しかしてここに述ぶべきは、華厳の於ける性起(真理‣覚りが縁に触れて万物が起こること)と性海果分(覚りの境地)とになほ可説不可説の異なりあることである。
前叙の如く性起はこれ十佛の無碍大用をあかすものにして性海は十佛の自境界なりといへば、性起と性海果分は同一の如くなるも、しかも性起と性海果分には可説不可説の異なりあることを知らねばならぬ。
華厳経性起品に佛身の自在無碍の大用を明かすもこれ賢首大師の説の如く、性起品はこれ十地品の因位と同会の説にして、しかもその説主はこれ因位の普賢菩薩である。随って開演せられたる如来の果相もこれ因果相対の果にして究竟自在の真実如来の大果ならざることは、前段所述の如くである。
究竟の果分たる舎那の果体は、唯佛輿佛の境にして、不可説なれば、性起と性海果分とに可説不可説、相対、絶対の異なりあることを知るべである。
しかして弘法大師の所判によれば華厳に明かす不可説の性海果分これ真言密教の法体たる秘密曼荼羅である。弘法大師の二教論に曰、「喩して曰く。「十地論」及び「五教」の性海不可説の文と彼の龍猛菩薩の不二摩訶衍の圓圓性海不可説の言と懸るかに會かなえり。所謂る因分可説とは顯教の分齊なり。果性不可説とは即ち是れ密藏の本分也。何故か然か知るとならば、金剛頂經に分明に説くが故に。有智の者、審かに之を思え」(喩して曰く。「十地論」及び「華厳五教」にある、「覚りの結果は説くことができない」という文と彼の龍猛菩薩の「釋摩訶衍論」にある「不二なる摩訶衍(覚り)と圓圓性海(覚りの結果)は不可説である」との言はかなっている。所謂る因分可説(覚前の姿は説くことができる)とは顯教の分齊である。果性不可説(覚りの結果は説くことができない)とは即ち是れ密藏の本分也。何故か然か知るとならば、金剛頂經に分明に説くが故である。智恵のある者、審かに之を思え)