福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音霊験記真鈔32/33

2024-05-02 | 諸経

観音霊験記真鈔32/33

西國三十一番江州長命寺聖観音像御身長三尺(約91㎝)。

釋して云く、明眼論に云く、二には事の観音の用を述す。或は妙覚果満の世尊と為り、方城を示て西方に住し、國土を浄めて寶座を飾る。

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是より事の観音の徳を述す。此の徳用を明す中に於て十七相あり。此文は其の一相なり。理趣釈經に云く、観自在王如来を無量壽と名く、浄妙佛國土に於て佛身を現じ、雜染五濁世界に住し則ち觀自在菩薩と為る」(大樂金剛不空眞實三昧耶經般若波羅蜜多理趣釋「時婆伽梵者如前所釋。得自性清淨法性如來者。是觀自在王如來異名。則此佛名無量壽。如來若於淨妙佛國土。現成佛身。住雜染五濁世界。則爲觀自在菩薩」)。辨財天經に云ふ、佛、大衆諸大菩薩に告て言く、此の神王に於いて軽慢を作すこと莫れ。此の神王は西方浄刹に在して無量壽佛と號す。娑婆世界に在ては如意輪観音と稱す矣。論に或いは等覺不足の地位に居す、とは是第二の相なり。等覚の十一地は古人の云く、未だ一分の無明を盡さず。羅穀を隔つるが如し(釋摩訶衍論勘注「等覺菩薩猶未能測。如隔羅穀觀月等事」)。今此の菩薩は故意にして此れ不足地に住し出世の心を忘れて常に世間に住すること衆生の為なり。観経疏に云く、菩薩二相を欠く。謂く二相とは頂上の肉髻無見頂相なり。是不足地に居することを表す(觀無量壽佛經義疏「唯頂上肉髻及無見頂相不及世尊」)。西國三十一番目近江國蒲生郡長命寺三尺聖観音の像は聖徳太子の御開基なり。然れば太子諸國を遍歴し玉ふ時、此の地に付て霊光赫奕たり。不思議の事に思し召して是を御覧ずるに異木ありて光を放つ。取り上げて是を御覧すれば聖観音の種子あり。其の下に壽命長遠諸願成就と云銘文あり。是観音の像木とおぼしめし刀にて刻まんとしたまへども恐れ多く思玉ひ謹んで此木を禮拝なされ宿願して言はく、我観音の像を刻み此の地に安置し奉らんと欲す。しかれども斯く」ありがたき靈木に刀を入れ申すこと如何と存じたてまつる故に聖意をうかがひ奉ると。しばらく観念に在ますところに虚空より如是に所願成就と一聲して躰は不見、夫れより手ずから観音の像を刻みて一宇を建立なされ、右の銘文の字をかただり長命寺と名け玉ふとなり。然れば則ち一度此の観音に参詣する輩らは現世にては壽命長遠にして諸の災難を遁れ未来は成佛を得て快楽不退の身とならんこと聊かも疑ひなきものなり。

「八千歳や 柳に長き 命寺 はこぶあゆみのかざしなるらん

私に云く、歌の意は上の句に「八千歳」とは長命と云ん詞の縁なるべし。「柳に長き」とは柳の枝のながきによそへてしか云ふ也。下の句に「はこぶあゆみのかざし」とは謂く、はこぶあゆみのしるべと云ふ心なるべきか。古歌などに花をかざりにする心もあるべし。又は挿ぞ多き花衣とも云へり(謡曲・百万「立ちこそ続け小忌の袖、かざしぞ多き花衣」)。挿(さしざむ・かざし)とも訓り。但し爰にては「かざり」の心はあしかるべし。」ただしるべなどの心に軽く見てよかるべし。所詮裏の意は観音の利益にあずかれば現當二世の壽命ともに長くさかゆること是偏にたのむ心の信あるべしと云ふ義なるべきか。古歌に

「あさみどり 糸より掛けて白露の 玉にもぬける 春の柳か」(浅緑糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春の柳か (古今和歌集:僧正遍照))。又心敬の発句に

「挿(かざして)ぞ 老は遠山櫻人」

西國の歌に引き合わすべし。

 

 

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