福聚講

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神道は祭天の古俗(明治24年)・・1

2018-06-01 | 法話
神道は祭天の古俗(明治24年)・・1

文科大学(東京大学)教授  久 米 邦 武    

日本は敬神崇仏の国なり、国史は其中より発達したるに、是迄の歴史家は其沿革を稽ふることを忽にしたる故に、事の淵底に究め至らぬを免れず。因て爰に其概略を論ずべし。
敬神は日本固有の風俗なり、中比に佛教を外国より伝へ、合せて政道の基本となりたり。其は聖徳太子の憲法に始まり、大化の令に定まる、大旨は格の孝謙帝詔に 神護二年七月 〔攘災招福必憑幽冥、敬神尊佛清浄爲先。云云〕(災いを払い福を招くは必ず幽冥に憑る。敬神尊佛は清浄を先となせ。続日本紀巻九に「神亀二年(七二五)七月戊戌【十七】》○戊戌。詔七道諸国。除寃祈祥。必憑幽冥。敬神尊仏。清浄為先。今聞。諸国神祇社内。多有穢臭。及放雑畜。敬神之礼。豈如是乎。宜国司長官自執幣帛。慎致清掃。常為歳事。又諸寺院限。勤加掃浄。仍令僧尼読金光明経。若無此経者。便転最勝王経。令国家平安也」とあり。)、また桓武帝の詔に「攘災殖福仏教尤勝。誘善利生無如斯道」(災いを攘い福を殖やすは仏教が尤も勝れる。善を誘い生に利するはこの道に如くはなし。日本後記卷十三に「大同元年(八〇六)正月辛卯【廿六】》○辛卯。勅。攘災植福。佛教最勝。誘善利生。無如斯道。但夫諸佛所以出現於世。欲令一切衆生悟一如之理。然衆生之機。或利或鈍。故如來之説。有頓有漸。所有經論。所趣不同。開門雖異。遂期菩提。譬猶大醫隨病與藥。設方萬殊。共期濟命。今欲興隆佛法。利樂群生。凡此諸業。廢一不可。宜華嚴業二人。天臺業二人。律業二人。三論業三人。法相業三人。分業勸催。共令競學。仍須各依本業疏。讀法華金光明二部經。漢音及訓。經論之中。問大義十條。通五以上者。乃聽得度。縱如二業中无及第者。闕置其分。當年勿度。省寮僧綱。相對案記。待有其人。後年重度。遂不得令彼此相奪廢絶其業。若有習義殊高。勿限漢音。受戒之後。皆令先必讀誦二部戒本。諳案一卷。羯摩四分律鈔。更試十二條。本業十條。戒律二條。通七以上者。依次差任立義複講及諸國講師。雖通本業。不習戒律者。莫聽任用。自今以後。永爲恒例。」とある。)〕とあるにて、神佛の別を見るべし。葢神道は宗教に非ず、故に誘善利生の旨なし、只天を祭り、攘災招福の秡を爲すまでなれば、佛教と竝行はれて少しも相戻らす。故に敬神崇佛を王政の基本となして、今日に至りたる習俗は、臣民に結ひ着て、堅固なる国体となれり。然れども神の事には、迷溺したる謬説の多きものなれば、神道佛教儒学に偏信の意念を去りて、公正に考へるは、史学の責任なるべし。因て爰に現在の国民、敬神の結習より、遡りて東洋祭天の古俗を尋究し、朝廷の大典たる、新嘗祭・神嘗祭・大嘗会の起り、伊勢内外宮・及び賢所は、みな祭天の宮にして、諸神社に鏡王剣を神礼に象る由来、神道には地祇紋人鬼を崇拝する習俗なく、死穢・諸穢を忌避て潔癖を生じ、秡除を科する法より弊風を生じ、利害交ありて、人智の発達するに従ひ、儒学・仏教・陰陽道等を伝て、其缺乏を補完矯正するの必要に論及し、千余百年来敬神崇仏の国となりて、今に至るまで、敬神の道は崇佛と並行はれて、隆替なきことの考を述ん。


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