃怪しみ喜び玉ふ。此の天女は即ち弁財天女なり。白龍は石となって今猶在り。此の山は役行者の遊歴の旧跡なり。天長五年(828年)二月十八日の夜妃、宮女二人と共に密に禁中を出て摂津國に赴き玉ふ。左衛門橘親守一人御共に参れり。淀河に至って船に乗んとし玉ふに舟人妃の只人ならず、高位の人なる事を知りて怪しみ恐れて船を出さず。掉さして逃去んとするに、其の舟動かざれば是非なく乗せ奉りて、明日摂州南宮の浦に著き玉ひ南宮の社(南宮神社は廣田神社の境外摂社で、西宮神社境内の南門近くに北面して鎮座する。古くは「浜の南宮」とも呼ばれていた。)に参詣し玉ふに神殿戸を啓いて妃と物語し玉ふ。二女は見る事を得、餘人は知らざりけり。又廣田大明神の宮に詣し玉ふ。神戸を開きて晤語り玉ふ事南宮の如し。次の日やがて山に尋ね入り玉ふに山の西北に池あり。池中より五色の光明を放つ。池の渚皆白石にして玉に似たり。摩尼峯に登るに紫雲来たり覆ふ。一人の美女あり、来て曰く、此の山を究竟摩尼霊場と号して四神相応の勝区なり。我珍宝を此の地に蔵して毎日禺中(ぐちゅう。巳の時の異称。昼四つ時。今の午前一〇時前後。)に我此の地に降る。宣しく伽藍を建て玉ふべしと、言畢って山を下て見へず。是は廣田大明神の化現なり。妃大に悦んで梵宇を営み玉ふ。近き遠き貴賤上下呼ばざれども自から来て財を傾け共に建立するまま三十三日にして成就せり。妃及び二女此是に於て精修練行して如意輪陀羅尼を誦し玉ふ事昼夜の隔てなし。山西の嶺に大なる鷲あり。黒雲常に峯を蔽ひ時々火炎を出す。或る時火炎飛び来たって伽藍を焼かんとするに妃香水を灌ぎ玉へば火自ら退きぬ。又黒雲の中より異神降り来たる。八面にして六臂、甚だ恐ろしげなり。道場を毀らんとする時に妃身心動ぜずして呪を誦し玉へば漸くに退きぬ。さて妃、宮を出玉ひて後、帝は歎き悲しみ玉ひ右中弁(右弁官局(兵部・刑部・大蔵・宮内の四省を管理する役所)の次官)真王に勅して普く尋ねしめ玉ふ程に摩尼山に入り来たりて委しく帝情を宣ぶるに妃真王に語りて曰く、妾宮掖(帝王の居所)に侍してより志常に山野に在り。幸いに本望を遂げて此の峰に住す。何ぞ又再び人間に出んや。帝頃日如意輪観音を信仰し玉ふ。妾も亦此の峰に住して此の法を修す。然らば帰らんとしても睿情に背く事あるべからずと。真王宮に帰りて奏するに帝竜眼に涙を流し玉へり。妃寵恩比なかりしかば山に帰り玉へども猶日々の御使いありて山居を問ひなぐさめ玉ふ故に禁中の後宮三千の美人猶嫉妬を懐きて人を使はし山房を焼き払はん事を企む。帝此の由を知らしめして、偽って山下の民屋を焼かしめ玉ふに三千の宮女遥かに煙を見て妃の山房を焼くなりと思ひて嫉む心即ち止みにければ、今其の處を焼寺と号せり。此の年十一月空海僧都を請じて山に迎へ一七日如意輪法を修し玉ふに第三の夜、月輪の径三尺ばかりなるが紫の雲に乗じて壇上に現じ玉へり。天長六年(829)正月に妃空海僧都に随って受明灌頂を受け同じく七年二月十八日伝法阿闍梨位を授かり玉ふ。三月十八日妃如意輪の像を造んと欲して山中を巡り木を見て山頂に到るに大なる桜の木あり。光を放つ。妃喜び怪しみ即ち大師を具して木の所に到り桜の所に就いて持誦し玉へば中夜に地第に震動し、須臾に桜木、山の南に移る。大師即ち木を伐って如意輪の尊像を造り玉ふ。御長さは妃の身量と等しくし凡そ三十三日にして成就し玉へり。其の間妃は日夜に三千禮の礼拝を勤めて如意輪の真言を念誦し玉ふ事暫くもたへず。大師像を造り初め給ふ時、偈を以て讃し玉はく、「恭敬救世如意輪 理智不二微妙體 不捨造悪諸衆生 三世有情同利益」と。
時に樸点頭(みそぎうなずきたまふ)といへり。妃一日空海に語りて曰く、此山の西峯に一鬼あり麁乱神と号す。(前の八面八臂の者なり、即ち荒神にて毘奈夜迦なり)常に法障をなす。如何にしてか退治せんと。大師の曰く、東の谷に大石あり其上にて神を供せば障りなからんと。妃教の如くしたまふに爾後は障り止みにけり。妃又問玉はく、常住仏法の守護、何の天神とかする。大師の曰く、大弁才天女是なりと。妃すなはち天女の法を授って修し玉ふに、第七の夜天女まさしく十五の童子を率ひて降臨し玉ふ。前の峯俄に黒雲起りて三障碍神雲中に現ず。妃又祭供を設るに神すなはち去る。これ摩尼山の前の大蛾なり。其後大師は如意寳珠法を修し玉ふに弁才天女又西北の大石の上に降り居て誓て曰く、我此山に住して一切貧乏の衆生のために財宝を施さんと。八年十月の十八日妃は大師を請じて伽藍の大殿を落慶供養し玉ふ。大師時に偈を唱へ玉はく「峰に摩尼如意寳有り。大聖諸衆生を利せんが為に普く一切珍財具を雨ふらす。此に地に入る者は豊栄を得」と。妃又合掌して曰く、自性阿字不二門、中に大寶有り、名けて如意、吾大悲菩薩前に献ず、歓喜納受して一切に施し玉へ」と。此日妃自ら緑の髪を截り束ねて三分とし、一分は大師に供し玉ひ即ち大師に就いて出家して比丘尼となり玉ふ。法の諱は如意、二人の侍女も同時に剃髪して一人は如一尼といひ、二人は如圓尼と曰。三尼爾来勤めて如意輪呪を持誦し玉ふが故に此所を神咒寺と名づく。
天長十年(833年)(淳和)帝位を仁明帝に譲り玉ひ承和二年(835)正月太上帝山中に幸し玉ふ。如意は上皇に對して説法開導し玉へば皇情大ひに悦びたまへり。其の時、供奉の人々はなはだ多し。中にもなを大中太夫和気眞綱は如一尼の父なり。宮を出てより八年の間対面なかりしに、今父子はじめて相遇ふの悦び喩を取るに物なし。三月二十日五更の時、如意南方に向ひ結跏趺坐して如意輪咒を誦して掩化し玉ふ。年三十三なり。大師は三月廿一日の寅の刻に入定し玉ふ。如意尼は遷化して南方に向かふとは高野山に向かひ玉ふなり。共に菩薩の応身にして同じく有縁を得化度し玉ふが故に掩化も同時なるものなるべし。妃常に一の筐を持し玉ふ。人其の中を見たる者なし。天長元年天下大に旱す。大師勅を奉りて神泉苑に於て雩し玉ふ。時に一七日にして雨ふらず、大師妃の篋を得たまひて秘法を修し玉ふが故に雨澤天下に洽しと云傳ふ。丹後の余佐の郷(京都府与謝郡)に水江浦島太郎と云者あり妃よりもすでに數百年先の者なり然るにかれ久志く仙郷に棲む。所謂蓬莱と云所なり。さ天長二年に故里に帰る。この浦嶋子の曰く、妃の持し玉ふ篋は紫雲篋と云物なりと。妃如意輪観音を造り玉ふ時に篋を像の中に納め玉ふといへり。釈書に評して曰く、妃の筐は恐らくは神仙の器に非ず。乃ち是密乗の秘賾也。故に大師是を得て祈雨の法験を顕し玉ふと。先師和上曽って予に語られしは、この筐は疑ふらくは如意宝珠ならん。妃の頌、大師の偈に其の意見へたり。然れば神仙の器と云も得たり。密乗の秘賾と云も亦違はず。如意尼は即ち如意輪観音なれば所持の如意摩尼寶筐ならんと。仙人も亦法道仙人の如きは光明摩尼の法を修す。観音の眷属に仙人も多くあるが故に浦島が子も亦補陀落山に赴きたるやらん、料りがたし。
(釈日本記「「丹後国風土記に曰ふ。与謝郡日置里、此の里に筒川村有り。此の人、夫日下部の首等の先の祖にありて、名は筒川嶼子と云ひて、為人姿容美秀て、風流類無し、斯所謂水江浦嶼子(みづのえうらのしまこ)といふ者也。是旧く宰、伊与部の馬養連の記さえしところに相乖るること無し。故に由りし旨を略陳ぶ。
長谷朝倉宮(はつせあさくらのみや)に御宇天皇(しろしめすすめらみこと)〔雄略天皇〕の御世、嶼子(しまのこ)独り小船に乗りて海中に汎出て釣を為て、三日三夜を経て一の魚を不得。
乃五色の亀を得。心に奇異と思ひて船の中に置きて、即寐。忽に婦人と為りて、
其の容の美麗しきこと更に比ぶ不可。嶼子問ひて曰はく
「人の宅(やか)遙に遠くありて、海庭に人乏し。詎(なにそ)人の忽に来たるか。」ととへば、
女娘微咲みて、対へて曰ひしく「風流之士独り蒼海を汎ひて、近く談り不勝(かね)て、
風雲に就きて来り。」といひき。
嶼子復問ひて曰はく「風雲、何処よりか来たるや。」ととへば、女娘答へて曰ひしく
「天上の仙の家の之人也。請は君、な疑ひそ。相談に乗りて愛たまへ。」といひき。
爰に嶼子、神の女と知りて、懼り疑ふ心を鎮めき。
女娘語りて曰はく「賤妾(やつかれ)之意、共に天地畢へて、俱に日月極めむ。但君奈何か早先に許すやいなやの意なりや。」といひて、嶼子答へらく「更に所言(いふこと)無(な)し。
何か触れむ乎。」とこたへり。女娘曰はく
「君宜しく掉を廻らせて蓬山に赴きたまふべし。」といひて、嶼子従ひ往く。
女娘教へて目眠ら令めて、即ちこころあらざりし間に、海中の博大之嶋に至りつ・・・)