写経の誓と家族の供養により穴から出られた話
「今昔物語集・巻十四・美作国鉄掘入穴法花力出穴語 第九」
「今昔、美作の国英多の郡に、鉄を採る山有り。安倍の天皇の御代に、国の司・・・と云ふ人、民十人を召て、彼の山に入れて、鉄を掘らしむ。民等、穴に入りて鉄を掘る間、俄に穴の口崩れ塞がるに、穴に入れる鉄掘の民等、恐れ迷て競ひ出る間、九人は既に出ぬ。今一人は遅く出でて、穴崩れ合て出得ずして止ぬ。国の司よ . . . 本文を読む
・・・そのうち自分の体が頭から二つに割れはじめタタターと脚のところまで割れてしまったのが見えます。主治医の先生は畳に手をつき眼鏡をはずして泣いています。兄もきていて廊下でハンカチを眼にあてて泣いています。・・・ . . . 本文を読む
58番住職のお話「先日広島の国安さんと云う人がお参りにきた。其の人は30年前に内臓が溶ける病気になり、奥さんの手押し車で四国を回っていたが、当58番仙遊寺は手押し車では登れないので参道では這いながら登ったが、途中寺の入り口の岩で滑り落ちたが其の時躰は治っていて立てた。其の後お礼に足の指を失うまで行をおこなったということでした。」
60番横峯寺住職のお話「先日、交通事故で首が横になったままで半身不 . . . 本文を読む
「拝めば必ずお陰は有る」実証
以前「拝めば必ずお陰は有る」という記事を出しました
https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/a1361f4be7f6f2b028c446dcfa74dc9c
このことを実感させれた事を記録しておきます。
身近なことですが、昨年より緊急に拝み続けていたことが最近見事に成就しました。やはりありがたい . . . 本文を読む
「今昔物語集巻十四、僧長義、金剛般若の験に依り盲を開きし語 第卅三」
今昔、奈良の右京の薬師寺に、一人の僧有けり。名をば長義と云ふ。
年来、寺に住して有る間に、宝亀三年と云ふ年、俄に長義が両目盲て、物を見る事を得ず。然れば、長義、日夜に此れを歎き悲むで、医師を請じて医(くすり)を以て療治すと云へども、其の験無くして、五月を経ぬ。
其の時に、長義、心に思はく、「我れ、前世の悪因に依て盲と成れり . . . 本文を読む
日本霊異記第十四「僧の心経を憶持し現報を得て奇しき事を示しし縁」
「釈義覚は本百済の人なりき。其の国破れし時に、後の岡本の宮に宇御(あめのしたおさ)めたまひし天皇のみ代に当りて、我が聖朝(みかど)に入り、難破の百済寺に住りき。法師は身の長七尺ありて、広く仏教を学び、心般若経を念誦せり。時に同じ寺の僧慧義といふひと有りき。独り夜半を以て出で行く。因りて室の中を見るに、光明照り耀く。僧乃ち之を怪しび . . . 本文を読む
日頃健康自慢の夫は53歳で末期の肝臓がんで他界した。高校3年の息子と私が残され私は夫の経営していた鉄工所の仕事に取り組まざるを得なかった。しかし家庭の主婦が男の従業員を使いこなす事は至難の技で毎日が針の筵だった。敏腕職人を引き抜かれ後補充に徹夜で走り回ったこともあった。何とか此れを切り抜けた矢先、大量の従業員を引き抜かれついに廃業せざるを得なくなった。このころ社会人となった息子にたびたび見合いの話 . . . 本文を読む
金剛般若経の霊験
1,806年崇道天皇追悼彼岸法要に全國国分寺で金剛般若経を7日間読誦させています。日本後紀卷十三に、「大同元年(806)三月辛巳【十七】》○辛巳。勅。・・・奉爲崇道天皇。令諸國國分寺僧春秋二仲月別七日。讀金剛般若經。・・」2、続日本紀には疫病退散の為に聖武天皇が諸大寺に於いて「金剛般若經を讀しむ」とあります。續日本紀「天平七年(735・聖武)八月乙未、勅して日く「如聞、比日太宰 . . . 本文を読む
今日、弘仁四年三月十五日は大師が清涼殿に於いて即身成仏を示された日です孔雀経音義には『帰唐之時。欲興眞言宗之間。諸宗皆併集朝庭。共疑即身成佛義。仍大師結智拳印。向於南方。面門俄開。成金色毘盧舍那。放眉間白豪相光。爰一人諸臣。七宗衆徒。驚下於地。皆悉禮拜。』とあります。・「弘法大師伝」には「清涼殿即身成仏の事、・・弘仁四年三月十五日、・・陛下は仏法帰依の志の篤いかたでありましたから仏法についてお尋ね . . . 本文を読む
大師の霊験(「真言宗伝道団・明治45年出版)」より趣意
京都市に北村庄太郎という人がいた。義理の息子に政次郎という連れ子がいたがこの子は11歳で菓子屋に奉公に出た。そして父庄太郎は明治27年日清戦争に出征の身となった。継嗣の政治郎は奉公先で手首を痛め治らなくなってしまった。しかし政治郎は幼いながらも信心深かったので、東寺の御影堂に朝夕二回の祈願を30日続けたところ手首 . . . 本文を読む
「清滝不動尊のこと・・三沢智証最乗寺単頭」(大法輪平成2年1月号)「小田原の道了尊として天狗の現世利益で知られる大雄山最乗寺の境内に清滝不動尊が木曾の御岳山から勧請されたのは、明治40年5月であった。これは道了尊講中の東京一心講が御岳山にも参拝していた因縁と、日露戦争の戦死者の慰霊、生還御礼のためでもあった。東京一心講の秋元正夫氏の霊験譚がある。・・氏のはなしである。『私は十四才ころから近くの丸浜 . . . 本文を読む
大師の霊験(「真言宗伝道団・明治45年出版)」より趣意
美作国に豪農で大西代助というものがいた。若年より体が弱く病身で悩んでいた。代助は「かねて説法を聴聞するに、病に三種あり。業病・鬼病・四大不調病。その中に四大不調病は薬で治ることもあるが、業病・鬼病は神仏のお恵みを受けねば平癒せぬと。我が病もこれだけ医者にかかっても平癒せぬのは業病であろうから、このうえはお四国参り . . . 本文を読む
今日(天長六年二月二十八日)は大極殿において大般若経を転読させた日です。日本紀略に「日本後記三十七、酉巳六年(天長6年、829年)二月戊寅(2月28日)僧百口、沙弥百口を請じて大極殿(朝廷の正殿)に於いて大般若経を奉読せしむ。以て甘雨を祈る也。」当時は宮中の中心で読経するのは当たり前でした。大師は天長元年に神泉苑で請雨法を修されて雨を降らせておられますから、この時も導師をされていたのではと思われま . . . 本文を読む