・「平家物語・高野槇」「瓦に松生ひ垣に苔生むして、星霜久しく思えたり。昔延喜の帝の御時、御夢想の御告げあつて、檜皮色の御衣を参させ給ふに、勅使中納言資澄卿、般若寺の僧正観賢を相具して、この御山に上り、御廟の扉を押し開き、御衣を着せ奉らんとしけるに、霧厚う隔たつて、大師拝させ給はず。ときに観賢深く愁涙して、「我悲母の胎内を出でて、師匠の室に入つしよりこの方、いまだ禁戒を犯ぜず、さればなどか拝み奉らざ . . . 本文を読む
今日弘仁元年810十月二十七日はお大師様(三十七歳)が「国家の奉為に修法せんと請ふ表」を上表された日です。この文の中に在る通り、のち12月1日より勅許を得て高尾山で修法が始まっています。お大師様は「国家の奉為に修法せんと請ふ表」で、佛の教えにより、「国」、「家庭」、「自他」を同時に救う道があると喝破されています。「国家の奉為に修法せんと請ふ表」(性霊集第四)「沙門空海言す。空海幸に先帝の造雨に沐し . . . 本文を読む
今日は御廟を開扉して大師号を読み上げ御衣をお着せ申し上げた日
高野春秋(延喜二十一年921十月)「二十七日、勅使及び観賢座主奥院に詣ず。・・勅使及僧都唐櫃を昇持せしめ御拝殿に著く。観賢僧都座より起ち欽びて廟扉を排し勅衣を備奉る。扶閑宣命を読み上ぐ『勅す。琴絃旣に絕へ、遺音更に淸し。蘭叢(らんそう)凋むと雖も、餘香猶ほ播しく。故贈大僧正法印大和尙位空海、煩惱を鎖弃(しょうき)し、驕貪を抛却して、三 . . . 本文を読む
「桓武天皇の奉為に太上御書の金字の法華を講ずる達親」(大師)
(先帝供養の法華講により先皇・桓武は成仏し、ひいては生類すべてにその功徳は及ぶとされています。)
沙門空海聞く、栗駄の蓮理(かりだ心)は湿凝(因果)を筌魚(経典)に貸り、大我の広神(佛の広大な知恵)は虚金を指兔に仮る(明智によって妄念を止めるべく経典を示された)。ここに爪章(長爪梵志の断見論)髪論(黄髪外道の論書)は . . . 本文を読む
・今日天長元年10月22日は大師が「笠の大夫、先妣の奉為に大曼荼羅を造り奉る願文」を書かれた日です。「弟子従五位上行左衛門の権の佐笠の朝臣仲守、金剛界蓮華部の四種曼荼羅に帰命し奉る。李桑が言籍はなお二辺の泥に滞り(老子は無の一辺に、孔子は有の一辺に滞っている)、勝数が典文はなお三有の水に溺る(勝論と数論はなお三界の迷いの世界である)。小家は小感し、大演は大時なり(小乗は自利のみで小涅槃のみ、大乗は . . . 本文を読む
高野春秋に
(延喜二十一年 922十月)「二十一日、勅。檜皮色法衣一襲、贈大僧正空海入定の庿所に贈賜せんと欲す、之を製裁せよ。天皇今暁霊夢叡感ある故也。御夢は大僧正来現して云く、帝我がために檜皮色御装束一襲を裁製し野山入定の庿所に贈賜せよ云々」とあります。
このとき大師は「高野山結ぶ庵に袖朽ちて こけの下にぞ 有明の月」と詠まれたとされ弘法大師御詠歌第二番となっています。
此 . . . 本文を読む
類聚国史に「淳和天皇弘仁十四年823十月癸巳十三日、皇后院に於いて大僧都空海法師に息災の法を行わせしむ。三日三夜なり。」
淳和天皇后・正子内親王は、第52代嵯峨天皇の皇女で弘仁14年(823年)頃、叔父の淳和天皇に入内し3人の皇子を産まれました。大師が息災の法を修せられたのはこの頃と思われます。 . . . 本文を読む
・今日弘仁12年(大師48歳)9月7日は大師が「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造る願文」を書かれた日です。御大師様は曼荼羅諸尊を画く行為は国家を擁護し衆生を覚らせる功徳があるとされています。われわれの写仏もこの数万分の一位の功徳はあるということです。「弟子苾芻空海両部の曼荼羅に帰命し奉る。それ金剛の四法身(自性・受用・変化・等流)、胎蔵の三秘印(字・印・形相)は空性に憩って軷祖(ばっそ・出発にあたり . . . 本文を読む
今日30日は大師が「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造する願文」を書かれた日です。「四恩の奉為に二部の大曼荼羅を造する願文」奉為四恩造二部大曼荼羅弟子苾蒭空海両部曼荼羅に帰命し奉るそれ金剛の四法身(自性・受用・変化・等流法身)、胎蔵の三秘印(法・三昧耶・大曼荼羅)は空性に憩って軷祖(ばっそ・発心)し、重如(真如)に秣って以て脂轄(しかつ・車に油指す)す。一道無為は初入の門(天台は密教の入門)三自本覚は . . . 本文を読む
お大師様は、紀州高野山開創に当たり、有縁の人々の支援を求るべく「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」を今日8月23日書かれています。「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」 の全文です。「夫れ諸仏の事業は、 大慈を以て先と為し、 菩薩の行願は、 大悲を以て本と為す。 慈は能よく楽を与へ、 悲は能く苦を抜く。 抜苦与楽の基、 人に正路を示す、 是なり。 謂いう所の正路に、 二種有り。 一には定慧門、 二には福 . . . 本文を読む
『高野山万灯会願文』です。「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いも尽きなん」とあります。「つつしんで聞く、黒暗は生死の源、遍明は円寂の本なり。その元始を原たずぬればおのおの因縁あり。日燈空に擎げて唯一天の暗を除き、月鏡漢に懸けて誰か三千の明をなさん(月が出ても三千世界を照らすことは出来ない)。大日遍く法界を照らし、 智鏡高く霊台に鑑みるがごときに至っては、内外の障りことごとく除いて、自他の光普く挙 . . . 本文を読む
今日は大師が「法力に遠近なし」という見舞い状を出された日です。有名な「法力に遠近なし。千里すなわち咫尺なり」の句が出てきます。「藤原中納言(大師と渡唐した遣唐使・藤原葛野麿か)宛・年不明八月二十一日昨日使来る。伏して尊体の乖膳(病で食欲不振)を承りて、驚憂を助し奉る。すなわち諸の弟子等を率いて仰ぎて三宝に対して精しく祈願を事とあう。法力遠近なし。千里すなわち咫尺なり。冥神善を護る(冥界の神は善なる . . . 本文を読む
「上宮太子廟参拝記文 嵯峨天皇の御宇、弘仁元年河内の国の聖所に於いて道場を建立し、籠居の處を卜する之間、上宮聖王の御廟に参詣する事一百箇日也。第九十六日の夜半一霊建有。御廟洞之内に微妙の小音有りて大般若理趣分を誦す。音に応じて光明在り。爰に空海祈念すらく、この妙事誰人の所為ぞや。願わくは我に示せと。所願に応じて廟窟の前に一の光明輪あり。美妙の音有りて唱えて言はく、我は是れ救世大悲の垂迹なり。我 . . . 本文を読む
・今日延暦二十四年八月十日は大師(32歳)が遍照金剛の灌頂名を受けられた日です。(弘法大師御伝に(延暦二十四年805)「八月上旬、亦伝法阿闍梨位の灌頂を受け、即ち遍照金剛の密号を得る。是日五百僧の斎を設け普く四衆に供ず。・・」及び、「弘法大師全集年譜」に依る) . . . 本文を読む
弘仁三年812、七月二十九日は大師が勅により「急就章」等十巻を献上された日です。高野大師御廣傳に「弘仁三年七月二十九日、勅により雑文を献ず。其の状に云[ 雑文を献ずる表急就章一巻、王昌齢が集一巻、雑詩集四巻、朱畫(唐の詩人)の詩一巻、朱千乗(唐の詩人)の詩一巻、雑文一枚一巻、王智章の詩一巻、讃一巻、詔勅一巻、訳経圖記一巻、右伏して昨日の進止を承って探り得るに随ってかつ奉進す。遺るところの表啓等は零 . . . 本文を読む