されば唐の徳宗の代に般若三蔵(元の名をPrajnaプラジニャーという)この一品を訳出せしものは、かの四十華厳経である。随って文相廣漠義趣深奥なるも、且らく探玄記(華厳経探玄記。法蔵の著した華厳経(六十巻本)の注釈書)にこの一品を本質と末会徒に分てる説に依れば最初本会には、
釈迦如来舎衛城の祇樹給孤独園の大荘厳重閣講堂に住し、普賢、文殊等の五百の菩薩声聞乃至無量の天王等の眷属に囲繞せられ、獅子奮迅三昧に入り、広大なる佛國を現成し、会中の諸菩薩等頓に法界を證する頓入法界の法門を明かし、
その末会には善財童子五十三の善智識を歴訪し、つひに法界に證入する漸入法界の義を開説せられたるものである。
しかして善財童子の歴訪せる五十三の知識中の第一は文殊菩薩にして、また最後に善財童子を普賢の道場へ引誘せしものは文殊菩薩である。文殊菩薩は善財童子を普賢菩薩の道場へ導きし後、その身を隠してまた現ぜず、ここに善財童子普賢の道場に入り、自の善根力と佛の威神力と普賢菩薩の加持力により、不可思議の瑞相を見、広大なる普賢菩薩の身を観たてまつり、清浄の法身を観じてつひに不可説不可思議の如来の果界(不思議な覚りの世界)に證入することを得たり。善財童子は最初文殊菩薩に、菩提心を発起せしめられ、最後に文殊に誘われて普賢の道場に入り、清浄法身を観じて毘盧遮那果界(大日如来の覚りの世界)に帰入せしは、これ文殊の智に依って普賢の理に契證せしめしものである。即ち能證の智より所證の理(覚る側の智慧から覚られる世界)に冥合し、能所双泯・理智相融(覚られるものと覚るもの・覚られる世界と覚る智慧が融合一体となり)、つひに毘盧遮那の果界に帰入せしものである。
釈迦如来舎衛城の祇樹給孤独園の大荘厳重閣講堂に住し、普賢、文殊等の五百の菩薩声聞乃至無量の天王等の眷属に囲繞せられ、獅子奮迅三昧に入り、広大なる佛國を現成し、会中の諸菩薩等頓に法界を證する頓入法界の法門を明かし、
その末会には善財童子五十三の善智識を歴訪し、つひに法界に證入する漸入法界の義を開説せられたるものである。
しかして善財童子の歴訪せる五十三の知識中の第一は文殊菩薩にして、また最後に善財童子を普賢の道場へ引誘せしものは文殊菩薩である。文殊菩薩は善財童子を普賢菩薩の道場へ導きし後、その身を隠してまた現ぜず、ここに善財童子普賢の道場に入り、自の善根力と佛の威神力と普賢菩薩の加持力により、不可思議の瑞相を見、広大なる普賢菩薩の身を観たてまつり、清浄の法身を観じてつひに不可説不可思議の如来の果界(不思議な覚りの世界)に證入することを得たり。善財童子は最初文殊菩薩に、菩提心を発起せしめられ、最後に文殊に誘われて普賢の道場に入り、清浄法身を観じて毘盧遮那果界(大日如来の覚りの世界)に帰入せしは、これ文殊の智に依って普賢の理に契證せしめしものである。即ち能證の智より所證の理(覚る側の智慧から覚られる世界)に冥合し、能所双泯・理智相融(覚られるものと覚るもの・覚られる世界と覚る智慧が融合一体となり)、つひに毘盧遮那の果界に帰入せしものである。